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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

青山・新宿・駒場・小山台が都立最低線/小石川、桜修館は小4の8月まで/まず眉に唾つけたほうがいい/事実の観察

2016.10.01

 指導日の前日は休む間もない。今日は執筆中の「英文の構造」をようやく書き上げた。細かいことは次回の版にすることとして、とにかく訳をつけて出すこととした。中学はいろいろと執筆課題があって正直気が重い。今年の適性問題について「どういう視点から書いたらいいのか」見えてこないためずっと棚上げしておいたが、最近ようやくこれかなというのが見えてきた。ひとつには今の小6があまりにもひどいということがある。小4の8月あたりから育ててきて小6を迎えるというのがいちばんの理想である。ところが、去年の2月には小4を募集してもだれひとり来ない。小4の8月に来てくれれば一番いいのだけれどそれどころではない。小4の2月というのは譲歩してというのが正直なところである。小4の時期に大手に行った子というのは、実は思考しない癖があって思考の壁を自ら積み上げてしまう癖が身についてしまっている。まだ素直で変に曲げられていない小4の優等生なら竹の会という方法なら確実に伸ばしていける、そういう思いは強い。小6ぎりぎりだとどうしても無理な指導展開になりがちである。思考育成というのも中途半端なままに受検対策をとらなければならないから成功する気がしない。レジュメがどうしても空振りに終わることが多い。特に、問題文の読み取り、事実の観察というのが、粗いというか、これをまともにするには、鍛えるには少なくとも1年は必要だろう。

 実は今年はいつもなら小5の2月にスタートさせるレジュメを前倒しして実施している。まだまだ思考未熟の感は否めないけれど、小手調べである。特に、事実の認識があまりにも「粗い」。「観察」するということがわかってたいない。「あたりまえ」の事実から「あたりまえ」の意味が読みとれない子がいかに多いことか。親はいったい子どもにどのような「常識」を教育してきたのか。先日の指導で面積を体積で割っている子がいたけれど、自分で何をやっているのかわかっていない。1、2の女子が「あたりまえ」の理解をしてくれて、思わぬ収穫をしたと喜んだ。

 世の中の親というのは、平気で大手に子どもをやるけれど、わたしに言わせれば、小4の8月に天才でもない我が子を大手に入れることは無謀としか言いようがない。特に、学校の優等生が大手でチャンスを潰すことになるのはいかにも残念なことと思う。わたしなら学校の優等生ならこうやれば伸びるというやりかたがあるのに、そういう優等生が伸び悩み、受検に失敗していくのを見ていると残念でならない。

 バカな子なら別に大手に行ってバカを確定的なものにしても別にどうでもいいことである。竹の会だって学校の優等生でなければなんともできない。何度も言うけれど学校の優等生と言っても秀才でもなんでもない。「よくできる」が全体の80%ほどあればいい。それが一つの目安である。ただ少子化でクラスの人数が少ない中での「よくできる」にそれほど信頼性があるわけではない。だから外れもある。「よくできる」が足りているのに小6でA合格できない子もいれば、めったにいないが「できる」ばかりの小4がA合格することだってある。だから一つの目安である。

 世の中の親の大半はまず大手に行って失敗すると見ていい。特に、塾の経験というものがない親が大手を信じがちで、結局失敗しなければわからないわけである。世の中は眉に唾つけてちょうどと考えておいた方がいいのに、なぜか親というのがいそいそと迷いもなく大手に惹かれる姿を幾度となく目にしてきた。かつて入会試験を冷やかしで受けに来る親がけっこういて、合格判定なんか出ても「ああ、そうですか」という感じで「うちの子はできる」と考えたか、大手に行くこと見え見えであった。ばっかじゃないの、とよく思った。竹の会の入会試験は偏差値試験ではない。どちらかというと潜在的な、将来の指導可能性をチェックしているのである。仮に合格したとしても竹の会の指導の適性に合格したのであって、大手のテキストと授業による耐性ありと判定したわけではない。親のアホさ加減を見れば子どもの程度も知れたものでしょ。

