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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

都立西を獲る脳/新陳代謝は命の営み/めんどうくさいは勉強の天敵/選択と不安

2016.05.06

 おはようございます。連休はいかがでしたか。連休中の悲惨な、人間のもたらす事故のニュースは痛ましい。今日は、渋谷Bの5月第1回目の指導日です。渋谷Bは、5月より、渋谷Aとは全く切り離された、独立したカリキュラムを組むこととなりました。渋谷Bの予備コース的な性格を払拭し、ひとつの意味をもたせようと腐心しております。指導時間数の少ないことは、受験にはやはり圧倒的に不利と認識しておりますが、その意味では、制約、限界ありのコースであるとの前提で、可能性を探っております。おそらくBで成功するには、知能に恵まれた、実行力ある生徒なのであろうと推測しますが、そういう人ならAでこそ伸びるであろうということは自明のことですが、Bにはさまざまな理由でAに参加できない事情を抱えている人を想定しております。

 小学生なら少なくとも備えるべき基本的な学力だけはここでつけておく、それは将来において都立トップ校をめざすときの礎をつくりあげておくという意味あいがあります。少なくとも竹の会に通うということは、他塾ではあり得ない、基本的な学力の習得、思考力の養成を可能にすることだけは間違いないことです。中学生であれば、竹の会のレジュメ指導がもたらす効果に目を見張るかもしれません。しかし、それはやはりAと比べると見劣りするかもしれません。そういうことを了知した上であえてBに参加し、予期せぬ効果を発揮する努力をする人が出ないとも限りません。

 Bについては、部活でほとんど通えない、しかし天才的な生徒を念頭にR型コースを構想しております。たまたまそういう生徒の親御さんから2件ほど問い合わせがあったことが機縁です。勉強に意欲がない生徒が、R型のような通い方をすることは想定しておりません。問い合わせのあった生徒は学年1番とか、2番の生徒でした。そういう勉強にも強い向上心をもった生徒なら竹の会のレジュメをこなしながらやりぬけるのではないかと思料したのです。竹の会のレジュメは勉強する意欲のない子が使って何かをもたらす特効薬などでは決してありません。そういうことを期待されているのであればそれはない。

 そもそも勉強に意欲がないということが問題です。よく母親が連れてくる子ども、問題をかかえた子どもというのは、知能的にも並よりやや下、ベタな問題を自分で考えてなんともならないレベルの子が多いのですが、そういう子というのは、実は、根のところでは、勉強嫌いなのではないか、と思うのです。だから積極的に勉強するという行動はなかなかとらない。実は、これはそれなりに知能の高い子にもいる。知能が高い子にも勉強嫌いがいる、ということですが、そういう子たちの共通因数というのが、「めんどうくさい」という因子が見てとれる、と思うのです。

 なかなか行動に移さないという子は、知能的に鮮明でないからというのもありますが、根はこつこつ努力する型ではないというのが本当のところではないかと思います。頭のいい子のなかには、その頭のよさのゆえに、やることを何かと省力化しがちで、やることを端折る、減らす、できるだけ最低限で済まそうというタイプの子がいます。こういう子は自ら進んでやる傾向が低い、言われて初めて動き出す、言われるまではわかっていてもやらない、そういう行動というか、性向があります。省力化して暇な時間を作り出し、いろんな意味で楽をする、というタイプは成功しないタイプです。

 「めんどうくさい」ということを言う子というのは、見込みはないと思います。勉強というのは、本来めんどうくさいものです。ですから、めんどうくさいは勉強には天敵でさえあるのです。やたら省力化する習慣がついてしまうと、本来思考すべきことがらも思考を省力化する、それは結局深く考えない、という致命的な状況に至ることを意味しています。

