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都立西への道/都立桜修館を受ける/直感的判断はお粗末/勉強する立場の人になりきれ/相対的判断

2016.05.01

 おはようございます。本日は、渋谷Aの指導日です。世間はすでに連休に入り日本民族の移動が始まっているのかと思いますが、竹の会は今日一日勉強ということになります。もっとも竹の会では近年5月の連休に指導日を設けることはなく、明日から4日間お休みです。去年は2日の日程で北アルプスの黒部弾丸ツアーに参加しましたが、今年はそのような計画はとんとなく家でおとなしくしています。

 ◎新小4募集 

 小石川、桜修館をめざすみなさんが、できるだけ早い時期に竹の会と出会えることを願っております。竹の会にやってくる、多くのみなさんが、小5の終わる頃、やってきて、竹の会と出会い、竹の会のすばらしさに触れ、もっと早くに来ていればと悔やみます。昨今の小石川と桜修館の難しさはもはや揺るぎない事実です。この牙城を崩すには、小4のときに、まず勉強のスタンスというものをしっかりと固めておくことです。小5の1年間はじっくりと基本的なものの修得に時間を費やすことです。よく世間の親は、「まだ小5だから」といろいろな勉強以外のことに時間を費やすものですが、そういう親子というのは結局失敗するものです。「6年になったらそれどころではないので」と言いながら、実家に帰る、習い事、稽古事を続ける、法事という名の長期旅行、長期の家族旅行、と尽きません。

 こういう人たちは、結局失敗する人種です。

 成功する人というのは、いったん受検すると決めたのなら、決してブレない人たちです。わたしは合格した人たちと失敗した人たちを比べると、勉強というものに対する接し方において対極にあると考えております。平成23年に小石川に合格した男子は、小4の8月に竹の会にやってきました。彼は品川区から、私鉄を乗り継いで通ってきましたが、彼の合格までの道筋は勉強ひとつにしぼったものでした。朝は1時間朝勉、帰ったら復習、そういう生活を合格まで続けました。彼が実家帰省とか、家族旅行とかで塾を休むことはなかったのです。よくある法事とか、そういうものもなかった。いや小4の年末から年始にかけて実家帰省したようです。あのときは、30日と3日休んだような・・? とにかく彼が勉強以外のことに時間を費やすということなど見たことがありません。

 平成27年に桜修館に合格した女子も同じでした。二度のインフルエンザで休んだこと以外、彼女が休んだという記憶はありません。

 多くの不合格者がやるように小6の夏までさまざまな習い事や稽古事を続ける、小6になっても趣味に時間を忘れて熱中する、法事もそうですが親戚の集まりにやたら行く、娯楽、食事、その他で家族を優先する、などなどいくらでも勉強しない日というのが、ある、しかし、そういうことが、合格したという人には、一切「ない」のです。これは不思議なことでした。

 そういうことを思い合わせてみれば、落ちる人は落ちるべくして落ちた、自ら落ちる選択をしてきた、ということがわかってくるはずです。

 そういうこととの関連で言いますと、落ちる人というのは、わたしの意見よりも、親の意見で動き、親は自分の判断を優先させる、そういうことが言えると思います。わたしの言うことを聞かない親子が落ちる、そういう結果になっているのかなと思っています。

 そもそも人の判断ほど信用ならない、たよりないものはないと思うのです。歌唱力の審査なんかは昔は専門家と言われる作曲家や作詞家、元歌手なんかがやっていた。しかし、今はカラオケの機械が進化して機械が審査する、審査させる。するとかなり客観的な判断がなされる。人間の判断は、主観、特に、直感的なもので、まったくたよりない、根拠のない、判断なのだということがわかってくる。

 親が、塾を判断するとき、これだけ大手に人が集まっているのを見ると、これはもう親の直感的判断なのだろう、とわたしは思ってしまいます。直感というのは、偶然よりはまし、それくらいいい加減なものです。おかしなことですが、たいていの親という人たちは、「みな自分の記憶力の悪さについて愚痴を言うが、自分の判断力について不満を言う者は誰一人としていない」(ラ・ロシュフコー)ものです。

