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都立日比谷・西・戸山への道 ~現代文の神になれ  小石川・桜修館への道~

2016.03.24

 おはようございます。今日、明日と寒の戻りです。体調を崩す子も出ているようです。みなさまお気をつけ下さい。明日は都内の公立小学校の卒業式と聞きました。いよいよですね。2月に入ってから3月2日まで心の安まる日がなかったのですが、ようやく睡眠がとれるようになったのはさらに1週間後あたりからでしょうか。掲示板の前に立つ恐怖というのは、いつものことながら生きた心地のしない、番号を探すという間、零コンマ何秒かの間、時間が「止まる」、「あった」、ときの刹那の安堵感、「ない」、数秒の魔、現実を認めるまでの1秒に満たない葛藤、やがて襲い来る煩悶、掲示板はいつも安堵と悲哀の狭間に身を置く、自らを断ずる

 「ない」恐怖というのを、「ない」という、どうにもならない現実の掟を、知ってきたから、心と体はもう臨界点に達するばかりだ。いつもわたしの指導の核はこの掲示板にあったように思う。だから楽観的な親たちのわたしにはとても受け入れられない行動にそれで受かると思っている脳天気さに悩まされてきた。それで受かると思っている脳天気さ、親の判断はいつも合格からは遠ざかることばかり。何々の発表会で一日くらいという気持ちなのであろうか。習い事、稽古事もいいだろう、しかし、それで本気で受かると思っているのか、である。物理的に合格には必要な時間というものがあるでしょ、そういうことも考えない合格の期待だけは大きいけれど、親の意向で引っかき回して、勉強にスタンスの定まらない子どもに成功の見通しなどもてるはずもない。

 親がブレては子も心ここにあらず、勉強をたてまえだけでやるだけの子にしてしまう。毎日最低5時間の勉強を継続できる子どもに育てることのほうが、中途半端な習い事、稽古事で時間を費やすよりも、いいとわたしは思う。大切なのは、子どもに勉強という生活習慣をつけさせること、そこから人生を切り開いていく態度を身につけさせていくことではないか。

 少なくとも親が気ままに子どもの勉強するという習慣を壊すような行動をとるべきではない。親は常に子どもの勉強を優先させる行動をとるべきである。少なくとも勉強、そして勉強するという習慣、そういうものに敬意を払い、尊重する精神、態度をとるべきである。勉強を平気で犠牲にする態度が、勉強を蔑ろにする態度が、親の勉強に対する姿勢の表れとして、自然に子どもに勉強というものの処し方を教育していることになる。稽古事、習い事をいつでも勉強に優先させてきた家庭の子が勉強を尊重するわけがない。そういう親が子に「勉強しなさい」と言ってもするはずがない。子はそんな親の心を見透かしている。子どもが勉強しないのは、勉強に本気にならないのは、親の勉強軽視の結果にほかならない。便宜的、恣意的に勉強を扱ってきた結果、子どもは都合でどうともなるとしてしか勉強をとらえていない。子どもの不徳に嘆く親は自分の不徳の結果だと思い到らないのだから脳天気と言っている。

 さて竹の会では、本年4月から本格的に日比谷・西・戸山を想定した指導を開始します。いやすでに開始しています。本年はその1期生として、2年10か月後の日比谷・西合格4名以上(定員5名)を必ず果たします。ただし、わたしの指導についてこれない生徒が脱落した場合はこの限りではありません。

 本日のテーマは、現代文です。現代文の論理をマスターすることは、実は、英語長文の読み取り、理科の論理的思考、いや社会の論理的理由付けなどに欠かせないものです。本年の小石川受検では、適性Ⅱ、Ⅲで高得点をとりながら、Ⅰ、すなわち国語で失敗した子がいました。あるいは富士合格者の適性Ⅰ、すなわち作文点は高得点でした。国語が合否の要になる、ということは高校入試ではなおさらです。

 わたしはこれまで「新国語読解」というレジュメシリーズで国語の論理というものを説いてきました。その成果は特に本年の戸山受験で実証されました。このレジュメシリーズで指導を始めて2か月ほどでまずVもぎで偏差値70を越えたのです。国語の成績は堅調で、本番では86点をとりました。ここで断っておかねばならないのは、竹の会の進学指導重点校の合格者は最低でも漢検準2級をとっているということです。過去の都立西合格者、本年の戸山合格者はいずれも2級を取得しています。漢検はただに漢字を覚えるということではなくて、国語の初歩、つまり言葉を知る、いい機会であるということです。竹の会では、本年6月19日に漢検を実施します。この機会に竹の会のみなさんは漢検を受けてください。できれば2つの級を同時に受けるのがいいでしょう。漢検を全くやらないという子がいますが、それで漢字の勉強をしているというのならともかくそういうこともしていないのだとしたら受験などできないでしょ。それはともかく本年は日比谷・西・戸山志望の1期生について、西、日比谷の現代文を使った「国語の論理」を執筆予定です。現代文の論理を確実に自分のものにすることが、結局は、日比谷、西への道につながると思うからです。

 現代文の論理とは何か。

 よく言われるのは、「言いかえ」という論理です。なぜ言いかえるのか、と言えば、それは読む者に自分の主張をよりわかりやすく理解してもらうためです。例示というのは、言いかえの一種です。例示して自分の主張を伝えようとするわけです。いきなり読んで「分からない」というとき、次に読み進めて、例示を読んで「わかる」ということがあります。

 よく文の流れということが言われますが、これは、抽象的表現をしたので、次はその内容を具体的に述べていく、という流れです。逆に、具体的な話しの後は、流れとして、その具体的な内容を抽象的な表現に言いかえるということがよく使われます。この抽象化の過程において、個々の具体的事実の中から共通点を取り出す作業のことを抽象化と言います。わたしはこの過程こそが国語の論理の核心をなすと考えています。この抽象化の練習というのは現代文の読解の過程でやっておくべきことです。長たらしい表現を3語とか5語の言葉で抽象化する練習です。頭の中でこういうことをいつもやっていると物事の本質をとらえるくせがついてきます。

 巷の本では、対立する考え方を論理のひとつとしてあげることが多い。あるいは、因果関係を国語の論理の一場面としてとりあげる本もある。もちろんそういう視点も論理のひとつとみていいけれど、わたしが「新国語読解」で訓練してきたのは、抽象化、具体化の論理であった。

 今、わたしはさらに現代文を研究するためのいくつかの本を検証中であり、そらに進化した「国語の論理」をレジュメ指導で実現していきたい。

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