 勉強には、めんどうくさいは天敵です。めんどうくさいから、Bにする、というのは、最初から間違っています。

 かつてため息ばかりついている女子がいました。机にほとんどついていない。わたしは集中して勉強している姿というものを見たことがありません。わたしはそういう子に優しく接して学力をつけるべく導いてきたつもりです。しかし、さすがに受検直前にいつまでも机から離れて指導室でくつろいでいるというのはありえないことでした。ほんとうにため息ばかりついているのです。それは何のため息だったのか。たぶん勉強が嫌いだったのではないか、そしてめんどうくさいことをやるということにため息をついていたのではないか、そう思っています。

 勉強をするということで、親の期待に応えようとすればするほど、内心のめんどうくさいという本音との齟齬は鮮明になり、思わずため息となって出てくる、それはある意味体から発する悲鳴、「助けて」信号だったのかもしれません。

 大手にはすごい天才もいるけれど、大半は、普通の子たちです。中には学校では優等生という子もいます。そういう子であれば大手で伸びていきそうにも思いますが、そうではないようです。ということは、大手で成功する天才というのは、どれほどの天才かということです。少なくとも竹の会なら学校で「よくできる」を揃えている子なら、小石川や桜修館に合格できるほどまでに伸びていくことは間違いないのですが、大手では伸び止まりしてしまう。「よくできる」が6割~8割で「普通」の子として、こういう子というのは、大手に行けば十中八九潰されるでしょうね。テキストの単元を集団授業で「終わらせたこと」にしながら、進めていく、そういうことをやっていては、ほんとうのバカにしてしまう。計算力というのがまるでない、割合というものを曖昧な知識としてただ通過しただけの子たちです。テキストの単元もせいぜい2~4ページあるのか、それを終わらせたら、「割合」は終わり、子どもたちは、「割合はわかった」と言うのです。竹の会にやってきたら「割合はできる」と言いながら、全くできない、わかっていない、小4の訓練生にさえ届かない、それが大手の小6のレベルです。「よくできる」が5割以下なら受検など考えないほうがいい。それで塾に行けば合格できるなどと考えるのがおかしいのです。

 これは塾というもののありかたもある。塾を探すという人のなかには、「できないから」というのが普通にあることは知っている。そういう人のための塾というのもあるのだと思う。わたしもかなりできない子たちをそれはたくさん教えてきたからそういう子を教える困難さというものはよく知っている。ほとんど効果の出ない地道な気の遠くなるような仕事である。オール1の生徒をほぼオール4にまでしたこともある。素内申11の子を都立玉川に合格させたこともある。わたしの過去の高校受験、中学受験の成功者たちのほとんどが本来合格などありえない奇跡の合格であったかもしれない。だからそういう子たちをどう指導すればいいのかはだれよりもよく熟知している。かれらは手のかかる子たちである。家庭学習の習慣もない。素行に問題のある子もいる。そういう子のために、本来の勉強以外のことで時間を、エネルギーを使うことのストレスは尋常のものではない。だからあるときからわたしはそういう子の指導を断念した。竹の会で入会試験をやる意味はもちろん合格可能性のある子だけを指導したいという主旨であるけれど、そういう副次的理由もある。竹の会で「準合格」というのは、微妙なものがある。ただ今年は、初めて準合格の子が白鷗や富士に合格した。準合格から合格したのはこれが初めてのことだった。竹の会の指導の水準で「できない」とされている子たちでも、大手やその他のところではかなり上位にあるということもわかってきた。

 知識をつめこむとバカになる。新陳代謝ということばがある。古いものを捨てて新しいものと入れ替える。体の場合では、食べ過ぎると、不要なものは脂肪として蓄積される、それでも蓄積しきれない毒素は体の細胞を壊す、こういうことを言っているのが、医療ジャーナリストの船瀬俊介である。船瀬は、「食べ過ぎ」がよくない、といっている。運動してこなせるだけ食べればいいという考えだ。

 これは知識の詰め込みと似ている。脳の場合は、運動に対応するのは、思考だ。思考でこなしきれないだけの知識をつめこむ、これは脳に毒素としてはたらく。知識というのはいちいち思考という運動を通して消化して初めて次の知識が入るしくみになっている。だから知識を得る過程というのは、緩慢であり時間をかけなければならない。何時間も考えるというのはそういうことなのである。脳の消化時間である。これを知識としていくらでも詰め込む、そういうことをやる大手の子たちというのは、脳のしくみを理解しないアホということである。

