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高校入試の世界/都立中高一貫校入学適性検査の世界/入試逃避という転落/子にはそれぞれ能力の壁がある

2018.01.18

 おはようございます。1月18日(木)です。これからは日一日が刻むように進んでいきます。「気」になることがありました。この直前期に「気を抜く」行動をとることです。直前期だからこそ「気」を引き締めて、普段と変わらぬ行動をとってほしい。直前だからと特別の行動はしないほうがいい。いつもの習慣を壊すことほど危ないことはない。それから受検生だけではないのですが、この1、2か月他の子の答えを盗み見ているどという報告が何件かありまして、それが真実かどうか詮索してもしかたないのですが、さて対応に悩むところです。問題はそこまで追い詰められているという事態です。能力の壁と必死に戦っている、そういう胸を抉られる思いが伝わってまいります。まじめで周囲から「できる」、優等生と思われている子ほど現実の壁との狭間に身をさらしてもがくことになります。また頭はよくてもこつこつ努力することができない子も結局追い詰められていく。だから入試が近いとか、レジュメの進度が遅いとか、さまざまな葛藤が、子の心を蝕み、他の子の答を見るとか、入試から逃避する行動に出るとか、いわば自己保存本能に基づく窮余の一策に出るのではないかと思います。わたしはもう30年以上受験を指導してまいりました。だから実はこれまでに受験や勉強から逃亡した子たちをたくさん見てきました。都立中受検で小4からがんばってきたのに突然小6の9月に「受検しない」と言い出した子がいましたが、こういうタイプの子というのは、過保護であるのが共通していた、いや親が考えられないような気を子に遣っていたことに違和感をもったものでした。過保護の子は逃避して自尊を維持する傾向があります。中学だと受験放棄というのはよくありました。中学でこれをやると高校に行かないか、高校とは名ばかりの高校に行く、そういう道が、将来「無職」という人生を暗示した道であったことは、その後にわかることなのですが、思春期真っ直中の14才にはわからない。なにしろ竹の会を始めたのが1985年(昭和60年)のことですから、竹の会の卒業生も数百人以上いてもうわたしも思い出せない数です。第一期生のうち10月生は、あの当時代々木中学の2年生だった女子3人組でした。竹の会は、昭和60年の10月開設ですが、10月入会組、11月入会組、12月入会組を第一期生と呼んでいます。10月入会の女子3人は、当時13才ですから、1972年生まれか? すると今46才になっているはず。一人は才女で都立駒場から指定校推薦で芝浦工大へと進んだ。もう一人は都立目黒から東洋英和女子大へと進んだ。そして三人目は国学院久我山から国学院大へ進んだと聞いている。あの子たちがきた頃、わたしはなぜか開成と武蔵の過去問集だけしか持っていなくて、狭いマンションの一室を教室として使うこととして、机とイス、ホワイトボードなどを中野にあった中古店まで出かけて探したことを覚えている。その3人の子たちの母親3人がやってきて面談して帰っていった後、なぜかその母親たちはわたしに「入会したい」と電話してきた。まだ机もない、教材も何もない、そんなところに申し込んできた、当時の母親のみなさんの英断にはとても感謝いたしております。当時は1回2時間で週2回の授業をしました。そしたら1か月もしないうちにたちまち代々木中学で評判になって、あっという間にいっぱいになった。授業のコマ数を増やしても追いつかなかった。そうこうするうちに、高校生やら小学生まで申し込みが相次いだ。噂は近隣の中学まで響き渡り、今度は上原中学の生徒たちが集まり始めた。当時はもう何時間も立ちっぱなしで授業をこなし、さまざまな参考書を読みあさり、過去問集を買い集めた。また都内では有名な教材会社から教材の卸売り契約をようやく認めてもらって、竹の会もようやく世間並みになったと思ったものであった。授業は近隣に響くほどに評判となったけれど、授業をやっても決して伸びない子たちのいること、また秀才に授業をすればするほど成績が落ちる、むしろ放っておく、考えさせたときのほうが思わぬ成績上昇をした、そういうさまざまな経験からわたしはいろいろと学んでいったのです。教材についても、最初は某有名な教材会社のものを使ったこともありましたが、これも成績上昇を確実するものではないと悟り、自前のテキストの開発、製作の必要性を痛感してきました。当時はワープロ専用機の花盛りの頃でわたしも10台は使い潰しました。その機械でいろいろなプリントをそれはもう夥しい数、作りました。作ったらフロッピーに保存するのですが、それがまたとてつもない枚数になり、使い勝手の悪いことこの上ないものでした。とにかく毎日寝るのも惜しんで自前のテキストを作りました。数学と英語を完成させたのです。このテキストは平成10年までは確実に竹の会の授業に使われてきました。あの頃わたしは初めてMACを手に入れました。それからNECの98です。それからNECのノート。しかし、使いこなすまでにはならなかった。竹の会では相変わらず過去問合格法が使われていた。あるとき新宿のビックカメラで、運命のパソコンソフトに出会うことになるのです。なぜか何万もしたそのソフトをわたしは買ってしまったのです。それからそのソフトを実際に使うまでまた1年、2年と経ちました。平成15年前後の話です。ようやくソフトの使い方に慣れたわたしは、竹の会のテキストをこのソフトでレジュメにするという大計画を夢に描いたのです。オリジナルの図をふんだんに取り入れた夢のレジュメでした。わたしは夢中で作り続けました。平成17年のことでした。この年、都立西志望の中1を指導することになり、その子の成長に合わせて、レジュメ化することを決意したのです。竹の会のレジュメ指導の始まりでした。これまでの過去問合格法との訣別の日が近づいていたのです。

 竹の会には、名作「新英語指導案」というものがありますが、これができるまでの歴史も苦節何年という苦労の末完成したものです。竹の会開設当時は英語塾が大流行でみなどこかの英語塾だけには行っているという時代でした。その中で竹の会が英語の信用を得るのは苦難の連続でした。竹の会にはプリントもなかった。学校の教科書を使って授業していただけですから。わたしは、ある評判の英語塾のプリントを見て、ショックを受けました。それから当時見ていた青山学院中等部の生徒の英語プリントの数々にも感銘を受けました。それからのわたしは狂ったように市販の英語参考書を買い込み読みあさったのです。大久保にあった教科書会社で見つけた塾専門の英語教材も何万円かしたけれど買い込みました。それでとにかく読んだのです。高校英語を極めることから初めて東大の入試英語まで研究しました。ようやくわたしはわたしのテキストの青写真がイメージとして完成したのです。それからわたしは最初はワープロ専用機でそれはそれは夥しい数のの英語プリントを制作いたしました。パソコン時代に入ってからもその姿勢は変わらず、わたしは英語レジュメを作り続けましたが、初代「英語指導案」、二代目「英語指導案」は、ワープロ専用機によるものです。

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 初代「英語指導案」

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現在の「英語指導案」

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二代目「英語指導案」(3部作)

 

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