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都立日比谷の受験資格/小石川中等の受検資格/学年という学力の区切りの無意味/本物の集中力が勝利をもたらす

2017.10.27

 おはようございます。秋晴れです。気温の変化が子どもたちや大人さえも体調不良の引き金となる、特に大人は規則正しい生活をすることが困難なゆえに自滅とも思える生活を余儀なくされます。わたしも例外ではなく目の前に大量の未処理案件が立ちはだかり少し憂鬱になりながらもひとつひとつを片づけていく毎日です。

 もうすぐ10月も終わり、受検前3か月を残すのみとなりました。11月と12月と1月、この3か月しかありません。もうできることはそう多くはない。この3か月を意味あるものとするためにわたしたちはこれまで思考力を培うことに全力を傾けてきたのです。いや全力を傾けてきたという人のみがこの3か月を完璧なまで生かす過ごし方ができるのです。

 もう一度言います。これからの3か月でできることはもうありません。現小5のみなさんはよくそのことを見ておくことです。小6になって前へ進める勉強ができるのは、10月が限界なのだということをです。ですから、小5の今こそもうエンジンをフル回転させなければならない。よく親の陥る過ちに「まだ小5だから」という論理を大義名分とするということがあります。これは勉強の先送りによく使われる口実です。これを度々やっていますと、子どももそのつもりになる。小6のギリギリまで危機感のない子になる。やたらやり残しが多いのがその徴表です。

 進学研究会から受験資料が送られてきましたが、都立日比谷を見てみると、学校から推薦を受けた子たちが推薦合格を争うとしても競争倍率5倍弱です。面白いのはオール5の子たちの争いとなるとして、女子の内申が圧倒的にいいことである。公立中学では、一般的に女子の内申が高いとされています。昔からそうでした。実力はないのに内申がいいために日大櫻丘や日大鶴ヶ丘の推薦がとれたという女子ならいくらでもいました。こういう生徒に都立の数学なんか解かせてもほとんど点にならなかったものです。日大系列校もいまではかなりレベルが落ちました。れはやはり少子化と私立の定員の50%が推薦入学ということが大きい。一般受験で勝負するならやはり実力勝負です。とはいっても9科目中「5」は最低6個は必要でしょ。

 小石川中等を受検するというには、やはりその受検生の8割が私立難関の併願者であるということを考えなければならない。進学塾大手の早稲アカとかサピなどでも城北、巣鴨、芝中以上に合格判定をもらう子たちが集まるとみていい。そうなると私立難関を受験しないといっても、その受検資格は自ずと限られてくる。竹の会では、小石川を受けられるか、つまり受けて合格できるのか、というところをまずじっくりと診る。これは期間をかけて診る。その上でわたしが小石川合格可能と判断したら初めて小石川を受検できると伝える。小石川に関してはただの憧れで受検するのは自由だけれどやはりその資質がなければ受かることはない。驚くなかれ、竹の会には、今「小石川合格可能」とわたしが確信した小5が2名(AとB)、小4が1名(A)も出ている。小石川というのはなまじの子が受けてもどうにかなるところではない。

 竹の会では2018年2月を目安に新小4(つまり現在小3)の子を前倒しで募集していますが、新小4につきましては、2018年の夏までは募集を続ける予定です。最近感じるのはやはり小3や小4の親御さん、特にお母さん方かと思うのですが、やはり無策であるということに正直あきれています。学研とか公文とかに小1からずっと通わせているという方も多いのではないでしょうか。まあ、自宅のすぐ近くにそういうものはありますし、費用もさほどに高くないので、通わせる方は多い。あるいは地元にある個人塾に通っているという子もいる。もちろん圧倒的に多いのが大手に通う子たちでしょう。大手といっても、進学大手と公立中高一貫大手では中身はまったくちがいますけれど。それはそれでいいのですけれど、小4とか、小5になって、たまたま竹の会にきて入会試験を受けてみてわかるのはほとんどなんの学力もつけてこなかったという歴然とした事実のみです。通知表の成績もなんともよくもなく悪くもない、そういう状況に甘んじて特になすところもなかったということがよくわかります。あと、竹の会に入会試験を申し込まれる場合、わたしのブログでは再三8割基準を満たすことを求めていますけれど、最近は5割そこそこの子がよくくる。5割だとやはり無理だと思います。親御さんの熱意を汲んでなんとか仮合格で救済してあげたいと思ってもまるでできなければそれもできない。

