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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

駒場・新宿・小山台未満は不可、戸山以上理想は日比谷・西/小石川・両国・桜修館という3強/社会の底辺に子を這わせる親の不始末

2017.09.09

 おはようございます。「いきなり秋」が今年の秋の到来のしかたなら、「いきなり冬」もありそうです。早くも体調を崩す子がやはり出まして「いきなり熱」の突発事態は終わりそうにない。油断というけれど人間というのはもともと甘い予測で立ち振る舞うものです。学校は黙々と予定の行事をこなしていきますが、これをまともに受ける子どもたちはたまったものではありません。
 今中2のみなさんは思い切り部活で時間を燃やしたのなら中3になって「なぜかいくら勉強しても成績が落ちる」という摩訶不思議な現実に直面することになります。親は慌てて「なぜか」と塾に問い糾してくることになります。しかし、わたしは、もう30年以上高校受験というものをやってきまして、高校受験というものの正体はとっくに承知しております。早期指導開始と前倒しで中2の夏には中3の数学、英解に入り、中2が終わるまでに終わらせる、これしかないのです。よく「女子は中3になって伸び悩む」と言うことが言われますが、そんなことはない。女子に限らず部活命でやっていれば、それは学校の授業、つまりは定期試験に間に合わせるだけの勉強であり、中3になれば自ずと馬脚を顕すことになる、それだけのことです。中3でやる数学や英語はかなりレベルの高いものですが、それは中2までの水準をはるかに超えています、そして、高校入試の都立レベルは学校のさらに上をいくレベルです。独自クラスだともうその難易度はもはや学校の優等生でも太刀打ちできるものではない。ましてや私立難関高校の数学、英語をおやである。
 中2まで部活にへいこらしてきてせいぜい授業を理解していけばまあ優等生なら5をとるでしょう。しかし、それも中2までです。そういうことが親も子もわかっていない。特に、塾にも行かない、成績のいい女子だと、親はできるだけカネをかけないで済ます傾向が強い。これが駒場にも行けない、結果になる。
 
 世の中にはほんとうに信じられないバカ親がいて、国立附属中や偏差値の高い小中一貫私立などでは、学校の近くに、準拠塾というものがあって、その学校に特化した指導というものをやる。たとえば、定期テストの過去問なんかを十年分とか集めていて試験前にそれをやるとかやるわけです。そうすると親はもうそれで定期テストは完全みたいな気持ちになってみなその塾に入るわけです。まさにバカの集まりです。そもそもの思考力を培って実力をつけるということをやらない。私立や国立は教師もそう異動はないからテストの傾向も変わらない、ということなのだろうが、そんなことをやっていたら、子どもは小手先の勉強しかやらなくなる。きちんとオーソドックスに正攻法で勉強しているヤツが一番になるに決まってるでしょ。わたしもかつてはそういった国立や私立の子をみたことはあるが、親は目先の対症療法ばかり求めて、本来の勉強には関心がない。だから中身が空っぽの親と子ばかりである。環境に左右される、軸足のない、ぶれまくるバカ親とバカ息子、バカ娘がうようよいるのが、そういう学校であり、目先の成績を売りに商売する、下心ありありの塾にまんまと取り込まれる。
 
 世の中の親たちは自分の子どもを結局社会の底辺に送り込む、這わせるような選択ばかりをしたがる、わたしにはそう見えてしかたない。日比谷や西、そして戸山、最低でも新宿、駒場、小山台と考えて、そういうところに行ける中学生というのは、ほんの少数である。定員320として、日比谷、西、戸山、青山、新宿、小山台、駒場の7校で2200人ほど。都立の受験者はおそらく4万数千人か。すると都立受験者の約4~5%がそういう都立に行けることになる。相対評価の時代、よく内申の5は5%ほどと言われていたけれど、絶対評価となった今のほうが5をとるのが難しい。学年100人の学校で、5は5人。5の数で、つまり内申点で行ける都立がまず振り分けられるから、9科目5となると、2%ほどしかいまい。100人なら2人。多分現実には1人いるかいないか。学年20人にも満たない中学だとどうなるのか。実はオール5という子もいる。竹の会にはそういう子がいる。こうなると同じ5でも160人のところと18人のところがあるわけである。それから誤解している親御さんがいるので断っておきますが、都立高校受験で校長が推薦してあげると言うようなことを言う場合があるようですが、推薦イコール合格ではありません。推薦もらっても、日比谷ならオール5ばかりの子が倍率5倍ほどで競うということなのです。私立の推薦は今はほとんど無試験合格に近いけど。都立はそんなことはない。いや正確に言うと、私立の推薦には何種類かある。単願推薦だと無試験ということである。かつて関東国際に行った女子は、Vもぎで数学4点だったけど、単願推薦もらってたので、建前だけの試験で無事合格しました。私立は定員の50%を推薦合格させている。だから残りの枠を一般受験するとなると狭き門になる。今の偏差値とはそういう骨抜きのものです。推薦で日大系附属に入ったとしても、公称の偏差値さえも落ちているけれど、実態はもっと低い、といっていい。今は中学でも並みのレベルでみなそういうところに入れる。少子化がレベルをどんどん下げているからだ。ただ同じ推薦でも例えば中大とか、早実だと、選ばれた中から4倍ほどの競争率になる。100人の推薦枠に選ばれても、その中の25人だけ合格する、つまり難関私立の推薦はそれなりに難しい。
 子どもの教育に確たる信念もなく、甘い予測、甘い認識で、横に倣えという節操のない選択をとるから、子どもの未来をいとも簡単に棒にふることになる。なんとなく大手塾⇀受験ないし受検失敗⇀部活⇀なんとなく塾⇀低偏差値私立単願、底辺都立受験、凋落私立推薦でとにかく高校へ⇀部活とアルバイトという高校生活⇀専門学校、三流大、たいていは高卒で社会へ、ざっとこういう流れです。結果として、こういう人生を子に送らせることになる。そもそもは最初の選択の誤りにあったということに気づかない。小1前後に字を訓練してこなかったという過失。字もまともに書けない子にしてしまうというのは親の怠慢です。南方熊楠のノートを見たことがありますか。ある数学者は「美しい数学には美しい文字がよく似合う」言っていますが、「文字を上手に書くことの重要性」について真摯に訴えています。それから小4期からの訓練です。ここで選択を誤ってはならない。

