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都立日比谷・西へ行く/小石川中等・両国中へ行く/竹の会の算数革命/楽をするから追い詰められる

2017.08.29

 おはようございます。なんとも複雑な気候の変化です。台風15号が日本列島のはるか太平洋側を進路にとりつつあるのだとか、これが大陸からの秋の大気を呼び込むらしいのですが、さてどうなりますことやら。昨日は一日こもって執筆に専念しました。本のタイトルは今のところ「魔法の算数」となっておりますが、こちらも流動的です。わたしはぜひ「竹の会の算数革命」という言葉を入れてほしいのですが、多数決でたいていはボツです。なんとか原稿を終わらせまして、9月初めには出版社の担当に渡せそうです。今回の本は、竹の会の秘蔵のレジュメ集を一般公開するというのでいろいろ悶着はありましたけど、そろそろ公開するのも潮時という結論になったわけです。

 正直夏期指導の疲れがなかなかとれずに夜寝るときは木枕を体のあちこちに敷いて痛みを矯正しております。これがなかなかいいようで朝起きたときはけっこう楽になっています。腰痛は相変わらずですが、膝の激痛は今では嘘のようになくなり、普通に歩けるようになりました。時間が解決したのか、今のんでいるサプリメントが効いたのか、定かではありませんが、とにかくうれしいことです。

 東京は23区は夏休みの期間がバラバラで8月の最後の週は日程から外すようにしています。今では竹の会は東京23区に在住の小学生や中学生が通う塾となりまして、さらに23区のみなさんに竹の会という塾を知っていただくにはどうすればいいのか、を模索しています。竹の会はかつて渋谷駅からバスで20分前後かかる元代々木という不便な地にありまして、昭和60年10月に地元の中学生を集めて高校受験を指導する塾としてスタートしたのですが、平成17年あたりから小学生がくるようになりまして、19年九段中等に合格するとたちまち小学生からの問い合わせが相次いで、少子化で地元の優秀な中学生を集めるのは困難と判断し、高校入試を止めて公立中高一貫校対策の研究と指導に特化することとしてからもう10年以上の歳月が経ってしまいました。竹の会は平成24年の5月には渋谷教室を開設し、同年の7月には元代々木教室は27年間の歴史に幕を閉じることとなったのです。新天地で、しかもわたしの積年の夢であった「渋谷駅そば」に教室を構えてはみたもののだれも竹の会など知るはずはなく、学校説明会のたびに配布するチラシもたいていはゴミと化して捨てられてきたものと思われます。大手の物量攻勢にはとても太刀打ちできるものではなく多くの親たちが大手に流れるのをいつも横目に見てきました。竹の会ほどの塾などどこにもない、これは30年余わたしが思ってきたことでした。しかし、わたしのその思いが通じるほど世の親たちは甘くはなかったわけです。大手、大手と夥しい数が集まればその大手がどんなに華やかな宣伝で親たちを誑かしてもいずれはボロが出る、わたしはそう思っていました。案の定、大手に不審をいだく親たちも少しずつではありますが出てきたわけです。

 わたしは竹の会を東京都の唯一の名塾として残したい、その名を語り継がれたい、そういう思いでもうこれまでかという思いに追い詰められながら我が道を歩んできました。いつか23区の親たちから「渋谷にはすごい塾があるんだよ」と噂されるようになれればとわたしは獅子奮迅の努力を重ねてきたのです。いつも超一流でなければならないという思いから、あらゆる書物を読み、また教材の創作にも力を注いでまいりました。特に、指導術を磨くことにはつねにこだわってきたと思います。いかにして効率よくすんなりと理解させられるか、これはわたしのライフワーク、いや研究テーマでした。子どもたちの「気」を逸らさない、気を浮遊させない、機に敏感に気をとらえる、気を外さない、気を遊ばせない、間をとる、あるときは落ち込ませる、責めを感じさせる、気を取り直す技をしかける、指導とは瞬間の芸術なのだということをこの歳になってようやく掴んできました。勉強の気がない子を指導するのはさすがにわたしでも無理です。

 子どもというのは放置すればすぐ楽な道、方法を選びます。親がはたらいていて目が届かないとしたら、子どもは持ち前のずるさを発揮して親をも騙すはずです。子どもは放任してはいけない。放置してはいけない。子どもを信じるというのは子どもの楽を好む性向にはあたらないのです。また大手のように授業するというのは話しを聞くふり、説明を理解するふり、を助長するだけです。ふりをするのが楽なのを子どもはよく知っています。授業という、説明という、受け身の姿勢は子どもの楽をしたいという性向になんの枷にもならない、頭の中ではほかのことを考えて集中などしない、わからない子の心の中は退屈なだけ、まあ大手では子どもはバラバラに好き勝手に放牧されているようなもので、いいわけがない。そういうこともわからない親が多すぎる。自分の子どもが理想的な性向を持っているなどと勝手に信じるのはいいけれど現実には子どもはそんな聖人ではありえない。わからない、だから退屈でしかたない、それが真実なのです。

 子どもというのは一挙手一投足まで監視の対象です。訓練するというのは、子どもを放任しないで管理することをまず前提に、子どもに退屈心など起こさせないほどにノルマを畳みかけていくことなのです。わたしは一問、一問考えさせることにしている。わからないと手遊びをする、隣にちょっかいを出す、話しかける、ふざける、騒ぐ、歩き回る、いたずらをする、これができの悪い子どもです。これとは似て非なるものに逃避、回避行動というのがありますが、これは、楽をする、つまり努力怠ってきた者が陥る蟻地獄みたいなものです。勉強しなければどんどん追い詰められていく、他との差が開いていく。努力しない人間というのはこういう追い詰められ方をして自壊していくことになる。

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