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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

都立日比谷・西・戸山への道、小石川・桜修館への道~「分かる」ということの意味、自分の身の丈に合った勉強をするということ

2016.03.25

 おはようございます。本日は、渋谷Bの3月最終指導日です。4月の第1回指導日は、Aが6日(水)、Bが8日(金)です。

 今日は、寒の戻りと言いながらもすばらしい天気ですね。これから週末にかけて天気は下り坂になっていくそうですが、わたしは27日(日)に目黒川の桜ツアーに申し込んでいまして、3時間ほどのツアーなのですが、船から桜を観賞する企画です。それで桜の開花具合、天候など気になっています。去年もいろいろと桜ツアーに参加しましたが、ほとんど雨でした。余程タイミングが合わないと天候に恵まれるということはないとあきらめています。そして今日は都内の小学校の卒業式でしたね。こちらは快晴でいいタイミングでした。竹の会を卒業した小6たちもそれぞれに新しい未来に歩を進めることになります。高校受験をするにしても、公立一貫校に進んだとしても、結局は大学受験で再び試練の場に立つわけです。それぞれ道は違うけれど最後は大学受験で帳尻が合うということです。

 日比谷・西受験1期生、これからは竹の会の新中1のみなさんをこう呼びたいと思います。竹の会では、これまで日比谷・西・戸山を明確に目標設定して指導してきたことはありません。漠然と日比谷、戸山を意識した指導ということでした。明確に目標設定すれば、合格のための逆算論理からあれこれとやるべきことが確定してくるわけです。これまではここまでやればどれほどの力がつくなどと計算しながら、力がつくかどうかは個人の実行如何にかかっていたけれど、まず合格するにはこれだけのことが必要だという前提から逆算してこれだけのものはやってもらわなければならないといった論理になるわけです。

 幸いなことに、竹の会には、先輩たちが、合格への道筋をつけてくれています。平成13年の都立西合格、平成20年の都立西合格、このときには、今をときめく豊島岡女子にもチャレンジして合格を勝ち得ています。都立戸山については、独自問題が出される以前にも合格者はいましたけど、今のように都立戸山が23区がトップ3になってからの合格は、平成27年が初で、28年と続きました。共通問題時代は、素内申に学校の裁量点が加点されてかなりいい加減なものでした。生徒会長とか、部活の部長などをやっているとそけだけで実力のない生徒が高い内申をとれたのです。共通問題は差がつきにくく内申勝負のところがありました。これは都立の凋落の大きな原因でした。バカが戸山や青山などに紛れ込んだ時代です。今は、とにかくそういうグレーゾーンはないけれども、内申点のつけかたそのものは教師の恣意的な裁量がいくらでも紛れ込むところは変わらない。内申で泣くまじめな生徒がいる一方、教師に気に入られれば実力はなくても内申はもらえるということも普通にあるわけです。

 内申が厳しい中で、竹の会の生徒たちは、合格最低点をかなりに凌ぐ点数で合格しています。巷の塾、いや都立専門と豪語するエナにしても、内申が低ければ「落ちる」のがふつうです。いやエナは広告とは裏腹に相当落ちているはずです。逆に、内申が高い生徒はたいてい実力がないというこになっており、これは、内申をよくする勉強というのが、定期試験でいい点をとるとか、課題をまじめに出すとか、学校行事に積極的に協力するとか、要するに、受験勉強の障碍になっているようなことに時間を費やすからですが、そうなると、内申が高い生徒が内申に見合った都立に行けないとか、落ちるとかいうことになるわけです。竹の会のように内申が38でも上位で合格することが可能なのは、こういうバカがいてくれるおかげです。

 さて、今日のテーマは、「分かる」です。

 「分かる」に「分」という字が使われているのは不思議な気もします。単なる当て字なのか、と思ったこともあります。ところが、代ゼミの酒井という人が、「分かること」は、「分けること」だと言っているらしいのです。その真意はわかりません。わたしは酒井さんの本を読んではいませんから。わざわざ買うということもしていません。ただわたしなりに納得するところがあった。その納得の内容が、酒井さんの云うところと同じという保証はないのですけれど、わたしなりに理論構築してみました。

 いや前々からわたしは知能の程度というのは、識別能力のことではないか、と思ってきたわけです。他と区別する能力、これが知能の実体ではないか、そう思っていました。識別という行為には、前提として「比較」という行為があるのだと思います。よく骨董品の壺なんかの真贋の鑑定で、そのものを見ただけではだめで、やはり本物と「比較」して「分かる」ということがあります。知能の高い人というのは、細かい違いまで「見分けて」区別することができる人なのだと思うのです。違いが分かる人です。ところが、よく「分からない」という人は、なにもかも同じに見えてしまう。区別できないし、区別しないのです。

