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都立日比谷を攻略する/小石川への道/桜修館の攻め方/塾で子をだめにする親/無塾の子が貧困階級に取り込まれる社会

2018.04.07

 花粉酣はすでに過ぎたということもなかろうけれど今は市販の目薬と鼻炎スプレーでなんとか凌げています。このところすき間時間にはすぐ眠りに落ち込むのは、これまでに蓄積されてきた疲れが一気に噴き出しているのかと思います。それはよく疲れが原因で口内炎を起こしていた例に漏れずまた口内炎に見舞われていることからもわかります。少し休めればいいのですが、やることが多くてなかなかそうもいきません。このところ今年の夏の指導の計画策定に取り組んでいます。今夏より「夏期集中指導」ではなく「8月集中指導」と銘打ち、様々な学校行事が集中する7月下旬をお休みにする方向で計画策定をしております。家族旅行、実家帰省、その他の行事については、7月下旬にとれるように配慮した計画となっています。またこれまで指導の都度お渡ししていましたレジュメについても、現在配布中の「撰 第1巻」のように冊子として、先渡しし、独りでどんどんと進められるようにする、ようにしました。今年の受検で冬期に実施した「過去問合格法」は今年の指導でも取り入れることにし、早ければ8月には実施の予定です。また今年の受検では、算数シリーズを終わりきれなかった子たちが、苦戦したことに鑑み、今年はじっくりと規定のレジュメ(「その他編」)が終わるまで待つことにしました。課題については、課題を提出しない子たちがやはり全員落ちているという事実を重く見まして、課題を提出しない子については、早晩退塾を勧告することになると思います。来年の受検まで何人残るかわかりませんが、春ううらかなこの時期こそ厳しく自己を律して勉強に没頭しなければとても来年の2月に喜びを手にすることはできますまい、よく自覚してほしいと思います。去年の小6が去年の今頃かなりのんびりしていた記憶がわたしには鮮やかな映像として残っております。さまざまな家庭の行事にふんだんに時間を使い、わたしを落胆させたものでした。ほんとうに受かりたいと思っているのか、それとも試験をなめているとしかとても思えなかったものです。中学生にしても4月から8月前半まで部活にどれだけ時間をとられて勉強を先送りしてきたことか、後々にいくらがんばっても薄氷を踏む思いをすることになる、そんなことはわかっていたことでした。

◎小学生をダメにした犯人はだれだ

 よく入会試験を受けに来た小学生たちのことを考える。遠くからはるばると是非入会したいという熱心な親御さんもいた。しかし、入会試験の壁は高くて悉く退けられてきた。さすがにこれではいけないと考えたのが「仮合格」という苦肉の策であった。それにしても入会試験を受けにわざわざきてくれた子たちではあるけれど、大切な何かを置き忘れてきたのではないですか 、といつもそう思う。子どもというのがあまりに自然なままというか、なんの訓練もされないままにのほほんと毎日を過ごしてきたのだということがどういうことをもたらすかわかっていない。いや少し慌てたから塾探しをやったのかもしれない。塾探しと言えば、かつて元代々木教室の頃はよく塾ツアーなるものをやる親がいて一通りさまざまな塾を見て回る、その中に竹の会も含まれていたということであるが、そういう親たちがほとんど大手を選んで行ったのは今更ながら親の性向というものを表していたと思う。ああいう親は最初から大手に行くことは決めていて、迷いを消去してくためにツアーをやるだけのことである。よくパンフを送れという問い合わせがあったがあれも同じでパンフを見て「行かない」という根拠にする、単なる心の整理手続きにすぎない。そういう輩の欲求を満たすこともないからパンフなんぞはないしあっても送ることはない。

 塾に行っていたといっても何の訓練もされていないのが昨今の小学生の現状である。親は大手にやっていればそれでとにかくなんとかやっていると信じ込んでいるけれど、わたしから言わせれば確実にバカが進行しているとしか思えない。訓練というものをやっていないからである。竹の会にきてわたしが初めて見て、計算の手順がメチャクチャとか、自己流の計算法とか、を発見することになる。竹の会というのは、最初からこどもが「わかった」などということばを信用していないので、すぐに調べるから、伽藍堂ということがすぐにわかってしまう。中規模塾にしろ大手塾にしろ、1年も2年もいて、計算の欠陥も見抜けない、割合をほんとうに理解したかなどないということもわからない、それでわかっていることにして前へ進める、そういうことをやる。そういう塾のどこがいいのか、わたしにはさっぱりわからないが、親たちはそういう塾を選ぶ方が安心なわけである。竹の会などは昔はたいていの親たちから懐疑の目で見られてきたものである。だからわたしは実績で証明するしかないと思ってきた。

 昨今は、子を訓練しない親の不始末 を、学校が、塾が、肩代わりさせられるという、馬鹿げた話しである。 高学歴の親ほど子に自信があり、放任しておいてもそれなりにできると見てか、躾しないケースが多い。特に、一人っ子というのは過保護と対を為すほどに甘い親が多い。たいていのことは大目に見る。一人っ子に限らず、女の子の育て方も徹底して甘いものである。だからわがままで自己中心性の強い子が育つ。悲しいかな知能というのはさすがに後からどうにもならないから、「できるふり」「わかるふり」をする伽藍堂小学生が悲劇的な終末を迎えるケースも少なくない。

