画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

2017年 息が継げなくなる前に

2017.01.02

 明日から指導開始ですね。僅か3日間だけのお休みですが、みなさんは元気ににこやかな姿を見せてくれるのでしょうか。疲れが出て熱発ということは普通にありうることですからとても心配しております。わたしはこの3日はただひたすら疲れ切った心身を休めていました。後半に具えて、合間を見ては、指導用レジュメ集の印刷・製本をしてはいました。子どもたちの進歩が想定通りなのですが、速い。特に、小4の子たちが一気に開花し始めている。平成26年の卒業生のお母さんからいただいた年賀状には、「あの時、都立中にご縁が(なく)、通過点だったことが、良かったと、あの大切な時期に先生の元でご指導いただけたことを感謝しております」とあります。このようなお言葉は実はこのお母さんからだけではなくたくさんの親御さんからいただいてきたものです。27年に桜修館に合格した女子の年賀状には、こうありました。「私は毎日楽しく過ごしています。竹の会を卒業してから約2年が経とうとしていますが、ここで身につけたものはずっとわたしの中に残っています。難しい問題が出ても、まずは自分でしっかり考えるようにしています。桜修館では毎年論文を書いたり論理の授業を受けたりするのですが、竹の会で作文の練習をたくさんした成果が出ています。阿部先生を信じてやってきて良かった、と思う面が多々あります。本当にありがとうございました」。いずれも小4の2月から指導を開始した子たちでした。

 私の指導を受けた子たち、そしてその親御さんたちは竹の会の2年間をかけがえのない2年間であったとよく言ってくれます。去年桜修館から京都大学法学部に塾なしで合格した杉山太一君も竹の会で勉強のスタイルを身につけたことの大きかったことを述懐していました。わたしは東京23区の小学低学年のお子さんをもつ親御さんたちがどうか選択を誤らないことを願っております。子どもたちに必要なもの、真に必要なものは何なのか、どうか判断を誤らないでほしい。子どもというのは、訓練しながら潜在的に眠る才能を引き出す、引き出していくことがもっとも大切なことです。訓練は、目標を設定して、その目標に向けての主体的な型の反復でなければならない。目標というのは、具体的には、まず小数の計算の型の修得であり、いったん掲げた目標を達成、域に達するまでひたすら繰り返すことです。指導に際しては、定義を簡潔に標語のように頭に吹き込むことが大切です。型を完全にマスターするまでとにかくひたすら繰り返すことです。小さな達成経験の連続が少しずつ子どもの主体性を刺激していきます。とにかく自分で考えて解いたという経験をさせることです。

 やたら「分かりません」と言ってくる子は、実は伸びません。見ていると小4の子の中には、毎回の指導でずっと考えている、そういう子がいました。前のように「わかりません」と言ってこないのです。その子がこの前小5の子たち、実は小6もそうでしたが、解けなかった問題を解いた、これは感動でした。この問題を解くために何日も考えたようすが推測できました。こういう子は伸びます。考える、自分で解いたという経験を積み重ねていく、これがいちばん血となり肉となる状態なんです。

 「息が継げない、この世の息が」とは、歌人の河野裕子さんの名句ですが、この句は、河野さんが息を引き取る前日に詠んだ、そうです。「この世」というものが、「息をする」ところだ、ということをわたしたちは忘れがちです。死が迫る、その時にしか、意識しない。もともと人間というのは、「忘れる」ことで精神の、心の健全を維持してきたとも言えますから、しかたないところはあります。

