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都立日比谷、西絶対合格への道/都立小石川中等、桜修館は確実にとれる/言い訳をする子はなぜ伸びないのか

2017.10.13

 おはようございます。いよいよ秋の雨のリズムに入りました。気温も15℃まで下がりました。これから一雨毎に気温が下がります。子どもたちにはこの変化がもたらす影響は計り知れないものがあり、これからは突然の発熱という事態が増えていくものと思われます。要は、体を冷やさないことであり、少し汗ばむ程度がいいと心得て、薄着をしないことです。

 さて今日は渋谷Bの指導日です。生憎の雨ですが、雨量1ですからたいしたことはありません。傘で見通しが悪くなっていますから、気をつけてください。

 本日はもう10月13日で10月も駆け足で過ぎていきます。小6のみなさんは全員早稲田進学会の模試を受けてください。11月からは、九段、富士、白鷗受検のみなさんは大原の模試も併用してください。それから模試の結果を報告してこない小6が複数いますが、模試の結果がどんなに悪くても報告だけはしてください。報告がなければわたしの手元に情報がないことになります。またいいときの情報だけ報告してくるときのわたしの立場とはいったい何なのでしょうか。

 最近わたしを驚かせているのは、渋谷Bの小6男子の「やる気」の喜ばしい限りの横溢さです。間が空くときなどはかなりの量のレジュメを持ち帰り、やりあげてきます。実は、正直これは渋谷Aの小6には「ない」ことです。あれだけ日数があったのに1枚のレジュメもやっていない、ということが渋谷Aにはあります。わたしはここで優秀だと目されてきた渋谷Aの子と仮合格ということで負い目を背負ってきた渋谷Bの子との逆転を目の当たりにすることになったのです。「できない」から頑張る、人の何倍も努力する、それがいい流れになってきたのです。誤解のないように申し述べておきますが、渋谷Bの小6女子もよく勉強しています、ただ男子の勉強に対する情熱があまりにも強烈でわたしが感嘆しているということです。

 確かに、能力の限界ということはあります。能力的なものを努力、プラス思考でどこまで克服できるのか、ここはわたしの測ることのできない領域のようにも思えます。とにかくどんな逆境でも「やる気」に満ちて取り組むという姿勢がBの男子にはあります。頭のいい子というのは軽薄にも先が見えてしまい「どうせやっても同じだ、結果は見えている」と何もしないものです。何もしないところから何も生まれないし、実は、先が見えていると決めつけるのも浅はかなもので現実には日々の努力がもたらす計算通りにはならない、想定外の結果というものがあるものなのです。

 小5のみなさん、特に、親御さんには言っておかねばなりません。決して「まだ小5だから」と勉強を先送りさせてほかのなにかを優先させるということをしてはならない。その意味は小6になってわかります。小6の秋、失速するのは、そうした先送りのもたらすものだからです。先送りというのは、要するに、積み残しを増やしていくことなのですが、この積み残しがある程度の量を越すと、失速となって表れます。もはや取り返しのつかない、打つ手のない状況です。

 これは中学にも言えることで、中3になる前というのは部活などでいくら先送りしても当面は顕現しないのでやり過ごすわけですけど、中3になって、定期テストの点が極端に悪い、内申がとれないということが露わになって、「どうしたのか」と親は慌てるけれど、なんのことはない、中2に先送りしていたからでしょ。中学の恐ろしいところは先送りしていても中2まではせいぜいやることが学校の授業で間に合うのでそこそこの成績がとれる、そのために事態の深刻さが顕現化しない、それで先送りしても親もそれほど深刻に感じない、ということです。

 それから最近指導していてわかってきたのは、国語の読解力が極端に低い、ということです。もしこの読解力なら思考そのものが浅くて、浅い作文しか書けないのも肯けることです。現在、竹の会では、国語読解力をつける目的で「読解の素」というレジュメを課していますが、採点してもほとんど正解がとれていない、それで「やり直し」と称して、ほぼ正解を丸写しして再提出してくるわけですけど、こんなことしていては永久に読解力なんか身につかないでしょ。できなかったら「悩みなさい」ということです。「読解の素」にしてもできなかったら、何十回でも読み返しなさい、ほんとうに何が書いてあるのかわかるまで読みなさい、ということです。ですから、やり直しは正解の丸写しなんかではなく、「7回読み直しました」とか、「ここの意味がまだわかりません」とかでしょ。形式的に正解丸写しなんかやってもだめです。