 竹の会と言えば、たいてい眉に唾つけて見られる。まあ、世の中の塾というのは、どれもこれも信用できない、だから大手とめざす、巷の父親、母親の思考回路もわからなくはないけれど、むしろ大手こそ眉に唾つけてちょうどいいのである。

 ◎字がまともに書けないバカにするな

 別に書道を習うということなど言っているわけではない。勉強の基本中の基本というのは、まず字がきちんと正確に書けることであろう。親はあれこれ習い事や稽古事をさせる前にこういう基本をきちんと教育してほしいものである。字は形で意味を表現するものである。そもそもの形になっていない字を書いていったいどうするのか。字というものが結局はその子の勉強人生を規定することになるということがわかっていない。中学になれば、字を書いてノートを取り、整理ノートをつくる、そういうことが勉強の趨勢を決めていく。高校ならなおさらであると、大学だって研究という中には文字を書くということが当然のようにある。

 字がまともに書けない子というのは、字が「形」、「型」を生命としていることがわかっていない。だから字が死んでいるのである。死んだ字を書いてどうするのだ。

 ◎事実の日常的な意味さえも「わからない」というバカにしてどうするのだ

  大手に行って講師の説明ばかり聞いていると、日常のあたりまえのことも「わからない」という。自分で考えられない脳にしてしまってもはや取り返しもつかない。だからバカと言うのである。

  観察の意味がわかっていない小6、そして小5がいたので、一言書いておきます。観察というのはまず事実を正確に認識することです。事実がどうだ、ということをまず正確に押さえなければならない。資料がグラフならグラフが何を示しているのか、は最低押さえていなければならない。その上で、つまり事実を正確に踏まえた上で、まず事実が複数にわたる場合は、「共通点」を明確にすること、その上で特別の事実、変化について分析し、その特別たるゆえんについて理由を推理しなければならない。ところが、小5や小6の中には、最初の事実の把握の段階でもうあまりにも的外れなのである。いやこれは特に男子に多いのかもしれないが、自分で勝手に思いついた、何の根拠もない視点を事実にこじつけて答案を書くバカがいるわけです。

 ◎サブノートという勉強法

 先ほどの字をきれいに書くということとも関係してくるのですが、きれいな字が書ければ、きれいなノートが作れるの理です。中学や高校では、授業や教科書の要点をノートにまとめる、というのが、ひとつの勉強の方法となります。ノートにまとめるというのは理解を深めるにも有効な方法であります。東大生が受験の時に作ったノートというのが売り出されたことがありますが、それは見事なものでした。ただこれが受験の有効な対策かというと少なくともわたしには無理です。中学のときは中2まで定期試験の前には必ずノートにまとめて対策をとっていた。しかし、中学3年間が試験範囲となる高校入試ではこれは不可能であった。わたしは中3のときに方法を転換した。学校から5科目について配布された3年間のまとめテキストを「ひたすら読む」作戦に切り替えたのだ。いや授業ノートをとったり、何かをまとめたり、という作業を否定するわけではない。しかし、勉強の根幹的方法は何と問われれば「ひたすら読む」、何度でも「読む」ということにつきると思う。

 難関の国家試験を将来受けるという向きもあるかもしれない。このとき勉強方法というものが必ず問われる。国家試験だと知識の量も膨大となるから、サブノート方式では何年かかっても間に合わないということはわかるはずです。膨大な知識を処理する方法というものを戦略的に身につけなければならい。そのときに力を発揮するのは「ひたすら読む」ことであると思う。「ひたすら」読んで理解する、これだけである。勉強の奥義に特別な方法などない。ひたすら読んで理解する、これだけである。「ひたすら」というのは、一度読んで理解できなければ何度でも理解するまで読むという意味が込められている。

