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都立高受験、都立中受検とバカ親の研究~日本語を軽視する親の無定見とその末路

2016.02.28

 おはようございます。2月28日になりました。2月最後の指導日です。2月3日の受検、6日、9日の発表、10日の連絡待ち、24日の受験と慌ただしい、誠に心身に負担のかかる月でありました。2月は短い、しかしわたしにはなんとも長い日々でした。

 掲示板に番号を見る、見つける、そのことの過酷さを知るゆえに子どもたちには厳しい要求、注文をしてきました。思い通りに子どもたちが動いてくれない、そういう思いがストレスとなり、それでも思い直して、また新たな手を打つ、そういう日々であったと思います。特に、公立中高一貫校は、小5の3月から小6の8月までの6か月で決まる、という実感を改めて深くしました。世の中には、1年も2年も大手に通いながら、ろくに計算もできない、割合もなにも理解していない小学生がうようよいる、だから、竹の会でやった子たちが、わたしの思い通りに動かなくても、他と比べると「よくできる」ということなのでしょう。

 してみると大手、大手と自分の子を無定見に通わせたがる親というのは、自分の子を揺るぎないバカにする大バカ者ということになる。いやこれには注釈がいる。大手以外なら、思考が育つか、というと、それはまずないからである。塾専用のテキストを制作する業者というのが十数社あります。そういうところも生き残りをかけて斬新なテキストをいろいろと作るわけです。有名な「新中学問題集」や「新小学問題集」などを作るK社のテキストは全国の私立中学で採用されているし、たいていの個人塾、中小塾ではこれを使っている。わたしもK社とは取引がありますから、必要に応じて仕入れることはあります。個人塾の大半はこういうなかなかよくできたテキストを使って授業を進めていくというやり方をとるものだと思います。栄光やエナなどの大手は、自前のテキストを作ってやる。いずれにしてもお仕着せのテキストと授業で進めていくわけです。個人塾だとさすがにバカな生徒を放り出すわけにはいかないから、補習などをやるところもある。大手だともともとのテキストが、猿でもわかるように作られているので、当面は深刻な問題とならないように仕組まれている。いかにバカな親子を騙して1年、2年と引っ張れるか、そういうことだと思います。個人塾だと、無料の無制限の補習とかをやって親子を引っ張る、つなぎ止める、つまり身を切るほかない。

 さて、そういう塾に自分の子を放り込む、預けるということが何を意味する、どうなるか、ということである。大手以外なら、いいということには必ずしもならない、という所以である。

 竹の会というのは、個人塾ですから、大手以外です。それで、竹の会では、授業はしない、学年も区別しないでひとつの教室でやる、・・まあ、いろいろ既製の塾とはちがうわけです。先のような既製塾の枠にあてはめて竹の会を評価、理解しようなどということはしても意味がない。かつては、「自分でプリントをやるだけなら公文みたなものですか」というバカ親がよくいましたけど、バカを言っちゃーいけない。とにかく自分の知っている陳腐な何かにあてはめて物事を理解しようなどというIQの足りないことをやる親が多い。

 大手に脳天気に通わせている親というのは、実は子どもに習い事、稽古事を何かとやらせているほどに無定見でもある。早期英語というのもあるけれど、わたしは関心がない。少なくとも自分の子にはそういうことをやったことはない。まず、小学1年前後にしっかりとした平仮名、漢字を書けるようにしつけること、これはやってきた。文字を、すくなくとも読める文字を書けないではどうにもならない。読書を自分の子に意図的にやらせたこともない。よくゲーム禁止などというけれどわたしは就学前にに嫌と言うほどゲームをやるに任せてきた。漫画なんかは幼児から好きなだけ買い与えてきた。学校に入るといつしかゲームもやらなくなり、学校の勉強をきちんとやるようになった。それだけである。習い事、稽古事一切なしであった。なによりの教育となったのは、わたしがいつも本を読み勉強する姿を見て育ったということしか思いあたらない。

 我が家では、勉強がすべてであり、勉強以外で価値を認めることはなかった。特に、勉強しろ、と言ったこともない。

 何を云いたいか、と言えば、もっと日本語を勉強したらどうですか、ということです。近頃の子は、「読書をしているか」と言えば、「沢山読んでいます」と答える。しかし、国語読解問題など解かせるとほぼ零点しかとれない。この齟齬は何なのか。字面を追うことが読書だと思っている節がある。一行読んで考える、意味を考える、意味を読み解く、前後の文脈との整合性を考える、抽象化してみる、価値を読み解く、そういう読み方を知らない。

 先人の本を読み、先人に学ぶことをしない。古典に目も向けない。読んでいる本がハリポタではハリボテの頭にしかなるまい。読書とは、古典に目を向けること、先人に学ぶことである。自分が考えることなどもうすでに先人たちがいい加減に考えて経験してきたことである。どうなるかも見えている。よく歴史に学ばないというけれど、新しいものばかりに気を奪われる輩が溢れているけれど人間の作る新しいものなんか信用できない。格言というのがあるのは、世の中の人間が格言を知らない、バカばかりだからである。世の中の人間が格言どおりなら格言なんかは生まれない。先人の知恵を全く無視して、「二兎を追う」バカばかりである。

 自分の子は努力すればできるようになる、そう思いますか。しかし、現実を素直に見なければいつしか手痛いしっぺ返しを食うことになる。その意味を悟るのは、知ることになるのは、近い未来のその時です。

 

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