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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

都立日比谷/小石川/桜修館/九段/富士/8月指導のこと、もうすぐ夏が終わる

2018.08.12

 おはようございます。8月の指導ももう半分を消化してしまいました。夏は1日最低でも7時間、理想は10時間をと事あるごとに呼びかけてきましたが、さてどこまで浸透していることでしょうか。小6の中には、かなり遅れているのに、実にのんびりとした子たちもいます。1日7時間の指導で、ほとんど進んでいないという子もいます。よほど勉強量を確保しなければ、進んでいる子は10時間でもやるでしょうから、さらに先へ進めるでしょうし、遅れている子はやはり勉強時間の絶対的不足のままに後れたままに終わるのが、これまでの通例でしたから、受検というものは、そういうものなのでしょう。小4や小5のときに、「まだ小5だから」と実家帰省などをやっている子というのは、結局小6になるまでに開くだけ開いた差を縮めるのは至難なことのようです。それは勉強優先でやってきた子、家庭というのは、小6になれば、さらに勉強するからです。一端開いた差というのは、もはや縮められない、というのが、受検の世界の常識ということです。

 それから夏期中は課題はお休みしています。夏休み中にも新規課題を請求する方がいますが、夏はお休みです。また、通常枚数を遙かに超える枚数を請求される方もいますが、相当な枚数、にしてください。大量に出されたレジュメについて、添削にかけられるだけの時間がないからです。

 🔵渋谷🅱️コース  渋谷Bの沿革

 竹の会渋谷教室が、発足した当時は、渋谷🅰️しかなかった。2012年5月渋谷教室開始。9月に、渋谷Bスタート。月曜日と金曜日。当初は、AもBも平日は夜9時までやった。しかし、渋谷Bは、2013年には廃止。生徒がいなかったからです。それから空白期間が続き、2015年10月再スタート。生徒は、2人だけ。月曜と金曜、6時〜8時、祭日はなし、祭日があれば、5時〜8時を2回入れて調整した。2016年2月、現在の渋谷Bになる。4時30分〜8時、開始30分前入室可、月曜、木曜、金曜、ただし、祭日はなし、月の回数は、9〜12回。今の渋谷Bの原型が整った。渋谷Bについて、本来、6時〜8時だということを知らない子も多い。また祭日なしというのも、だから、4時半から、ということも知らない。渋谷Bは、竹の会の中では、様々な事情の妥協の中で生まれて形を作ってきた、コースであった。

⭕️本気で合格できると問うてみたことはあるのか 、憧れだけでは合格できない

 週3回習い事に行っていて合格できると、本気で考えているのか。 学校から帰って、1時間かそこらの勉強で、本気で合格できると思っているのか。 子どもの憧れを大切にするのはもっともです。ただこの憧れというのは、子の未来を開くこともあれば、絶望の淵に立たされることになることもある。なかなか厄介なものではあります。憧れで、未来を選択する、このあたりまえのように見える選択が何をもたらすか。いや現実に逆らわない選択をする人もいる。しかし、子どもは、夢を見る、夢に生きる、たまに夢に生きる大人もいますけど、とにかく子どもは夢に生きる。桜修館を見て好きになった、小石川を見て好きになった、そういう子がよくいる。夢に向かって進もうとする。親も子のそういう姿を見て、応援したいと思う。それはいい。しかし、現実を夢ですり替えることはできない。能力の制約という現実は、夢では乗り越えられない。能力をクリアできれば、夢も現実になる、かもしれないけれど、 ただ、憧れと現実を履き違えてはいけない。 もちろん夢を持つことは大切だ。 憧れが夢になる。夢の実現をめざして、努力することも価値なしとは言わない。いやきっと価値あることなのだろう。 だが、しかし、ここは冷静になることも大切だ。 さて憧れというのはここで厄介なものに見えてくる。なにしろ選択で人生がガラリと変わるのだから。 「この子は桜修館に憧れまして」と親は言うけれど、わたしには、一瞬にして無理とわかる、もちろん可能と思うこともある。憧れで、人生の選択を、していいのか。 もう少し現実を直視して判断すべきなのではないか。石橋を叩いて渡る、という。これも選択の態度のひとつである。臆病な選択が裏目に出ることはある。また慎重な選択が功を奏すこともある。だから、一義的には言うことなどできない。 ただ思う、憧れは大切だけれど、憧れだけで、選択することは危険だと。 憧れはいい、問題は、能力と人生をかけるだけの努力の担保があるのか、覚悟はあるのか、である。

