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都立日比谷、都立西を獲る勉強とは/都立駒場合格に必要な最低のこと/勉強の型とは何か

2016.06.07

 一日お休みというのはとにかくうれしいものです。それは日々の指導の準備に追われて、いろいろやり残された仕事を片づけることができるからです。また一日のお休みは、竹の会の子どもたちひとりひとりの顔を思い浮かべながら現状を思い返し分析していく機会でもあります。どうもこの子には、今の思考力では「解けそうもない」とわたしが考えている、隠し問題があります。わたしのレジュメには、それまでの積み重ねの成否を問う問題が忍び込むようにひっそりと入れてあります。ここで子どもたちが「わからない」と言ったとき、その子の理解がまだ未完成であるということがたちどころにわかります。逆に、「これが解けたのか」とわたしを喜ばせることもある。その子の成長を実感するからである。ところが、他の問題のできを見ていると、わたしの隠し問題がどうして解けたのか、どうしても納得できないということがある。かつては他の子がたまたま同じ問題をやっていたとか、わたしが採点するときに開いている解答集を見たとか、そういうこともたびたびありました。わたしもそういうことが頻繁にあると、用心するようになりますが、それでも解いてきた、それがおかしい、ということはあるわけです。ひとつ考えられることは、家庭で親などが教えた可能性があるということである。以前にも言いましたが、わたしは現状の子どもの力を知りたいわけです。問題の答を出すのが目的ではない。どうやって自分の力で答を導きだしたのか、それがいちばん求められていることです。

 そのような試金石という問題が解けたのなら、それなりに思考力がついたと判定するわけですが、ところが、次の試金石問題では全く解けない、こういうことがある。それでわたしも先の試金石問題は本当に自分で解いたのだろうかと疑うわけです。親が教えて「できた」子どもの力を見たいわけではない。親が教えて「わかった」という子どもが、次の試金石問題では全く解けないということが問題なのである。親は勘違いしてはならない。解くことが目的ではなく、飽くまでも思考力をつけることが目的なのである。

 中学生の諸君で、一日5時間の勉強をすでにしていないという生徒は、もはや日比谷、西はあきらめたほうがいい。特に、受検を経験した諸君は、省力型の勉強をしていれば決して合格することはないということはもうわかっているはずである。小6の夏休み1日7時間を3時間、4時間そこそこに省力化した子たちは、それではそのようにして作った時間を何に使ったというのか。趣味ですか、それとも何もしないでだらだらしていましたか。

 さてそこで勉強とはである。勉強とは、いかにして自分を集中状態に置くか、これにつきる。あれやこれやと雑念に支配されている間は、集中しているとは言わない。学校の宿題のようなこなし仕事、ドリルなどは勉強とは言わない。勉強というのは、精神を集中させて思考することを言う。だから大切なのは、自分の集中のスタイルを作ることである。いったん机についたら、いったん集中を始めたら、もう何も耳に入らないほどに集中する、いったん勉強を始めたら何があってももう机から絶対に離れない、そういう型を守ることである。

 自分の勉強の型というものを作り上げた人を、ブレがない人という。部活で毎日ほとんど机につかないというバカは相手にしていない。少なくとも日比谷、西に行くという人ではありえない。中学になっても、部活、習い事、稽古事に追われて、ほとんど勉強しない人というのは、勉強で身を立てることは考えないほうがいい。

 中1に成り立ての頃は、みな「駒場に行きたい」「青山に行きたい」などと言うけれど、わたしも高校入試は30年以上やってきて、どういう人間が、駒場や青山に行けるのか、ということぐらいはわかっている。過去に青山に行ったという子たちを思い返しても、賢い子たちばかりであった。少なくとも高が中学くらいで「わからない」などと言うようでは、そういうところに行けるはずもない。また、成績が悪くても気にならない、そういう生徒は最初からない。

 勉強とは、いかにして集中状態に入り込むかの型を作り上げることである、と言った。「型」というのは、五郎丸の例のポーズと同じことだ。自分で型を作り、型を頑なに遵守すること、これが勉強で成功する極意である。高校生なら、すくなくとも一流国立大をめざすのなら、一日7時間は普通のことだ。わたしも中3のときは最低でも一日7時間をやってきた。そしたら1番になった。中1の頃、中2の頃の勉強は中途半端だったと思う。だから20番あたりをうろうろしていたのだと思う。550人中の20番である。

 勉強というのを実に甘く見ている親が多いことはよく知っている。少なくとも中学生になったらもう親のあれやこれやで子どもを掻き回してはならない。わたしの家も子どもが中学になったときから、家族旅行というものもなくなったし、実家帰省もいつもわたし一人きりだった。子どもは勉強を心配し決して親と一緒に行動することはなくなった。長男はなんとか新宿高校に入れたけれど、高校に入ると、学校から帰ると常に部屋に閉じこもり、勉強していた。それで新宿高校で学年1番になったと聞いたとき驚いたけれどさもありなんと納得もした。

 勉強というのはやり出したらいくら時間があっても足りない。それなのに省力化して、とにかく勉強しない時間というものをいくらでも作り出している人を見ると、成功するとは思えないのである。

 親の覚悟が足りない。それは親が勉強というものの本質を理解していないからだ。小学のとき、習い事や稽古事で勉強をいくらでも割愛してきた親子が成功するはずがない。勉強というのは、「適当」にやってれば致命的になる。1日時間があっても、3時間、4時間というのでは、あまりにも手抜き感がして到底成功するとは思えないのである。

 ところで中学生になって、そのような勉強のスタイルを作れるかは、これはもう小学4年、5年が勝負ということになる。この時期に、大手などに入れてしまえば、ろくなことにはならない。世の中には大手に入れたがる親ばかりだけれど、この時期にもっとも大切なことは、勉強するとは、どういうことなのかを教えることなのだ。授業受けて、ノートとるのが、勉強だなど勘違いしているから、ろくなことにはならないのである。

 とにかくこの時期は訓練する、鍛える、考えさせる、基本的なことを反復練習させる、そういう中から勉強というものの本質を悟らせる、これである。勉強というものが本気で取り組まなければとても一筋縄ではいかないということを身をもって知らしめるのである。習い事や稽古事のついでに適当にやっていてもいい点がとれるとか、そんな親子が成功するわけもないのだが、勉強というものをそういう風に教育する、しているということも悟らないアホである。

 小学4年、5年で勉強というものの正体をなんとか悟らせる。わからせる。もう必死になってやらなければとてもダメだ、それが勉強だということを教育する、それが親の仕事でしょ。ただ塾に通わせる、家庭教師をつけてやる、個人指導を頼む、形だけの勉強時間を整える、そんなことが勉強だなんて思っているから、大手に入れてもうほったらかしにできるのだ。教育なんてなんにもやってないでしょ。

 中学生諸君は、形だけ、形式だけの勉強時間を整えて、勉強しているなどと言ってはならない。自分で集中する儀式、型はできたであろうか。いったん集中を始めたら雷が落ちても気がつかないほどに勉強世界、精神世界、思考世界に入れるようになったであろうか。このときに初めて勉強というものがわかったといえる。形ばかりの5時間などを言ってほしくない。

 

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