 わたしが実感するのは今から二十年前の小学生と何も変わっていないということです。その昔わたしは公立小の子どもたちの学力の低さに唖然としたものです。通分を理解できない子、割合を理解できない子ばかりでした。学校の優等生と言われる子のレベルも低かった。割合も形式的に理解しているだけだった。そういうところがわたしが小学生に割合をどう理解させるかというライフワークに取り組むことになったきっかけなのですが、以後わたしは日夜それこそ血の滲むような研究をしてきたわけです。今の竹の会の指導体系というのはほとんどがその時期からわたしが取り組んできた研究成果なのです。

 よく親御さんは、「まだ小3だから」とか、「まだ小4だから」、そして「小4なので分数はまだ」、「小5なので割合はまだ」などと言いますけれど、まったくナンセンスな認識しか持ち合わせていない。そもそも学年の区別などというものは意味がない。学年ごとに学ぶべきことを決めてそれだけやるなんて馬鹿らしい話しです。ほんとうに頭のいい子には学年の区別による知識範囲の限定などありえない話しです。とてつもない逸材ではなくても、子どもというのはみな能力は千差万別であり、指導によってはいくらでも伸ばせる。なのに何故に学年にこだわって、学年に割り当てられたことしか教えないのか、考えられない暴挙である。前倒しで訓練していけば、早々と潜在的に眠っていた能力というものを一気に引き出せる、場合によっては、開花させることができるのに、なぜに小5、小6と眠らせたままにしておくのか、わたしにはさっぱりわかりません。親には「割合は6年生から」なんて本気で信じていて、学校が教えないことは今やる必要はない、と信じ込んでいるバカもいる。これもひとつの国家という権威に盲従したともいえる姿勢であるけれど、世の中には、進学教室に通わせる母親で、権威にしか動機づけられない権威バカがいるけれど、こういう親は結局子を使いものにならないバカ同様にしてしまう。有名塾とか、有名講師とか、何々医師とか、何々弁護士とか、何々高校の先生とか、そういうことばかり持ち出して権威付けしている。バカそのものである。話しは逸れたが、竹の会では、小4から難度最高レベルの計算をマスターさせるし、小4から割合を徹底的にたたきこむし、学年なんか関係ない。小4から鍛えてきた小5が、小6よりも難しい問題をすらすら解いている、ということが普通に起きているのが竹の会である。だからわたしは竹の会に来るなら早く来い、と言っている。小4から来たのと、小5からでは雲泥の差になることはわかりきっているからである。正直学校の優等生レベル、つまり8割基準を満たす子程度でも、小4から訓練しなければただのできない子どもである。これで大手などに行ったらもう一貫の終わりである。サピとか早稲アカなどの進学大手は超天才以外は潰される。天才が集まり合格しただけなのである。公立小の優等生程度では確実に潰れる。そういう子を生かす指導というのがあるのになぜに天才のための塾にやるのかわからない。竹の会は8割基準を満たす子が成功する塾である。内申が悪い子は竹の会は役には立たない。だから「よくできる」が5割前後なら竹の会にきてもしかたないし、そもそも入会試験にはまず受からない。7割弱なら仮合格で救済されるかもしれない。しかし、仮合格の子が成功するかはまるでわからない。ただ平成28年に富士と白鷗に合格した女子はともに準合格の子たちであった。準合格というのは、6問中3問正解、仮合格は2問ないし3問弱正解をいう。

 子どもの能力の進化を学年で固定するの愚を親はさとらない。だから平気で補習塾などに子どもを入れてしまう。学校の授業さえもわからない、ついていけない子というのがそういう塾に行くのだろうけれど、そうではない、まともな子をそういう塾に入れてどうするというのか。そんなぬるま湯に何年も浸けて正真正銘のバカに仕上げてそれにも気づかないのが昨今のバカ母親である。

 最後に、試験の合否を決めるものは何か、ということについて一言触れておきたい。勉強というか、試験というものは、最後は、集中した者が勝つ、これが真理である。これは勉強時間を言うときも、集中しての勉強時間が勝負ということである。わたしはよくこれを実働時間と呼んでいる。ひとつ例を挙げよう。実は、昨日はBの指導日だった。今週の月曜日にわたしは「撰」シリーズというレジュメを90回以降122回までBのある男子に渡した。その男子が昨日全部やりあげて出してきた。ほぼ8割の正解率であるから、いい加減にやったものでないことはすぐわかる。これがどんにすごいことなのかは、Aの子が指導日に、せいぜい2回分出せばふつうということを見ただけでもわかる。わたしはAの子たちにはかなりの量のレジュメを先渡ししているが、いつも前回の指導日の続きというのはいったいどうしたことなのか。わたしの不満というか、不完全燃焼感を一気にBの男子が霧散してくれたような気分です。本気で集中すればそんなのすぐ終わらせられるのに、なにをもたもたしているのか、集中してやる、ということがわかっていない。

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