🔵指導の達人

 竹の会という塾はあなたたちの既成の塾理解では整理できないと思います。 あなたは、神指導というものを信じるでしようか 。竹の会との邂逅(かいこう)が、子どもに生き方というものを考えさせる契機となる、わたしはそう思っています。確かな手ごたえで、未来へと進む道を確信していく、竹の会とは、そういう塾である、と思います。 竹の会は、もう34年に渡って、確かに、渋谷の片隅にいた、それと気づく人は、ほとんどいなかったけれど、心ある人たちの目に止まり、そういう人たちに支えられて、生きながらえてきた。竹の会に出会った人たちのすべてが、竹の会に好意的であったわけではなかったけれど、心から竹の会に心酔する人たちが、奇跡の合格を果たしてきたこと、竹の会が生きながらえてきたのは、この奇跡の合格、いや私の指導を受けた子たちがなぜか合格してしまう、そういうところにあったのではないか。なぜ合格するのか、わたしにもわからない。竹の会の神さま、きっと竹の会には、神さまがいて、わたしの思いが、神さまを動かしたのではないか、わたしは本気でそんなことを考えていた。「この子は受からせてあげたい」、 と思うと、とにかく夜も寝られないくらい、真剣に悩む。それで思いつく限りの手を尽くす。そういうことが、合格をもたらしたのかもしれない。わたしがそんな気持ちになるのは、素直で、真摯で、正直な、心に打たれる時。そしてひたむきな努力する姿勢に感動する時。そういう時である、ことは、間違いない。 だから、神さまのいない子もいる。 いつも居眠りしているとか、遅刻の常習とか、わたしを揶揄するとか、ましてや反抗するなどの子に竹の会の神さまが宿ることはないし、なにか勉強を回避する子にも当然ながら神さまが宿ることはない。落ちた子は、落ちるべくして落ちた。このことは、当の落ちた子が一番知っている。

 落ちる子は知っている。心の動揺は隠せない。自分の嘘像を知っているから、現実を畏れる。だから、本番の前日、わたしを不安に陥れる、一言を、これは本音の一言なのであろうが、それが不合格を暗示していたとは。不安は現実になる。これも受験の世界では、真理である。

 竹の会の指導は、神指導。 これは、竹の会に入会して実際に指導を受けて見て親御さんが、子どもさんの変わりように驚きを隠さない、子どもの勉強姿勢が、一変する。そういうところから、竹の会の神指導の一端にようやく気づくという形で現れるのが普通です。よく「これまでの塾は何だったのか」と驚きを隠さない親御さんもいますが、ただ入会試験をクリアした子とそうでない子との間にはそれなりの温度差があります。本音を言えば、入会試験に合格できない子の指導は、無理です。竹の会では、救済措置として、準合格とか、仮合格とか、がありますが、これはそういう子の中にも、指導可能な子がいる、という経験から、とにかく入会させて、ようすを診て見ようということです。が、外れのことのほうが多い。指導が円滑に進まない、竹の会のこれまでの、指導レジュメを理解できない、それで新たにレベルを下げたレジュメを作り、反応を見ながら指導するというようなことをやる、ということで、手間がかかり、わたしのストレスも溜まりがちで、指導の進捗の甚だよろしくない、気の長い指導を余儀なくされることになる。

 もっとも合格した子ならいいのかというと、また別のストレスもある。この点から言えば、仮合格の子の方が余程いい子もいる。それは、性格、家庭の生活習慣、から来るストレスである。課題を出さないとか、親が体育会系体質だとか、勉強を何よりも優先させるという家風でないとか、習い事、稽古事は譲れない家庭とか、共稼ぎが普通としても子の管理が全くないとか、まあ、こちらのストレスもバカにならないから、五十歩百歩かもしれないけれど、指導に難渋するほどの子、手詰まりの子の指導は、先が読めないだけに、手を引きたいと切実に思う、ことも多い。

 竹の会との出会い は、本当に、限られた期間の、たまたまの、偶然の出会いてす。一期一会と言いますが、もう一度すれ違ったら、二度と出会わない、それくらいに偶然です。ただ折角出会っても竹の会を否定する人というのが必ずいまして、こういう人は評判を聞いて来たのだけれど、やはりどこかで信用していない、そういう親の気持ちが子どもにもわかっていて、どうしても、何かと中途半端になる。中途半端ほどいい加減なものはないから、必ずよくない結果になる。そしてやっぱり自分の思いが正しかったと竹の会を否定する、最初から信用してないのに竹の会に来るなということです。

 一期一会というのとは、少し違うのですけれども、街を通りかかって、何気に、気を引かれる店があり、中を覗く、すると、いいな、という物が売っている。値段を見ると結構高い。それで諦めて、去る。しかし、後で、やはりいい、欲しい、それで、もう一度その店に行く。しかし、もう売れてない、そういうことがあります。 いい物に出会ったとき、やり過ごせば、もうその物に出会うことはない、 それが人生のようです。竹の会も同じです。 それから、折角出会っても、否定する姿勢があれば、その否定は、なにかにつけて否定するから、失敗するしかないのです。 だから出会いというのは、一回で、ものにしなければならない。出会いを大切にする人と、出会いはいくらでもあるという人の違いは、前者は成功する人であり、後者は、結局何も出会うことのない人です。

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