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都立日比谷と小石川、桜修館、九段で燃え尽きるも可なり/気象予測が不可能な時代へ

2018.08.19

 休みの日は正直ほっとます。暑さが姿を隠したのを訝りながらまた姿を現すにちがいないと疑うのは気象予報というものが不可能なことをそろそろわたしたちが気がつき始めたことなのだろうと思います。気象予報士が嬉々として解説するのはまさに明白な危険が迫った時期なのです。結果論なのですね。予報という結果論です。

 夏期集中指導も後1週間ほどで終わります。夏の勉強の仕上がりはおそらくこれからの勉強の行方を決めるものと思われます。9月になると風景が一変します。竹の会ではやってはならないことがあります。「積み残し」です。しかし、毎年のように予定のノルマをこなせずに大量の積み残しをする子たちが出るのは誠に憂うべきことであります。すでに課題についても大きな差が出ていますが、指導レジュメについてこれずに大量に積み残している子たちのことを思うと気が重くなります。

 

🔵勉強のレースというのは、後から追い越せない

   多くの親は、これがわからない。まだ小4だから塾は早い、小5まで習い事を続けたい、こういう子は小6になっても週1度だけなどと言う。小5だからと実家帰省、なんでもいい、とにかく、勉強のレースというものがわかっていない親が多い。 早くスタートすること、そしたらもう休まず走り抜けること、高が1週間のことと思うのでしょう。しかし、それが間違いだというのはすぐに分かることです。一週間勉強を休んだ子と相変わらず一週間勉強を続けた子、その差、あなたたちが考えている数倍、数十倍の差かもしれません。人間というのは、休めば、次に始めるとき、前の続きから、ということにはなりません。休んだら途端に、忘れていく、これまで積み上げたものが、一瞬に消えてしまう。人間の脳というのは、そうできています。他方、続けていた方は、今度は、相乗的に深まる、相加的ではない、相乗です。これは、知識というのは、例えば、コンピューターのように、コンピュータを点けていれば、知識を画面に、メモリーいっぱい「ある」状態にできる。しかし、消した途端に、ゼロになる、これと似ている。 あなたたちは、先を走る人たちが、ドンドン引き離してもうずっと先を走っているのに、後からいつでも追いつき追い越せると、思っているとしか思えない、行動をとっています。しかし、勉強というレースの性質を考えると、すなわち継続していった者は道の深さを知り、中断すれば途端にゼロになるという性質、からは、あなたたちが考えているようには決してなりえない、ということです。 周回遅れ、何周回遅れの親子が、最初から、負け組として、そのことを知ってか知らずか、はたまた自分の都合の悪いことには背を向けて思考停止させることが常の慣いということか、こういう人たちが、圧倒的多数なことに安住して、多数がそうだと安心する凡人の、誠に勝手な思考回路が、罷り通っているわけです。 わたしの述べていることが、全くの空中楼閣な話しではないことは、竹の会では、毎年のように、繰り返されてきた事実を見ればわかることです。 頭もよく順調に指導も進み、課題もきちんと出している、ところが、ある時、家族旅行で休んだら、途端に、後から入会した子に追い越された、もう追い越すのは無理なくらいに先へ進まれてしまった、こうなるともう差は広がるばかりだ。旅行する家庭はまたやるから、さらに差は広がる。