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都立日比谷・西・戸山への道~都立高入試の記憶(1)

2016.03.17

 おはようございます。いよいよ春です。予報通りの晴天です。眩しい太陽と青空、週末にはいよいよ桜、続いて新緑の季節の到来です。竹の会では、去年の10月に再開した高校入試指導のための中学生募集から5か月経った3月から、都立日比谷・西に向けた指導を開始したばかりです。中2の夏休みあたりを目安に、その時期には、入試数学、入試英文解釈、都立西の国語読解に入れるように指導をナビゲート(navigate)していきたいと思っています。中2の9月あたりにはVもぎが受けられるように想定した指導内容を調整しています。何度も言いますが、この指導についてくるには、1日最低5時間の実働思考時間が必要です。

 小学生には往々にして勉強回避行動というものが見られます。できるだけ早くに勉強から遠ざかろうとする心性に基づく無意識的行動です。この心性をそのまま中学で引き摺るのは何を意味するかはもうおわかりでしょう。トップ都立は遠く及ばす、駒場、新宿などの上位都立も当然及ばす、三田、文京どころか、結局都立をあきらめ、内申があれば、少子化で軒並み入りやすくなった、生徒不足に悩む日大系などに推薦(事実上無試験)で入るか、内申がなければ、格下の低偏差値私立に単願で入るか、日大系私立など推薦の濫発で内部崩壊の進んだかつては良とされた私立の一般入試を受けることになる(今では余程のアホでもなければ受ければたいてい合格)しかない、安易で流されるままに到達できる道です。

 新中1と言いますが、竹の会では高校受験生一回生です。あなたたちはまず勉強回避行動をとってはならない。できなくてもわからなくてもいい、とにかく勉強するのを止めたらその時点で終わりです。勉強なんか止めるはずがないと思っているかもしれません。しかし、わたしは中2になって突然勉強しなくなったアホを何人も見てきました。もちろんその時は即刻竹の会は退去です。小学生のように勉強回避行動をとる子を温かく見守るなどということはしません。小学生のようにまだ幼いから幼い行動も通常のことだなどという悠長な発想はありません。日比谷、西に受かるほどの子はすでにして精神的に成熟していなければなるまい。新中1、特に男子は見ているとまだまだ幼い。精神的に幼い。これから精神を熟成させていかなければならない。

 中学において精神を鍛えるとは、長時間の集中力を発揮することによって実現される。無駄な思考を極力排除する思考操作に長けることである。これを思考経済、思考の節約といってもいい。なぜ、どうして、の思考のスイッチを入れたらとにかく考える、考え続ける、ただの暗記は苦痛であり、思考の力は、できるかぎり思考でまかなえるように、暗記を節約することにはたらくはずである。思考とは、目の前に立ちはだかる暗記の壁の駆逐、できるだけの駆逐をめざす、有意な精神活動にほかならない。だから知識を知っているか否かだけで解決できる問題に何時間も費やすアホを思考しているとは言わない。机についていたら勉強しているなどとは考えない。どれだけ暗記を節約できたかが、勉強の実質を測る。よく膨大な暗記量と言うけれど、頭のいい人ほど闇雲に暗記はしないものである。暗記量が多いのは思考がないからである。勉強するというのは、思考の節約術を学んでいく過程である。普段勉強もしないアホが暗記することを勉強と勘違いしているだけだ。毎日5時間の実働思考をはたらかせる訓練をしている者にはいつしか思考の節約が身につき勉強というものとの付き合い方がわかってくるものである。

 わたしがいつまでも忘れない苦い記憶

 それは平成10年の高校入試でした。彼女は都立目黒に落ちて学費のやたら高い某私立高校に行くことになった。わたしには実質上唯一の都立指導失敗だった。彼女の母親は、「先生が受かると言ったので目黒にした。落ちるのなら下げていた。私立に行くことになり、弟は塾代も払えなくなった」と散々に非難されました。正面切ってかなりわたしを罵倒したというのもわたしには意表を突くものでした。

 冷静に考えるとおかしなことばかりでした。当時は今のVもぎやW合格もぎの業者は学校で業者テストとして実施していた。だからVもぎなどのデータはすべて中学の先生が独占していた。だから合否の判断は中学の先生が支配していた。ところがその中学の先生がどう言っていたかなどの情報は一切わたしには報告されなかった。さらに通知表も見せてもらえず報告だけ、模試の結果も全く見せてもらったことがない、いつも口頭で曖昧な報告だけだった。それでわたしは都立の過去問でチェックした。それだと「行ける」という心証だった。だが、後々わかったのであるが、どうもそのまま実力どおりの得点か信用できない状況が見えてきた。それどころか普段の指導において、まともに自分で解いたことはなく必ず隣にいた仲良しの子に解き方を訊いて「わかった」ので自分で解いたことにして提出していたということもわかってきた。当時の元代々木教室は2部屋に分かれていて、1つはわたしの目の届かない構造になっていた。わたしに必要な情報が一切もたらされないままに偽りの状況でわたしは「合格すると判断してしまったのだ。これまで数多くの青山、駒場、新宿などの合否判断をしてきたわたしの判断を信じたというのはありがたいがわたしには判断の資料がないか、あっても偽りだったわけである。かつて都立を失敗した子なら何人かいる。しかし、失敗の原因はわたしにはなかった。極端に秘密主義でわたしに一切の情報を知らせずどこを受けたかもわからないままに落ちたとか、わたしの「無理だ。下げろ」という忠告を無視して受けたとかだ。

 竹の会の彼女の同級生たちは、「あれは先生のせいではない。先生、気にしないほうがいいですよ」と言ってくれたけど、わたしには苦い記憶として残った。

 「偽る」子というのは、いつもいる。特に、小学生というのはそういう子がたくさんいる。「よくできたね」とほめられて気をよくした子は、「できない」という事態が受け入れらなくてよく「偽り」の行動をとる。ずばりカンニングをやる。これはできる子もできない子もやる。それぞれに心理的衝動は違うけれど、この子にはできるはずもない問題を解いてくる、それでわたしが「式を書いてきなさい」と言うと、そのまま1時間も2時間も戻ってこない、覗いて見ると、体を机に投げ出して寝そべっていたり、なにやら書いては消し、消しては書いているけれど結局出してくることはない。いやたまに答えに合わせた珍妙な式をでっち上げてくることはある。自分が何をしているのかわかっていないのである。そもそもそういう勉強姿勢というものが自分のためには何の益もないということもわからないほどに稚拙なのである。偽る子には偽ることの無益さを悟らせるような指導をするけれど、頭のいい子ほど突如として勉強する気を失せることがおおい。それはわたしから信頼されなくなったという落胆とともに、自分自身の自尊心のもっていきどころがないからである。こういうときの母親というのはたいていヒステリックで愚かであった。子を心配する母親の気持ちは痛いほど理解できるけれど客観性、冷静さを欠いた、あまりにもヒステリックな言動に辟易とするばかりである。

 偽りの子の母のヒステリックな言動、行動はわたしには弁解の余地のないモンスターの姿にしか見えない。

 南斉書「敬則曰く、檀公の三十六策、走(に)ぐるは是上計なり」。すなわち、三十六計逃げるに如かず。逃げる時には逃げて身の安全をはかることが、兵法上の最上策である。

竹の会募集情報

○高校入試、特に、進学指導重点校をめざす新小6を募集します。

。公立中高一貫校のうち小石川・桜修館・九段・両国・白鷗・富士をめざす新小4,新小5も募集中です。

新中2は今が入会のラストチャンスです。

 

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