 ところで、この時期に、「息が継げない、この世の息が」と似た状況にある受検生というものはかなりの数いるはずです。思考するというのは、息をするのと違って、訓練しなければ息をするように普通にはなりません。思考する訓練を早くからしてこなかった子たちが、思考的窒息状況に陥るということをわたしたちはまず知っておかなければなりません。思考というものがもともとある才能と無関係でないことはもちろんです。ただ天才でもない限り、もともと才能に恵まれた子であっても、そのまま訓練もなにもしなければその才能を開花させるタイミングを逸し、ただの人に終わる可能性が高い、ということです。思考するというのは、息をするのとちがい訓練してなんぼのものです。この思考する訓練をしてこなかった子たちが、小6になって、この時期に、「息が継げない、この世の息が」ということになっているわけです。この時期に、母親や父親が、やたら動き回って、合格させようと、藁をも掴む行動に出ることは、ありふれた光景ですが、虚しいばかりです。足りないのは、知識や練習ではないのです。思考するという、基本的な、息をするのに等しい脳作用ができないのです。だから何をしても、いくらもがいてもだめなんです。息をすることのできない子たちが、生きることができないように、思考することのできない子たちが、合格することなどありえないのです。だから、だからこそわたしは、この思考するということを、いや「息をする」ということを自覚なしにできるように、自覚なしに「できる」ように訓練しなければならないと思っているのです。「思考する」ということが、特別なことではない、息をするようにあたりまえのように習性として思考するようになる、これは訓練して修得するしかないのです。

 小4の子たちを見ていると、指導してみると、わかることなのですが、最初は、ほんとうに粗野な頭です。未開の頭です。閉ざされた頭です。ところが、訓練を開始して、子どもたちの脳は最初は何をしているのかわからないままに試行錯誤を繰り返す。しかし、訓練を重ねるうちにしだいに内なる才能が引き出されてくる。ここでもしそのような才能がない子だとどうなるのか、ということがありますが、これは才能開花ということにはならないのはもちろんです。内なる才能がなければ子どもが伸びることはないのです。わたしは子どもの内なる才能があることを前提として訓練しています。内なる才能のない子は悲劇的に指導そのもが無理です。竹の会の入会試験がこの内なる才能を見ようとするものであることは言うまでもありません。

 息をするのと同じように思考することができるようになること、息をするのは意識しなくてもだれでもできますが、思考するのは訓練しなければできるようにはならない、ここのところを世の親御さんたちは誤解してはならないと思うのです。特に、もっとも思考訓練に適した時期である小4期に、それほどの天才でもない子を大手に入れるのは、致命的な誤判断となるはずです。小6になって、「息が継げない、この世の息が」という子にすることはまず間違いない。

 小学生というのは、訓練しなければただのバカのままです。どんなに頭のいい子でも訓練しなければ凡人のままです。ただ特別の天才、もともと自力で思考する芽のある子は別です。こういう子は別として、学校で「よくできる」が8割ある子を標準に考えて、このレベルでは訓練しなければむしろバカになる可能性が強い。

 息をするのは生命活動ですから、もともと備わった能力です。しかし、思考するという脳のはたらきは訓練して引き出す、磨く、そうすることによって使えるようになる、そういうことです。

 世の親たちが小6になって「受検したい」という子のために奔走するのはだから意味のない行動です。小学生から思考するということをまず引き出し訓練しておくこと、これが中学、高校、そして大学へつながる基礎打ちなのだということです。これをやらないで、大手に放り込むなど考えられないことです。近くの地元塾に入れるのもけっこうですが、塾というものを知識を手に入れるところとしてしか見ていないからこういうことをやる。なにかを教えてもらうところだと考えているからこういうところにも入れる。この期間、思考するという訓練はないわけです。小6になって竹の会にきた多くの子たちが、思考するということを知らない子たちであったということはすでに実証された事実です。いったい1年も2年も大手で何をしてきたのか。思考しない勉強などというものが可能なのか疑問だが、大手の子たちは、計算も「できる」と言いながらまともにできないし、思考するということをまず知らない子たちであった。小学生が思考するようになるには、小4の一年間、小5の一年間がそれぞれのちがった意味あいで重要な訓練期間となる。

 どうか子どもの未来を親が摘むようなことはしないでほしい。

 ◎ご注意

  毎月の月謝につきましては、前月末日までにお支払いいただくように、入会時にお約束いただいております。それでもご連絡ないしはお支払いのない場合は、次月の継続指導のお申し込みは「ない」ものと判断することにしております。なお、通知メールが届かない場合もあるかと思いますので、その場合は、その旨お申し出くださればと思います。

ページトップへ