そして開いた差はもはや広がることはあっても縮まることはない。もはや追いつくことさえできない。これまで、このような、わかりきった、あまりにも陳腐な道を、まるで好んでいるとしか思えない風に進む人たちがいいました。たくさんいました。勉強というものの取り扱いを知らない人たちが、自己の浅い理解で、勉強をあしらって疑わなかった。 勉強というのは、いつも見ていなければ、ならない、ただそれだけ。ちょっとでも目を離せば、すぐ消えてしまう。とにかく目を離してはいけない。いつも見る。これが勉強との付き合い方です。 そうなんです。まるで「ダルマさんが転んだ」のようです。見ているとじっとしている。しかし、少しでも目を離せば動く。勉強の場合は、自分の視界から消えてしまう。勉強は、いつも「見る」と言いましたが、かつて九州大の井上教授が、司法科試験を受けるために、借りた家にこもって昼夜勉強した話しは有名で、いつも「見ていなければ心配で、目が覚めたら枕元にあった読みかけの本を開いては見た」という話しが、わたしにはよく勉強の性質を捉えて余りある話しとして、ずっと脳裏から離れたことはなかった。ひとたび何かの試験を目指して勉強を始めたなら、もう勉強から、目を離してはいけない。いつも本を見ていなければならない。それが勉強の本来のありようです。ところが、一般の皆さん、凡人の皆さんは、あまりにもこれを無視なさる。蔑ろにしている。平気で勉強を中断する。何日でも中断する。勉強をしない日が何日でもある。中学で部活を口実に勉強しない生徒なら腐るほどいる。こういう人たちが、勉強で身を立てることなどありえない。また家族の行事を優先させる家庭はそれは結構なことですが、しかし勉強で成功することはない。勉強を蔑ろにしていることは変わらないからです。受検、受験というのに、小6あるいは中3になっても、習い事、稽古事あるいは部活を続ける、時間を減らして勉強に気を使うようなことを言いながら続ける、さても勉強を侮った態度のことよ、あるいはどれだけ自分が、あるいは自分の子が、天才と思っているのか。そもそも勉強というのは、自らの判断で、危険を察知し、予感し、陥る失敗の道をかろうじて避けながら、なんとか正しい道から外れないようにする、そういうものなのではないか。 試験に落ちた子というのは、勉強と稽古事などを適当にやって受かると信じているようですし、家庭もそういう子どもの態度を容認し、あるいは家庭が主導してそのような生活姿勢を支持している、節もある。こういう子が受かることはないし、不思議なのは、こういう子が落ちたとき、とにかく泣く、その図々しいとも思われる心情に、わたしは憐れみを禁じ得ない、のが正直な告白である。 あなたたちが、休んでいる間も、休まずに黙々と勉強を続けている人たちが「いる」ということです。あなたたちはそういう人たちに本当に勝てると思っていたのでしょうか。もしそういう人たちが、知能の高い人たちだったら、どうなのでしょうか。あなたたちが、普通の人だったらどうなのですか。普通の人でも、学校では優等生というのが、現状ということは置いておきます。 さらには、どんなに知能が高くても、怠け者なら成功した試しがない、ということも、置いておきましょう。 勉強は、悲しいくらいに、あなたにいつもいつも見ていてほしい、そういう、ものです、 芸は身を助く、と言います、が、勉強は身を助く、というのが、わたしの持論です。勉強という道を歩むなら、歩み出したら、もう黙々と進むだけです。脇目を振らずに進むしかないのです。

