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青山・新宿・小山台・駒場が最低線/小石川、桜修館は小4で決まる/眉唾社会に騙されないために

2016.10.02

 おはようございます。今日は少しの晴れ間があるようですが、台風18号がまたまた列島を縦断する見通しです。今日はAの指導日ですが、竹の会の日程では、9月指導日最終回ということになっています。このところ突然の発熱メールが続いておりますが、今日は今のところありません。学校という場はさまざまな病原体の感染の場でもあります。インフルエンザもそうですが、最近はよくマイコプラズマも聞きます。子どもたちはこうしたさまざまな菌やウィルスに鍛えられながら大人になっていくことでしょう。感染しても発症するかは体調にもよる種類もありますが、インフルエンザ・ウィルスは発症は必然でしょうね。マスクでどこまで防げるか、という話しもあります。専門家の中にはマスクは役に立たないなどと言う人もいますが、実践した結果から言えばかなり有効と思っています。マスクなしのときは子どもたちなどからの感染は必至で、マスクをしていたおかげで大過なくこれたということはあると思います。ただ26年に桜修館に合格した女子はいつもマスクをしていましたが、1月28日頃でしたか、突然38度の発熱で本番も微熱で臨みました。マスク効果がなかったのか。少なくとも絶対ではないけれど、鼻と口からの侵入はある程度までは防げるのではないか。

 レジュメ指導というのは、一枚のレジュメによってリアルタイムで子どもたちの脳の中をスキャニングしているのだということです。子どもたちがその一枚のために費やした時間、不正解としても途中式から示される思考の跡から推測できる理解の程度、式が示す幼さ、理解していないという徴表、など、そういうところを見ているわけです。一枚のレジュメで示される子どもたちの脳の濃淡に実は一喜一憂しているというのが本音です。わたしが小6の出してくるレジュメで落胆するのは、脳の濃淡をリアルに知るからです。「あたりまえ」の事実をありのままに読みとれない、あまりにもの粗雑さに失望するからです。なにか相当できの悪い機械のように思えてしまうのです。機械は早くから整備を重ねてチューニングをしてこなければダメです。そしてもともと最初から性能のいい機械もあるということも抗えない真理です。

 大手に迷うことなく、いやもう最初から大手しかないという親というのが多数派なのですけれど、こういう親たちができの悪い機械を持ち込むのが大半なんでしょうけれど、中にはじっくりと整備する、調子を見ながらチューニングしていけば性能を発揮する、そういう機械があるわけです。それを大手のような画一的な、集団的な処理をするところ、工場のベルトコンベアに乗せてポンコツにしてしまう、それが残念でなりません。いやもともとできの悪い機械ならわたしのところに持ち込まれてもどうにもなりません。こういう機械が大手に持ち込まれてどうなるかということですが、不良品、粗悪品として捨てられる、ということになります。

 大手の工場で性能を発揮できるのは、最初から高性能の機械だけです。もともと工場などに入れる必要もなかった機械です。こういう機械は多くの不良品を踏み台にして己の価値を引き立たせるという意味で大手に存在する価値を見つけます。バカは常に引き立て役でしかないということです。

 世の中というのはもう紛れもない眉唾社会です。オリンピックの予算が膨れあがったことが問題になっていますが、官僚と議会が利権を見込んで予算を作ればそういうことになるのはあたりえでしょ。地方議会の腐りようは手がつけられない。地方自治は民主主義の学校だ、などと昔清宮四郎の憲法の本に書かれていたけれど冗談じゃない。腐った議員が民主主義の悪いところばかりを学んで利権を貪る、税金を略奪することばかり考えている。眉唾をつけて考えるなどというレベルではない。あの元総理だかなんだか知らないが、森会長というのが、安倍の後押しで税金を食い尽くすことになんのてらいもないというのがありえない。税金を泉のように使って足りなくなったら税金を上げる、それが政策というのならこれほど単細胞な頭にわたしたちは日本の将来を、わたしたちの最低限度の生活さえも破壊しかねない単細胞に託したことになる。福島の事故後材料費が上がったなどという眉唾な根拠をあげて、予算が3倍に膨れあがったことを正当化する。バカでしょ。自分たちの利権を組み込んでいったらそうなったというのが本当のところだろうけれど、関連予算を自分の親族企業に請けさせたり、これぞとばかりに特殊法人を起こして天下り先を作っていくなどはただの単細胞ではできない、悪知恵のはたらく輩ではある。

 わたしは性能を発揮できそうな機械について、ひとつひとつ手をかけながら丁寧にじっくりと時間をかけてチューニングしていこう、整備していこう、部品のひとつひとつを磨いていこう、ということを言っているわけです。せっかくのいい機械を大手工場の大量処理システムの中に放り込むことだけはしてほしくないと訴えているわけです。もともとのポンコツならバカ親が大量処理機械に放り込んで、いずれは不良品として放り出される、捨てられるまで大枚払って委託するのは勝手です。自分の子だから好きにすればいい。わたしには全く関心がない。いずれは社会の底辺にくすぶる人間の大量生産にバカ親たちが血眼になってカネかけてやることに興味などない。ただわたしは大事に手入れをしていけばいずれは超一級品として社会に貢献することはまちがいない機械があることを認めて、そういう機械を大手に放り込んでポンコツにしてしまうことが悔しいのである。ここには大いに関心がある。

 とまあ比喩的に普段のわたしの論を繰り広げてきましたけど、もちろん比喩です。わたしは人間を機械などと思ってはおりません。ただ知能の部分を捉えて、機械の性能に擬えた、その意味で比喩した、それだけのことです。

 わたしには子どもたちの脳の状態がまるでスキャニングしたように手に取るようにイメージできるのです。それはわたしには試薬、手術、処方に匹敵するレジュメ制作という技術があるからです。子どもの知能の段階を、微妙な知のはたらきをさまざまな問題を調整して知ることができるからです。大手塾や地元塾がお仕着せの画一化されたテキストを使うのと違って、わたしは指導したいことをどのように指導するかも想定してレジュメを調整します。割合のこんな問題ならどうか、あんな問題ならどうか、といつも工夫して能力を調べているわけです。だから子どもの今の知の段階が手に取るようにわかるのです。ですから、先ほど述べたように、子どもたちのできに一喜一憂もするわけです。いつも「試す」、そしてその結果を検証しているからそういう感情の流れになる、そういうことです。

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