 不思議なのは、大手で失敗しても全然懲りずにまた大手に子を通わせる親たちがいっぱいいることである。わたしがよく耳にするのは、「大手は楽しい」という言葉である。友だちや仲間がいっぱいいて、お喋りできて楽しいというのである。そういえばかつて栄光に中1から無料体験講座からそのまま横滑りして中3の7月まで通ったという生徒がいたが、彼は、3人称単数現在のSを知らなかった。父親に「なぜこんなになるまでいたのか」と聞いたら「本人が楽しいと言って止めなかった」と言った。それで大手というのは、楽しいところなんだな、と思った。これが、サピや日能研だと成績は無視できないし、楽しいとばかりは言えないかもしれない。大手は止めるというとかなり強く慰留されるらしい。竹の会だ「止める」と言えば、昔から「去る者は追わず」主義だから、強い慰留というのがわからない。

 ●選択と不安

 人間というのは、自分の選択が無意識にも「賢い選択」をしたと思い込もうする。子どもが特別天才でもないのに大手塾を選ぶ親の選択根拠、正当化論理とはどのようなものであろうか。少なくとも竹の会のような塾は極端に過小評価されているに違いない。よく「パンフを送ってほしい」という親がいるけれど、こういう親が実際に見学さえも来た例しがない。もともと自分が惹かれたことは認めつつ、それを打ち消すためにパンフをわざわざ送らせて、過小評価して選択肢から外すという一連の安心化作業をするためだけにこういうことをやる人種である。その結果選ぶのが大手でもとは権威主義的なのである。パンフを求める行為から権威主義的兆候は見えていた。だから竹の会では「そんなものはない」と言っている。だいたいHPを見れば今はわかるようになっている。それ以上にパンフを求めるというのはその気がないということを白状しているようなものだ。

 この権威主義的心理は、自慢する子にも見てとれる。よく自慢話をする子というのがいるけれど、自慢というものが実は自信のなさの表れであり、自慢することにとって自分を権威付けしているわけである。自慢は自分の能力に限らず、身内の活躍、親戚の活躍、裕福さなどとどまるところを知らない。飽くなき権威付け、そして自尊心の満足をはかろうとする。正直付き合いきれない。

 わたしには、張り子の虎などどうでもいい。

 わたしたちは、決断するとすぐ不安にかられないだろうか。決断したら満足するのではなく、後悔の念を抱くということはないか。決断した途端に自分のした選択に自信がなくなり、心が揺れ動くことはないか。しかし、もう後には戻れないと現実を悟ると、今度は、自分の選んだ結果を過大評価しようとする。そうしなければ自分を納得させることはできないからである。

 以前台風の日に借りたヨットを荒れる海に家族とともに乗り出して、転覆して全員死亡した事故があった。遠くから1日だけ休みをとって高いカネを出して家族と楽しみにしてやってきたのに台風に遭遇した。それで取り止めるという選択はしなかった。このような愚かな選択をするのが、普通の人である。3.11のとき、津波襲来まで時間があったのに、逃げるタイミングを失った大勢の人たちがいた。逃げるのを躊躇し、緩慢な動きをした人たちがいた。その判断の根拠は、逃げないという選択の根拠は何であったか。わたしたちの判断にバイアスがかかるのはもはや自明としなければなるまい。「正常性」の判断ができないのである。バイアスがかかりできないのである。

 ところで迷わず大手を選ぶ親たちの選択はその結果が正しかったかわかるのが1年後、2年後のことである。自分の子どもがどれほどバカになったのか、それさえも悟らない無知な親もたくさんいる。そういう親が底辺都立や中退率の高い私立高校に結局子どもを入れることになる。最終学歴がそういう高校になる。それが選択の行き着くところである。お疲れ様というしかない。

 

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