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駒場・新宿は最低死守/桜修館、小石川なら1日最低5時間/一知半解の喩え

2017.02.12

 おはようございます。日本列島に襲来した強烈な寒気団が日本列島を覆い尽くそうとしておりますが、関東、東京、渋谷の朝は青空と太陽に恵まれこの上ない幸せ感に満ちております。今日は渋谷Aの2月第4回目の指導日です。2月から適性対策指導を開始したものの失速者が出ておりまして、どうしたものかと思案しております。今年卒業した小6は去年の2月の段階ではまだ入会さえしていない子もいて、すでにいた子もとても適性対策を始めるレベルには達していませんでした。この2月の時期に適性対策が開始できないというのはわたしの想定する合格プログラムが機能しないということです。失速した子は思考力不足です。ですから適性対策はできない。やれば解説を読むだけのスカスカ頭になってしまうからです。猶予期間は3月までです。これまでに「小学思考の素 その他編」を少なくとも3回解き直し、終わらせることです。もしそれができなければもう無理です。なぜこれほどまでに遅れたのか。小5の遅い時期に入会したということが大きいと思います。かといって「その他編」を終えたはずの子がきちんと適性レジュメで合格はんこがとれないのはどうしたことか。合格はんこを重ねながら終わっていないからですが、やはり遅くに入会したことも関係している。現小4の子たちが「思考の鍵」、「小学思考の素 割合問題編」に入っていることを見ても、いや小4には「1%下巻」に入った子もいるほどであり、現小5が、ようやく小5の9月あたりになって「割合問題編」に入っていたのを考えれば、小4期の早くに入会することの意味というものがわかろうというものである。親御さんたちはたいてい入会時期を遅らせる、先延ばしするものですが、竹の会ではこれが命取りになります。なにしろ竹の会は入会した時からたちまちのうちに計算をマスターさせて、そしてたちまちのうちに割合を理解させて、たちまちのうちに思考訓練に入るわけです。これを4年から始めないで、5年になってそろそろ、夏前後からというのではすでに出遅れているということです。早くから訓練を受けることの意味は早くにきた子、親しかわからないと思います。小4で大手などにやったらもう終わりです。大手一辺倒の無思慮な親が多くて、とても竹の会のような小塾の主張などに耳を貸す親などいないのが現実ですが、そのつけは親子で払うだけのことです。不思議なことにそういう大手のお客さんとなった親子が大手を恨まないどころか中学になればまた大手に行くというその心理は理解不能です。大手で1年やってきた子というのは、使いものになりません。本来思考訓練すべきところ何もしないできたというより思考しない訓練をしてきたようなものだからです。まだ大手に汚されていない無垢な子の方が指導しやすいということです。

 一知半解という四字熟語があります。「いっちはんかい」と読みます。竹の会の四字熟語シリーズにもあります。竹の会の四字熟語シリーズは四字熟語の由来を解説したレジュメを200字でまとめるシリーズですが、200字でまとめるのは大変です。まず四字熟語の意味を書く。次に、四字の由来を述べる。これで200字になってしまいそうです。由来を書くときに、物語をそのまま引用したりする子がいますが、これだと書き切れないでしょ。ただ、わたしの参考答案がベストわけでもない。

 さて、ところでこの一知半解というのは、乏しい知識、生半可な知識をいうものであるが、子どもたちの理解というものが、あるいはレジュメで合格はんこをとれない、中には、算数の割合レジュメの問題、少なくとも桜修館なりを受検するというのなら解かなければならないという問題を、わたしに丸投げしてくる子たちがいますが、この一知半解という語がその状態を説明するのによく似合います。一知半解は知識が十分こなれていない状態で満足している者を戒めたものですが、孔子の弟子の子貢(しこう)賜が、師の問いに答えて、「賜ヤナンゾエテ回ヲ望マン。回ヤ一ヲ聞キテモッテ十ヲ知る、賜ヤ一ヲ聞キテモッテ二ヲ知ル」(わたしなど、顔回には及びもつきません。かれは一を聞いて十を知るのに、わたしはせいぜい二を知る程度です)と言った、という。

 一を聞いて十を知るとはどういうことか、考えてみた。本質的なことを読み取る、そういうことではないか。一から法則を読み取る、といっていい。その法則を読み取れる人のことをこういう。もちろん私の理解である。実はこの「~とは・・・という」という定義形式の表現は国語読解の核となる。最近執筆を開始した「最新国語読解」では、都立独自問題の国語をこの定義論で徹底分析している。定義は私見である。この法則性を読み取れないのを一知半解という。一を聞いて二を知る、という子貢賜の言は、謙遜としても、自らの才能を謙虚に驕らず、しかも同僚の顔回の才を称える、というのはだれにもできることではない。ただ一を聞いて二を知る、というのは、どうも知識偏重の感がある。わたしは一から法則を読み取れ、それが理解するということだと考える。小学生のみなさんは、初見の知識には、まず定義を理解することです。定義というのは、すべての科目の基本です。勉強というのは定義を極めるといっても過言ではない。理解するのは、まず定義です。定義はお経のように百回唱えて覚えても損はない。まず定義からです。ただし、定義だけで終わってはならない。物事は定義と法則性です。法則を見抜くことを理解すると言うのです。

 小学生の作文が幼いのは、一知半解の域を出ないからです。作文だって、まず定義を極めることです。地球温暖化の定義を正確に言えるだけで、作文の半分は完成です。あとは、法則性に言及すればもう合格でしょ。

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