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高校受験と社会

2021.03.20

 

 

高校受験と社会
 

  理社、特に、社会で都立に惜しい落ち方をする人がいる。いや後を断たない。
 理科と社会、どちらが、点を取りにくいか。
 これは断然社会が取れない。理科については別に扱うとして、社会と一括りにするのは不正確で、社会の中でも、特に、地理が取れない。歴史と公民はむしろ取れる。これは、歴史と公民については、どういう科目か、したがって何を勉強すればいいのか、要するに、答え方がわかっているからである。歴史なら、その時代時代に何があったか、時系列で、勉強する。それがそのまま問題に出る。公民なら、経済、制度の仕組みを学ぶ。それがそのまま問題に出る。要するに、敵の正体が分かっている。見える、予測できるのである。だから、勉強のしようがある。
 ところが、地理というのが、なかなかくせものである。実は、都立入試における社会で、できなかった、という場合、たいてい地理だ。地理というのは、定番の知識だけでは、予測不能な問題が出るとたちまち窮する。つまり、地理を暗記科目として勉強してきた者には、当然に、予測された結末であったのである。地理という科目は、歴史や公民のように予期できない、どんな問題が出るかわからない、という漠として不安があり、予想外の問題が出て迷うということはよくある。
 ここで、わたしの経験をひとつ
 数年前まで、私は都立入試が、新聞に出ると、すぐ解いてみた。社会などは、特に、勉強などしないから、全く何も勉強しないで、解くわけである。だから、問題をよく読んで、考える、いろいろと考えを巡らして、拙い知識から、論理的に推論して、これかなというのを選ぶ。都立の問題は8割は択一である。そうするとなんと9割ほどの得点が取れている。ほとんど勉強していないのに点が取れる。これはどうしたことか。
 考えたら、論理的に答えが出てくるのだ。
 本番でできない、模試でできない、これは、知識の試験と信じて疑わない態度、そこから問題を見ると、知識を思い出そうとする、知らない知識には、なす術がない、そういうことなのかなと思う。知識偏重の勉強しか頭にないと、問題を読まない、覚えていることを思いだすことにばかり心が奪われる。要するに、考えないのである。
 わたしのように特に、そのための勉強をしたことない人間には、問題をじっくりと読み、言葉の端々に注意を配り、端緒となる知識の欠片から論理的に思考を突き詰めて、答えを絞る、そういうことしかないのである。
 私も地理は知識は曖昧だった。だからほとんど「これかな」であった。でも合っていた。流石に、歴史は、大学受験では、日本史と世界史で受けたぐらいだからかなりやってきた。公民は私には常識であった。なにしろ私は法学部出身だし、かつて司法試験第二次試験短答式試験にも合格しているから、私ができるのは当たり前である。
 だから問題は地理である。地理の範囲が捉え難いのだ。
 ここで知識を網羅的に暗記するなど考えてはならない。

 こうして、特に、社会を暗記科目として、何もかも暗記してしまおうとする勉強姿勢が問題なのである。
 社会を暗記科目と決めつけることが過ちなのである。
 地理の予想外の問題に慌てない、当然に想定したこととして、落ち着いて論理を武器に推論していく、この態度こそが必要なのである。

 地理学の権威菊池俊夫筑波大教授の主張

 地理を学んだり教えたりする際に人が最初に必ず思うことは,「地理とは何か」,あるいは「地理で何を学ぶのか」という問いである。多分,多くは高校までの学びを思い出し,山の名前を覚えたり川の名前を覚えたり,あるいは地域の産業や特産物を言い当てたりすることが地理と誤解して答えるかもしれない。しかし,地理学は決して地名や地域の特産物などを言い当てたり覚えたりすることではない。また,地理学には地形や気候などの自然的な事象から,文化や社会や産業などの人文的な事象までが含まれており,地理学の本質を一言で説明することが難しい。しかし,さまざまな分野に共通する本質は「地」の「理」を「学」ぶことにあることは確かである。「地」の「理」,すなわち地表で起こっているさまざまな現象や事象、例えば土地の高低や降水の多少,人口の集中分散や水土地利用の拡大縮小などの現象や事象の秩序や法則性,あるいは因果関係を考え学ぶことが地理学であり,地名や産物を覚えたりすることは決して地理学ではない。

以上引用
これを要するに、地表で起こっているさまざまな現象や事象の秩序や法則性,あるいは因果関係を考え学ぶことが地理学である、ということになる。

 ここに、地理の鍵を解くキィーワードがある。
 秩序、法則性、因果関係
 これは何か、
 これが抽象化である。
 如何なる秩序か、如何なる法則性か、如何なる因果関係か、地理を考えるとは、このことをいう。
 考え学ぶとは、学問一般にも通じる。
 学びのこつは、抽象化である。
 歴史も公民も実は抽象化にほかならない。
 抽象化というのは、共通項の抽出のことである。
 抽象化することによって、法則性が見えてくる。例えば、
 緯度の違いが、もたらす法則性とか、
 台地であることからもたらされる法則性とか、
 土の質がもたらす法則性とか、
 ところで、秩序とは何か、
 ちつじょ【秩序】
①物事の正しい順序。「━正しく行動する」
②社会の諸要素が相互に一定の関係・規則によって結びつき、調和を保っている状態。「社会の━を乱す」「━を維持する」
大辞林による定義

調和を保っている状態
しかも、そこには一定の関係・規則が前提されている。
わたしたちは、ここでも一定の関係、規則に考えを及ぼすほかない。
因果関係
いんがかんけい【因果関係】
いくつかの事柄の関係において、一方が原因で他方が結果であるというつながりのあること。

これは見定めやすいかもしれない。台風発生のメカニズムなどは、因果関係で抽象化できる。

抽象化というのは、国語読解の方法でもあった。
実は、私は今「抽象化」について、研究中である。研究といっても、関連の本を読み、それから考える、自分なりに、構成する、そういうことであるが。
 現在、「抽象化訓練」というレジュメは、休止中である。抽象化するということを、具体的な演習の形式で、仕上げたいというのがひとつある。「抽象化化訓練」によって、文章を抽象的に、言い換えるということを指導してきた。が、子どもたちの反応が冴えない。そこでもう一度研究して新たな構想のもとに制作したいと思った。
 去年から関連の書籍を数冊見つけて、今、精読している、ところである。読んでは考える。だから時間がかかる。子どもたちが、私の作った教材で、抽象化に目覚めてくれればこんな嬉しいことはない。そう思うともう居ても立っても居られない。胸をワクワクさせながら、次のアイデアに思いを馳せる。
 塾の先生というのは、勉強して、工夫して、どうしたらもっと子どもたちを伸ばせるのか、そういうことばかり考えている。

 

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