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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

類い稀なる勉強力

2015.12.25

 わたしが心から敬愛し尊敬して止まない人たちのこと

 竹の会史を語るとき、昭和60年10月から平成10年をひとつの期(初期)としてきっとくくるであろう。我武者羅にはたらいてきた14年間であった。平成10年の2月に子飼いの生徒であった鈴木君が早稲田実業高等学校に合格した年、その時からわたしの心境に変化が生じたのではないか。おそらく指導するということについての何かをつかみつつあったのではないかと思う。それまでのただ我武者羅に情熱と行動で引っ張っていった、そういうものから、醒めたように冷静に物事を見ている、そういう気がした。鈴木君は竹の会の指導力、塾力を証明した最初の人となった。竹の会の指導が難関私立をも制覇できるということを証明したのは鈴木君の快挙があったからである。

 平成11年には、Tさんが青山学院高等部に合格。彼女は高校3年間も竹の会に在籍。中学から通算6年間の在籍である。現役で慶應大学総合政策に合格を果たす。彼女も竹の会だけで合格した一人であった。

 平成13年に都立西高校にY君が推薦合格する。西原小6年生の4月に入会。Tさんのように竹の会に通いたい、その願いを入れて、西高の3年間、竹の会に在籍。現役のとき早大理工に合格も、東大受験に再チャレンジする、しかし果たせず、翌年慶應理工に合格。彼は駿台を始めとする三大予備校の全国模試ですべて二十番台をとった天才であった。

 平成16年にIさん入会、小6の4月。平成20年2月、豊島岡女子学園合格、都立西高校合格。一般受験であった。

 わたしの心に残る、類い稀なる実行力、勉強力の持ち主、そのうち強く記憶に残り、感銘を受けた、この4名、しかし、いや待てよ。本年、平成27年2月都立桜修館に合格したH.Tさんを忘れてはなるまい。小学生として、初めてわたしの心に残る、類い稀なる実行力を示した人であった。

 いや上にあげた5名にはまけるかもしれないが、やはり勉強力では優れていた人たちのことを忘れてはなるまい。平成23年2月に小石川に合格したK.O君もその一人だ。

 竹の会の初期は、四谷大塚、日能研、サピックスなど大手に通う子たちが、竹の会を大手補習塾として利用することがありました。だから初期の私立難関合格者には大手併用の子がいた。さすがに都立にはそういう生徒は少なかった。少なかったと言ったのは、1、2いたから。ただし、すべて都立入試失敗。大手は都立には対応できていないのはこの頃からわかっていました。平成20年には、実は慶應藤沢中に合格しています。しかし、竹の会の合格者として出していません。これは、四谷大塚の子だったからです。竹の会には、このような隠れ合格者がかなりいますが、竹の会史には初期の2例を除いて載せていません。純粋の竹の会だけで育ち、竹の会だけで合格した子たちが竹の会史に登場する子たちです。しかし、2つ例外があります。それは、平成3年です。そこで青山学院高等部に合格している女子は、当時有名だったスバルという進学塾に通っていた子でした。さらに、同じ年、東洋英和女学院中等部に合格していますが、この女子は四谷大塚の子です。なぜ載せたのか。それは、その類い稀なる勉強力がわたしをして竹の会の一員として認めさせるほどに感嘆させたから。その集中力は凄まじく、勉強に集中する姿勢は鬼気迫るものがありました。 

 類い稀なる実行力、それはだれにでもできることではない。わたしが指示した課題を完全にやりあげて出す、わたしとの約束を必ず実行した人たち、そういう人がいたのである。そしてわたしが安心して合格を確信できたのは、そういう人たちでした。

 入試に成功する人たちというのは、勉強を最高の価値として疑うことのない人たちでした。鈴木君は、柔道部長、生徒会長などで多忙でしたが、中学の3年間、竹の会を休んだのは、2、3度あったくらい。当時の竹の会は、Sコースといって、連日15時~22時の実施でしたから、これがどんなにすごいかわかりますか。夏期は一日10~12時間でした。午前中9時からでした。今の子たちならたちまちへばるでしょうね。あの頃の竹の会には、今のように教材というものがほとんどなかったから、とにかく現場で時間をかけるしかなかった。過去問なんか都下の過去問ならなんでもあった。とにかくコピーして解かせた、考えさせた。わたしもコピーしたものをとにかく解いた。だから我武者羅なんです。わら半紙に書いたわたしの解答をコピーして配った。もともとの原本というか、わたしの手書きの解答は取り合いになることしばしばだった。

 もう片っ端から解かせた。帝京、帝京大学、久我山、日大系、巣鴨、城北、早稲田実業、慶應、志木、本庄、高等学院、開成などとにかく都下の高校の各10年分以上の過去問はすべて解き尽くした。鈴木君なんかは、そのコピーが電話帳のように数冊分にもなった。これを7回解き直し。昔からの竹の会のやりかたであった。あの頃、編集した「数学ベーシック100問」は、「高校入試問題撰」として今に引き継がれている。鈴木君はわからないときは、わたしの書いた手書きの解説を読みながらこれを解ききり、7回解き直しをやりとげた。かれが、立教新座、早稲田実業商業、早稲田実業普通、慶應高校一次と次々に突破していったのは、不思議ではなかった。かれのとった、竹の会伝統の過去問合格法は今はもうないが、しかし、その過去問合格法の精神は引き継がれている。わたしが、長年慣れ親しんできた過去問合格法と訣別し、レジュメ合格法へと転換する、これはかなりの勇気、覚悟のいることであった。平成25年の小石川、白鷗の合格者はレジュメ合格法の純粋な最初の合格者であった。26年の失敗には反省すべき点があった。23年までに作ったワード版レジュメが整理出来ていなかったことである。申し訳ないことをしてしまった。23年の小石川合格は、過去問合格法でした。高校では、平成20年の豊島岡、都立西の合格をもって、レジュメ合格法が完成していました。都立中受検の完成が5年も遅れてしまいました。まず、高校入試のレジュメ化を完成させること、これは竹の会が元々高校入試専門できたというわたしのこだわりがそうさせたのです。

 

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