 判断する過程というのは、実は、一定の不確実さがふくまれる状況において、取捨選択する過程である。本来その不確実さに対しては、数理的に、確率論的に、処理しなければならないのに、人は、当面、親という人たちは、その不確実さを直感的に処理する人たちである。判断に際しての不確実さを示す言葉として、「通常は」とか、「可能性がある」とか、「最も一般的には」とか、「しばしば」、「およそ」、「よくある」などがあるけれど、わたしたちは、そういう不確実さに対して、いとも簡単に直感的に否定ないし肯定の判断をしてしまう傾向があると思います。

 実は、こういう不確定要素については、わたしたちは、確率論から判断するのが正しい、とわたしは痛感しています。人間のなす直感的判断ほどあてにならないものはないと思うのです。このことは、経験豊富とされる音楽の専門家の判定が機械に劣ることからも知れることでした。とするならば、医師のなす判断というものも実は信用ならない代表なのではないか。検査値で誤判断する、症状で誤判断する、機械の判断のはずの検査結果の判断が間違うとすればこれはもうどうしたらいいのかわからない。機械を使いこなしていないわけである。そういう無能な医師がいることを忘れてはならない。

 直感の根拠のない点は、明らかです。直感で判断する人は、比較考量ということができていない、客観的な証拠よりも誤りにつながりかねない「期待」で判断したり、人間本来の弱点である「気分により」判断することもある。さらに、問題なのは、人間というものが、たまたま最初に出会った事情に影響を受けやすく、その評価をひきずる傾向があることである。そしてこれがいちばんの問題なのであるが、情報が多い場合、人は、情報のすべてを考慮に入れて判断することができなくなる、ということである。こういうときに、人がなすのが、直感的判断です。直感というのは、根拠のない、もっとも不合理的な判断なのです。

 わたしたちが、直感で選んだというとき、実は、選ぶ前にすでに「期待」、「第一印象」(最初に出会ったもののこと)があり、その期待、第一印象を直感と呼んでいるにすぎない場合が多いということです。

 大手塾を選ぶ親の行動が、その程度のものであるとすれば、つまり、比較考量というものが「ない」ということであれば、日常的な判断の過程において、いくらでも勉強というものが他のどうでもいい行事に優先されて犠牲にされてしまうのもわかるはずです。

 判断に際しては、ベンジャミン・フランクリンが助言した次の方法が有益とおもう。

 一枚の紙の真ん中に線を引き、二つの領域に分けなさい。片方には、ある行為に賛成する理由を、もう片方には反対する理由を書く。三日か四日かけなさい。じっくりと考えなさい。そして折に触れて、それぞれの下に賛成または反対の理由を書き足していきなさい。すべての理由が出尽くしたと思ったら、個々の理由に重みをつけていきなさい。個々の理由に重み、つまり重要度をつけていきなさい。

 さて、これが相対的判断、わたしの推奨する「比較考量」ということです。

 わたしたちの直感的思い込み判断よりずっと合理的ではなかろうかと思います。

 様々な習い事、稽古事を勉強に優先させる親たちは、まだ小5だからとか、まだ小5前だからとか、いろいろと理由をつけて、時間というものを過小評価し、今やっておかなければ取り返しがつかないという伝家の宝刀で自分の期待を絶対と思い込み、選択する。比較考量すれば、勉強することのほうが理由に重みがあると思われる場合もそういう親にはまともな判断は期待できない。

 失敗する親は、自分の期待を優先させるだけである。そもそもの判断そのものがないともいえる。

 ◎勉強は「するかどうか」で悩むものではない

 都立西をめざすなら、都立小石川をめざすなら、都立桜修館をめざすなら、勉強するかどうか、で悩む人はまず除かれるであろう。勉強はすると前提して、さてどうするか、なのである。勉強するという立場の人になりきれ、なりきって行動する、そうすれば、自分は勉強する立場の人だから当然勉強するということになる。勉強する立場の人を演じろ、ということである。そこでいろいろ考えてはならい。

 勉強する立場の人を演じていれば、いつかほんとうにそういう人になる。演じていればそういう人になる。だから自分は演じているのだでいい。勉強する立場の人ならば、もう机に向かい本を開いている、ノートに整理している、英語を音読している、そういう立場の人になりきればいい。そしていつかそういう立場の人がほんとうの自分と気づくことになる、そのときまでそういう立場の人を演ずればいい。

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