 わたしは小学生に算数、特に、割合の概念を教え込むとき、この「分ける」ということを意図的にやります。つまり、20%とか、2割とか、そういう数字は、50円とか、100gとかの数とは、「分けて」認識しなければならない。前者の数は、前提として、ある約束が隠されている。%の約束、割の約束です。そういう約束のもとに理解しなければならない数字です。わたしは、このような数をミクロの世界の数と呼びました。そして具体的な数、現実に使われている数のことをマクロの数と呼びました。そして子どもたちにこの2つの世界の数に「分ける」ことを指導しました。わたしが、「分かる」ということは、「分ける」ということだという意味をわたし流に理解したというのは、納得したというのは、都合このようなわけです。

 そしてこの「分ける」思想は、実は、すべての科目において有効な思考の方法だということです。たとえば、国語読解の苦手な生徒、小学生が多いのですけれども、国語読解の過程において、この「分ける」ということをやっていないのではないか、ただすべてを区別しないで混交したまま漫然と読んでいる、活字を読み当てているだけではないのかと思うのです。国語というのは、一文、一文が数珠のようにつながれて全体の意味を表すようになっています。ですから、ある一文とある一文をつなぐことができるのは、流れがあるからです。同じ仲間だからです。しかし、「つなぐ」ことができない、性質のちがう一文がある。そういうときは、ちがう仲間として分けなければならない。文章を読み解くとは、この「分ける」思考を働かせることである。あるいは抽象的叙述と具体的叙述に「分ける」こと、同じ仲間でも細かい「分ける」が可能であるということです。例示を抽象的命題と「分ける」。こうして読解とは、一文、一文を細かな論理的ちがいに即して「分ける」ということになります。読解のできない人は、「分けない」人です。みな同じに見える。これをバカといいます。歴史にしても、地理にしても、理科にしても、ひとつひとつの事実、事象の特質をとらえて「区別」すること、つまり「分ける」ことが勉強なのです。

 こうしてあなたたちは、ものごとを区別することを常に明確にすることが勉強なのだということにいきつくわけです。

 大手塾で落ちこぼれる、せっかく公立中高一貫校に行ったのに落ちこぼれるという人たちがいます。今年の小石川の卒業生は、144人でした。入学したときは160人はいたはずです。つまり、16人は消えている。どこに行ったのでしょうか。落ちこぼれて退学し、区立中学へ行ったのでしょうか。高校入試をやったのかもしれません。

 なぜ落ちこぼれるのか。勉強しないからといってしまえばそれまでですが、しないのは「分からないから」ということはある。つまり、現在の自分の学力では到底理解できない水準のことをやるはめになっているからです。大手塾でも、日能研や四谷大塚のような進学塾では昔から落ちこぼれはあたりまえのようにいた。だって進学塾というのは、まず合格ラインというものを想定して逆算の論理で授業レベルを決めるわけで、子どもの能力段階に合わせて決めるわけではないからです。この点、エナや栄光というのは、それほどオツムのよろしくない生徒もたくさん取りこむところだから、こうした生徒や親を満足させるために、ぎりぎりまでだれでもわかる、できると錯覚させる程度の内容で生徒を引っ張ることを考えている。これは企業ですからいかに利益を上げるかという視点がどうしても優先される。どんな生徒でもカネを運んでくるのだからとにかく入りたいと言う人はだれでも入れてしまうわけです。入れたら止めさせないような工夫をする。通常のコースだけでは成績はよくならないと煽り、何かと理屈をつけて費用を伴う特別授業をオプションとして設ける。つまり儲ける。安いと思って入ったら、気がつけば毎月結構な額を払っているということになる。なんとも巧妙です。

 こういう商法にいとも簡単に取りこまれるのが、世間のバカ親です。わたしから、云わせれば、1年も2年も通わせて、ちょっとした分数の計算もできない、逆算も理解してない、ちょっとした割合の問題にはもう全く手もつけられない、というのは、これはもう騙しだと思うのです。できないならできないでそのことだけでも本人や親には告知する義務があると思うのです。ところがそういう肝心なところは避けてグレーゾーンにして踏み込まないで、次から次にと新しい特別講座を押しつける。親も子も「できる」と思い込んで疑わない。こんなのばかりだと竹の会で基本しかやってない子たちが「受かる」のもよく分かる。

 というか、本人の知能の段階に合わせて、基本だけを徹底して習熟させるだけで「受かる」ということが、実証されてしまった。つまり、難しい適性問題なんかを本人の能力を無視してやらせるよりも、本人の身の丈に合わせて、理解させることのほうがずっといいということである。

 それからそういう生徒でも合格できるひとつのポイントが、国語である。国語は、語学であり、知能の段階とは関係ない。毎日こつこつとやるのが語学のこつとするならば、そういう頭のよくない子たちが努力を惜しまず国語に取り組めばそれは合格に近づく最良の方法ではないか。 

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