🔵自分のすることが、当然だと思っている、人たちがいる

 あなたたちが、当たり前、当然だと思っていることが、実は、当たり前ではない、そういうことばかりという話しです。

 一つの例です。好き嫌いが、激しい子の、結末はどんなものでしょうか。 子どもの好き嫌いは、可愛くもあるが、困ったものと思う。好き嫌いは、勉強には、いいことはない。数学が嫌い、国語が嫌い、そんな子たちが、中学で勉強に成功することはないでしょ。基本の勉強、基礎の勉強で好きも嫌いもない。好き嫌いを言う人は、基本的なところ、こういうところはもう好き嫌いで排除できないもの、誰もがやっておかなければならないこと、だということを理解していない。子どもの好き嫌いをまるで、特別なことのように、言い募る親の言葉が、勘違いした子の優越感をくすぐる。好き嫌いがやがて子の身を滅ぼすことになる、ことがわかっていない。こういう親はだからバカだと言っている。 高校になると、理系だの、文系だの、言うけれど、わたしどもの時代は、国立文系でも、数学も物理も化学も受験科目だった。 当時は、私立文系は、国語と英語と社会だけだったから、数学のできない奴が私大文系に行くと決まっていた。 好き嫌いのなんとも見事な制度化ではないか。 今の制度では、中学までは、オールラウンドプレイヤーであることが、絶対要件である。9科目の全てに5をとる、ほどにバランスのいい子が成功することになっている。今のトップ都立はそういう子たちを選ぶ制度である。そもそも中学の勉強の程度は、科目は分かれていても、なにみな基本の基しかやらない。これで苦手もない。苦手なんか言うのは、学問のイロハも知らない、好き嫌いで、蝶よ花よと育てられたバカ息子、バカ娘だけである。 自分には、物理の才能はないとから、化学はダメだとか、悟るのは、高校になっての話しでしょ。 中学で何言ってるのか、親も親で、小学生の頃から、平気で「この子は何々が嫌いだから」などと言う。自分の子をそんな風に育てたことを少しは恥じれば普通の人だと思うけど、なにかそれが当たり前みたいなことを言う、 のがかんに障る。よくいるのが、「うちの子は特別だから」意識で凝り固まった親、これはもう相手にしてはならない。

🔵失敗の定番 「積み残し」をした人たちの想定されたとおりの失速から奈落の底への定型コース

 落ちる人というのは、大量の積み残しに象徴される。 頭が悪ければ当然積み残すことになる。しかし過去の積み残しをして追い詰められていった人というのは、頭は悪くはないのに、積み残しをしていった人たちである。頭が悪い子にはわたしは積み残しをするほどのノルマは課さないし、消化不良にならないように様子を見ながらということをやるので積み残しはもともと問題にはならない。例えば、野球をやっていて、積み残しがたまっていったとか、定期的な習い事、稽古事を続けていたとか、何かと学校行事や家庭の事情を優先させてきたとか、あるいは特に何もないけれど勉強とは距離を置きがちであったとか、そういう人たちである。頭はむしろいい子たちにこの傾向が強い。家庭でも平気で勉強を中断させるような行事を優先させる。正直わたしはその度にどれだけ失望してきたであろうか。

 それで受かると思っているのが、わたしには理解できない。 なぜ落ちたのか これほど明瞭なことはない。 これだけ積み残しをすれば、落ちるのは当たり前である。 課題をやらない人は課題は積む事もしない、が、これも積み残しにほかならないが、他の積み残しが不作為なのと違って、作為に近い不作である。 毎回の指導レジュメを出せないままに、周回遅れを常とする子は積み残しの常習者であるが、こういう子たちが家庭で積み残し解消の努力をすることは、ほとんどない。こういう子たちに限って、いろいろと習い事、稽古事があり、家庭は、積み残しを解消するところではなく、積み残しを助長するところにほかならない。家庭で一切進められずに、塾に来たときだけが事実上の勉強ということは、前回の指導の続きを何日か経た次の指導でやっているのを見ればわかる。 さて、こうして積み残しの構造が、明らかにされたとして、不思議なのは、こういう積み残しを暗に黙認している家庭ほど、合格への期待は本番が近づくほどに高まり、もう合格への期待は100%の飽和して、家族一丸となって合格を待つ態勢である。わたしには、こういう家庭の心理というのがどうしても理解できない。わたしから見て、落ちて当然と思えるのに、どうしてそんなに期待できるのだであろうか。こういう家庭は落ちたときのショックは一様に大きく、当の子の嘆きもまた大きなものであった。わたしにはさっぱりわからない家庭の話しです。あれだけの積み残しをしてきたのを忘れているのだろうか、と不思議に思ってしまう。なんとも試験を自分の都合のいいように思い描いたものだ。 試験に合格するのは、積み残しをしないこと、ただそれだけです。頭のいい子も悪い子も、いつももっともらしい言い訳を言って、積み残しの事実を繕います。家庭の事情という言い訳、試合という言い訳、発表会という言い訳、なんでもいいのです。そんなことは、勉強に対する言い訳になっていないことはわかっていますから、周りの誰かに言いたいだけです。言い訳で、合格ができるわけではありません。

 

 

 

 

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