 ◎戦いに勝つ極意

 人間というのは、楽をしたがる、面倒なことを避けたがる、つまり本質的に怠惰なわけです。よく心の中で悪の心と善の心が葛藤するというような構図で心の中を説明したりしますが、たいていは悪の心が勝つわけです。怠惰な心が勝つわけです。面倒だという気持ちが選択されるわけです。なにもしないという不作為が決定されるわけです。わたしたちはこの2つの心がともに心の中にあると仮定しておりますが、そうなのでしょうか。わたしは悪の心は実は心の外にあって、わたしたちに行動決定させている、と考えたほうがいいのではないか、思っています。試験本番で、焦る心、緊張した心、合格したい、いやいなければならないという心、親の期待する心、すべてはわたしたちが仮定した心であり、わたしたちの内には本来ないものではないか。わたしたちの心には1つしかなかったのではないか。それが実行する心であり、勉強する心です。さてそうなるとわたしたちは、この内なる心と外にある様々な悪の心と戦い、打ち勝たねばならない。

 さてここで剣の極意に、後の先という言葉がある。剣の戦いでは、先に動けば不利になるというのが真理とされております。しかけたほうが餌食になる。陰は予め陽の内にある、と言います。相手を誘ってしかけさせ相手の太刀筋に乗る、これが後の先であり、剣の極意とされるものです。

 いいですか。怠惰との戦いでは、怠惰という心が出る前に実行するのではない、怠惰が出る一瞬を押さえて勉強なりに入り込む。怠惰が出てしまってからでは遅い。怠惰が出てから動こうとするから葛藤という事態に陥るのである。

 焦りの出る一瞬を捉えて心を一にする、集中する、専念する、没頭する、焦りの闊歩することを許したらもう終わりである。

 勉強するとは、心の戦い方を訓練する、そういうことでなければならない。

 ◎世の中は眉に唾つけて見なければならないことばかり

  世の中は騙しに満ちている。電話は怪しい勧誘ばかりだし、美味しいことを言うセールストークには必ず罠が隠されている。いいことばかり言ってマイナスのことは一切言わない、それが世の中である。絶対安全と嘘をついてきた国は原発事故の後平気で福島を見捨てた。絶対安全の絶対なんか絶対眉唾じゃなかったのか。大手が建てたから強固で絶対安全ですと騙された欠陥マンションを買わされた人たちもいた。だいたい今日日は病院なんかがいちばん眉唾ものである。やたら薬を処方したがる医師ほど眉唾なものはない。近藤誠医師によると、ものわかりのよさそうな、温厚そうな、とっつきのいい医師ほどかえってクセモノらしい。そもそもインフルエザに公的に、いや国さえもがワクチンを積極的に薦めるのはどう考えても眉唾ものである。国は正しいことなんか決して言わない。五輪予算も眉唾であるが、豊洲の盛り土の怪も移転そのものが眉唾であったのだから別に驚きもしない。大手の塾の合格実績も眉に唾をつけて見るのはあたりまえです。バカが大挙して入ればどうなるか、そんなこともわからないバカ親ばかりです。そういう親に限って、竹の会?聞いたことがない、どんな塾?と眉に唾をつけることは忘れない。大手に通う親たちが竹の会を一笑に付してきたこと、スルーしてきたこと、関心の欠片もなかったこと、そんなことは知っている、嫌と言うほど知らしめられてきた。しかし、そういう親たちのバカ息子、バカ娘が結局はだれでも入れる偏差値の低い高校に行き、まともに勉強もしないで、退学する子もいたり、卒業してフリーターになっていく、そういうことではないか。 根拠もなくバカにされた竹の会は、今年京都大学法学部に合格した杉山太一君のように卒業生を秘かにそういうバカ親たちは無視して育ててきたのである。

 少なくとも竹の会の卒業生たちはしっかりと勉強するスタイルを身につけて向上心をもって夢に向かって努力を怠らない。わたしの耳にはどこそこの中学で学年1番という竹の会の卒業生たちの活躍するようすが時々伝えられてくる。少なくとも竹の会を眉唾と見た親たちの子がその親たちが信頼した大手塾に騙されてバカ息子、バカ娘にしあがってなれの果て高校に行くことだけは確かな事実として映っている。

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