 昨今は早期英語教育やらピアノとかなんとかかんとかなんでも嗜ませる時代である。いやそれはそれでかまわない。経済力があるのならそれもいい。しかし、もっとも肝心の躾というものをやらない親が多いのはどうしたことか。躾というのは、親のみがなしうる自己制御という大切な訓練なのである。わたしが小4期の子に「訓練をする」というときの訓練も勉強という手段を用いた自己制御の訓練にほかならない。勉強というのは基本的に自己を律する精神作用である。ひとつのことに気を集中するなどということは、余程に自己を律しなければできるものではない。人間というのは、ともすれば楽をする方に動くようにできている。楽をすることばかりやっているとほんとうに使いものにならない人間になる。楽をする方に流れるのを制して、つまり我慢して。自己の心を行動を制御していくのが、人間の美しさである。子が一晩中テレビに現を抜かしているのを許す親の子が歯止めのない緩さを身につけたとしてもおかしくはない。そうなのである。楽に流れる子というのは「緩い」のである。わたしは竹の会という塾で、子どもたちに厳しい自己統制を求めてきた。しかし、わたしの子どもたちに自己を律するほどに強い心を持てるようにとの思いは、たいていは、親の、わたしには恣意的にしか思えない、回避できないとされるさまざまな家庭行事で水泡に帰すことしきりであった。

 昨今の親は、子がかわいいということを勘違いしているのか、それともただ面倒くさいだけなのか、躾というものをやらない。これに過保護、甘やかせが、自分を律せられない、バカ息子、バカ娘を、作り上げる。 躾という字は、身体と美からできている。躾られた身体は、美しい。 躾とは、自己を律する精神を自己に宿すための制限、訓練である。 親がこれを怠ることは、将来、他人を害し、自己を破滅させる、時限爆弾を、不作為に設置することにほかならない。 躾された子というのは、確かに、美しい、清々しい。 子を躾ない親に、子の何が教育できるのか。

 ◎このところなかなかブログを書く時間ない。わたしのブログは一つの論文の体を成すまでに長文の傾向があり、いったん書き始めると、時間をかなりにとられてしまう。だから決心がいる。今は下書きをよくi-phoneのアプリでやることが普通でいつも何か思いつくと書いていることが多い。

 話しは変わるけれど、最近、訓練されてこなかった子たちの指導をすることになり、いろいろと驚かされることばかりである。それまでの塾の経験が生かされるということになっていない。思考の作法も訓練されてこなかった、ただ知識を形式的に暗記してきただけなのであろう、さまざまな形態の塾に何年も通わせてなんの稔りもない、のはどうしたものか。子どもがどう学んでいるのか、塾をやっている人間がなにも気にしていない。親はただ通わせる、塾はただカネをとる、そういう関係が続いているだけではないか。

 わたしは竹の会に来ればなにからなにまでとにかく洗い出して、何ができて何ができないか、何がわからないか、ということを調べなければ、そもそもの指導などできるはずもないから、とにかく調べる。そうするとわたしが世の中の塾を批判する気持ちもわかっていただけると思うし、塾に行かないことが子をただ楽に生活させているだけではないか、という、つまり結局バカにすることであり、将来貧困階級に属することになる、それでいいのか、と言っているのだということも理解していただけると思うのです。

 これはわたしの想像でしかないのですが、竹の会の指導を一度でも体験すれば、本物の塾が何だったのか、親御さんたちには、それはよくわかるのだ、と思うのです。 いままで何をしてたのだ と悔やまれる方もいるかもしれない。親も、もちろん学校の先生も、何もしてこなかった。塾に入れたらどうにかなったか。どうにもならなかったのである。 なすべき訓練をしてこなかった 子どもたちをスポイルしてきた ことだけは確かである。必要な訓練をしてこなかったことの代償は大きい。わたしが小4の早期に竹の会に来て、わたしの訓練を受ければ、子どもたちは「変わる」ということをいくら口を酸っぱくして言ったところで、大手大好き、地元塾第一の親たちには通じることはないけれど、ごく少数の親御さんがこのわたしの訴えにたぶん半信半疑であったとは思うのだけれどとにかくも遠方より竹の会に足を運んでさらに大いに悩まれてようやく竹の会を選だということなのかと思いますが、名もない小塾を選ぶことの抵抗はよくわかります。とにかくなんらかのきっかけで竹の会を選ばれた親御さんがいて、竹の会の指導というものを体験することになったわけです。実際どうであったのか、それは実際に親御さんに聞いてみないとわからないのですが、ときおり親御さんたちから寄せられる感謝のお言葉に親御さんの心情の一端を伺うことはできます。実際に竹の会で学ばれている子の親御さんというのはみな物静かでサイレントな方ばかりです。だからわたしの推測でしか竹の会についての感想を語ることはできないのですが。

 わたしは、実際に指導するときは、常に子どもひとりひとりと向き合って、この子に何が足りないのか、常に観察を怠らず、突き詰めています。指導に際しては、理解困難な状況においては、新たにレジュメを考案して、この難局をどう乗り越えるかに、思い悩みます。ですから、あれこれと手を打ってもダメなら、それがもし仮合格の子なら退塾もやむなし、とにかく手は尽くしたのだから、さらに、合格の子でも「勉強しない」というのなら退塾のほかなく、中学ならレジュメを進められないというのは指導なしと同じで、これも退塾のほかないということは常に考えていることです。竹の会は他の塾はいざ知らず勉強もしないのにそのまま通い続けることを黙認するということは決してしません。指導時間ずっと居眠りをしていた中学生は自主退塾、レジュメ出せない中学生たちも自主退塾していきました。淘汰されるというのは塾には生命を吹き込む効能が顕著です。新陳代謝、細胞分裂盛んというのは、塾においても、言えることではないか、と思います。

 

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