 わたしはもう30年以上にわたり子どもの指導というものに携わってまいりました。東京で竹の会を開設したのは昭和60年10月のことでした。最初は中学生、たまには小学生、高校生とそれは多種多様な子どもたちと接してきました。また多種多様な特徴のある親ともいろいろと対応してきたものです。そういう中からわたしは独自の指導法というものを作り上げてきたのです。子どもを伸ばす、実はこれはこれほど簡単なことない。ただし、塾が大っぴらには言わない真実は言っておかなければならない。それはバカは教えても無理ということです。多くの塾はどんなにできなくても教え方でできるようになるという嘘を平然と看板にします。そんなわきゃないでしょ。わたしは竹の会には最低限指導可能な子しか入れません。そもそもカネ取って指導効果もないのに長い期間通わせるのは詐欺でしょ。だからわたしは良心的にそう言っているし、勉強しないなら止めてください、と言っている。それは罰でもなんでもない。勉強しない子からカネは取れないでしょ、というだけのことである。
 世の中の多くの親はバカである。ただ大きい塾だから信頼できると大手に通わせるバカ親が多すぎる。自分の子が伸びる最強の方法がこの世にあるなどということを、しかもこんなに小さな個人塾がそれを可能にしているということを知る術もないでしょ。
 子どもを伸ばす、これほど簡単なことはない。わたしは子どもの、魂という形のないものを相手にしている。この形のないものに形を作っていく、これが指導である。形を作るというけれど、魂そのものの質がよくなければ形にするのは無理である。形になりたいという意思がなければ外から形にすることなどできない。この意思を訓練する、意思が主体的に動く、これを支援するのが指導である。魂という形のないものを形化していくには訓練、しかも型の訓練しかない。だからわたしは思考の型の考案に人生のすべてをかけてきた。竹の会が子どもたちに与える、示す思考の型は子どもたちにひとつの思考の方向性、ありかた、方法というもを示すものである。子どもたちはこの型に自分たちの魂を吹き込む。型を覚えさせて、型に仕上げる。魂を知の形に仕上げていくことこそ指導の本質である。
 すべての魂が救えるとは思わない。わたしには無理な魂はいくらでもある。だからそのときは素直にわたしにはできませんと降伏する。竹の会の退塾というのはそういう意味である。別に子どもに評価を下して追放したわけではない。子どもの罰ということではない。ただわたしには指導できない、わたしの今の能力では無理です、という正直な敗北を宣言しただけである。
 魂というのは放っておけば遂には形をなさないままに、変幻自在の、つかみどころのないものになる。魂は厳しい訓練、内在する意思の力により自立心、律する心により形となる。怠ける本性のままに魂を放置してきた親の怠慢が子を将来底辺社会に送り込むことになるということを後々に知ることになるであろう。大手塾に行かせて、いや地元塾という選択がいいわけではない、それが内実は遊ばせるという魂を作っているということに気づかない。子どもいうのは訓練してなんぼである。
 あなたたちは東京に真の塾があることなど夢にも気がつかないままに子どもの学校期間を終わらせることであろう。竹の会という塾を知らないままに、巷の塾で子どもを結局は単願推薦で高校に送り込んで、子どもが小学の頃、子どもの輝かしい未来を描いたはずなのに、あなたたちが選んだ選択は現実には95%の子どもたちが歩むことになる、底辺という社会の中に送り込むことだったのである。
 竹の会はもうそれほど長くは「ない」ということだけはひしひしと思ってきました。なにしろわたしの体が今の竹の会を続けさせるほどにはそれほど長くはもつまい、と確信しているからです。一年、一年、いつもこれが最後という気持ちで身を捧げてまいりました。竹の会と会えるのはもうあと僅かの時期かもしれません。それでもわたしは「今」会える子たちに、竹の会の指導技術の粋を伝え続けたいと決意しております。

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