 そもそも読解力というのも、算数と同じで、とにかく意味をとるために何度でも読み返し、文と文のつながりを確かめ、また意味を考える、そういうことをやらなければならない。簡単に正解があって正解を見つけるのが読解なのではない。そもそもあの正解というのだって、わたしが作った問題にわたしがこれが正解だろうという例を示したに過ぎないものでしょ。わたしが書いた正解を神格化しないでほしい。一例です。あくまで一例です。国語というのは、算数と本質は変わりません。考えることです。言いかえれば、哲学することです。国語とは、哲学なんです。哲学とは人間の根源そのものについて思索を巡らすことにほかならない。読解力がないのはそうした哲学的深淵がとんとわからないからです。哲学がないから作文も書けないのです。 

 それから考えるということで言えば、問題を解くということを正解を出すと勘違いしている子がいます。一度出して×にする、そのときに答えが目に入ることがある、すると次に再提出してきたときに答えが一致していることがある、それで式を見てみるとわからない式が書いてある。整数の答が確かに式から出ている。しかし、実は、この整数の答は、割りきれないので四捨五入した結果出た答えであり、決して差し引き、加算して出てきたわけではない。だから式はでたらめなのに答だけが一致しているという奇妙なことになる。もし答がわかっていって式を後から作っていったのだとしたら、これは正解というものに振り回されて、問題を考えるということの意味を勘違いした愚かな行為だということになる。そしてそういうことをするのもまたそれはその子の能力的な限界を示すことになる。実は、昔からそういう子というのがよくいる。だからわたしもこれは難しいという問題に正解を持ってこられると疑っていろいろチェックすることになる。

 これまで算数にばかり直截指導してきたために、国語読解が疎かになったということかもしれない。そこで今思案しているのは、国語にも読解力をつけるための思考問題を創作して、直截指導できないか、ということである。そういうわけで今そのための準備をしています。もう少しお待ち下さい。

 ◎言い訳ばかり言う子は結局失速する、隠す子は失速する

 どんなに正当な言い訳であっても、勉強を先送りしていては先が見えている。先送りの実質は、勉強の不継続にほかならない。勉強の本質は、継続は力なり、不継続は力なし、に言い表されている。先送りというのは、積み残しを正当化しているということにほかならない。先送りばかりする子は先送りを正当化する言い訳ばかりがうまくなる。言い訳ばかりする子は実力の伴わない中身の空っぽの子にほかならない。積み残しの膨大化がもたらす弊害は甚大である。それは、ローンの支払いを怠る場合に似ている。ローンは総支払額を年月で除して月々の支払額を割り出す。この分割された支払額の支払いを怠ればどうなるか。遅延額にはさらに遅延利息が複利計算でつくから、これは大変な額になる。支払いが滞り、利息が利息を生み、もはや返済不能に陥る構造は勉強に同じ。勉強は日々の返済である。トータル(試験合格のために必要な勉強時間の総体)としての勉強量を分割して一日に振り分ける。勉強にも一日一日利息がつく。一日さぼればその損失はさぼった量ではおさまらない。勉強していれば得た知識が生み出すさまざまな目に見えない効果もないことになるから。勉強には一日一日相乗的に知の利息がつく。先送りによる積み残しの累積的増加は負の、すなわち本来つくはずであった知の利息もつかずに、諸々のマイナスのもたらす深刻な精神的ストレスが体調不良と自暴自棄、精神の不安定へと表れる。知の利息とは、知識の積み重ねが理解を加速する現象をとらえてのことであり、いわば知が知を生むことである。これこそ勉強の継続のもたらす最大の効果といえる。断続は敵なり。

 頭は使うべきときに使わねばすぐ錆びつく。「楽をする」からいけない。「楽」とは、頭を麻薬で麻痺させるに等しい、だれにも内在する恐ろしい脳のはたらきである。楽をすればするほど頭は病的に衰弱していく。楽を止めれば、麻薬と同じで、禁断症状に苦しむことになる。つまり楽は止められない。親が子に楽をすることを覚えさせる教育をしてどうなるのか。楽とは、律するという、人間が自律するために大切なはたらきを壊す毒である。律するとは、心の緊張を維持する人間の根源的な価値である。これを親の恣意的な、甘やかし、過保護で、もっとも涵養すべき年齢において、植えつけるのは、なんともおそろしいことではないか。いったん楽をすることを覚えた子どもは楽の誘惑から逃げられない。

 

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