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2017年師走/都立日比谷・西/小石川中等/竹の会最強の方法

2017.12.09

 おはようございます。朝の最低気温1℃、超低温により体調不良を訴える子も増えてきました。基本、体を冷やせば病気になる、というのがわたしたちの到達した知恵です。インフルエンザで学級閉鎖となった例も何件か報告されております。これから12月、1月は光陰矢の如しを肌で感じる、まさにその真っ直中にいます。竹の会では明日の指導から竹の会伝統の過去問合格法に切り替えることにしています。ただし、一、二の例外ありで、これまでのレジュメを完全に消化してきた者に限り、継続配布します。また直前対策用レジュメもこの限りにはありません。より具体的にお話しします。指導レジュメ「推論算数第三期」については桜修館志望生のみこなしておりこのまま継続です。他の小6については、「算数クリア」などをやっている子たちがいますが、すべて打ち切りとします。今後はこれまでにこなしたレジュメについての7回解き直しを進めてください。7回解き直しについてはノートの同じページに7回式と答えを書いてきた子がいましたが、こういうことはしないでください。レジュメシリーズの最初から最後まで、もちろん不合格判定を中心に、もういちど考えて解かなければなりません。式と答えを覚えてそれを思いだす訓練をしているのではありません。7回解き直しが異常に早い子はその中身がかなり疑わしいと見ています。明日の指導から過去問合格法という竹の会の伝統的必勝体制に入ります。練習した過去問は将来2穴紐綴じにしますから大切に保管してください。

 小6は1月で全員竹の会卒業となります。また1月はその他の学年の方もひとつの区切りとして、2月以降の指導が可能か、を再考させてください。中学生は全員通知表の写しを提出してください。継続指導の可否を判断するためです。また仮合格入会のみなさんについては、指導が順調に進んでいるのか、真摯に判断させてください。特に、渋谷Bについて、竹の会本来の静かな環境を早急に取り戻すことを焦眉の急と認識し、英断をもって処する決意をしております。どうかみなさまのご理解とご協力をお願い申し上げます。

 2018年の竹の会

 2月3日本番に向けて1月ぎりぎりまで全力指導をお約束します。小6の親御さんは受検手続き終了後速やかに受検番号(白鷗の場合はパスワードも)を塾長にご報告のほどをお願い申し上げます。9日(九段は6日)の合格発表には塾長自ら出向くことにしております。

 なお竹の会伝統の過去問合格法では、過去問を1冊に綴じて、めくりなが解き直すという方法をとりますので、そのつもりで過去問コピーは大切に保管してください。なお紛失などによる再発行はいたしません。失えばそれは自己の管理能力、注意能力、真摯な態度の問題として、その不利益を一身に受けるほかない、これが責任ということの意味でもあります。甘い考えはすてることです。

 小5のみなさんへ

 2月から適性対策指導を開始します。ただし、遅くに入会した子については、開始が遅れる見通しです。小5の親御さんに是非自覚してほしいのは、小6の秋以降に何かをやるということは基本ありえないという受検の現実をよく弁えてほしいということです。実質夏休みが最後の実力を養う機会です。7月には早稲田進学会の模試が始まります。この模試で成績上位者として名前を連ねることが一つのポイントになります。2月以降にやたら家庭の事情の多い子は必ず失速します。ほんとうに力をつけたいのなら、合格したいのなら、どうか竹の会の指導を最優先にして2月以降の11か月を乗り切られることを祈念します。

 ◎勉強難民がなぜこれほどまでに溢れるのか

 将来勉強難民予備軍としての小学生は当面はその難民性が潜在化したまま日常が進むことになる。その難民性は確実に中学で顕在化することになるのであるが、少なくとも長閑な小学生生活の間はいくら成績が悪くても親も子も私的な現実としてその緊迫感はない。中学になり、中間テスト、期末テストで定期的に学力をチェックされるに及んで、親は初めてできないという公の現実に直面することになる。しかも内申制度というものが都立高校進学の要素だということが真綿で首を絞めるように効いてくる。それでも勉強嫌いの中学生たちは親公認の部活を口実に勉強をしないことに変わりはない。おそらくそういう中学生が全体の80%はいる。こういう子たちが進むのは偏差値の低い私立高校であり、単願推薦という無試験入学制度がバカを取り込む。こういう子たちのかなりの数が中途退学し、あるいは底辺高卒として社会に吐き出される。少子化がかつてはそれなりに難しいとされてきた日大系レベルの高校でさえも入りやすい現状は看過できない。これは大学も同じで学生が定員に満たない底辺大学が増えつつあるのは周知のことである。

 これが社会の構造である。子どもが素直に親の言うことを聞くのは小学生までだ。中学になればもう親の言うことなど聞かない。反抗期と思春期の真っ直中にある子らに勉強の意義を説いても虚しいだけである。躾ができるのはせいぜい小5、小6までである。世阿弥は子に芸事を仕込むのは7歳からとした。鉄は熱いうちに打てということである。勉強というのも芸事と変わるまい。7歳、8歳には、まず字を覚えさせる、ゆっくり丁寧に来る日も来る日も字の練習をさせる、それだけでいい。パズルが好きな子にはパズルをさせるのもいい。読書が好きな子には読書をさせればいい。好きなことをさせればいい。外で遊ぶのも子どもには仕事である。ただし、問題は小4である。小4の勉強というのは訓練次第である。ここで基本的な学問の素養というものをしっかりと身につけさせてやらねばならない。塾に行かない家庭の子というのはこの訓練がないために結局難民化していく。しかし、だからといって大手塾に行くのがいいかというとそうはならない。わたしは東京の90%超の親たちが何の迷いもなく我が子を大手塾にやることを知っている。そしてそういう子たちの大半が基本的な学力の欠片もないこともよく知っている。だから大手、大手と疑うこともなく大手に行かせる親を見ていると、最近は哀れに見えてくる。いずれわかるであろう、我が子が難民となることを想定もしないでただ大手が成功させてくれると単純に信じているのが無知のなす業だということを。小5、小6にもなって基本的な学力もない子というのがもう溢れている。分数の計算もできない小6が、都立受検などと平気で言う。親はそれを叶うとまじめに信じている。塾とはそういうところだと信じるところからもう信仰の世界である。それどころではない。受検どころか、もしかしたらもうまともな都立高校にも行けないかもしれないのにである。自分の子を無知なために勉強難民にしている親たちのなんと多いことか。東京というところはそういう親が溢れる街でもあるのだ。小学生のときには親も期待もするし夢も見る、しかし、中学生になれば、どうにもならない現実がつきつけられ、現状を肯定するしかない、つまり中学というのは我が子を「諦める」ところだ。

 小学生のときには我が子の将来を夢見てよかれと思い大手に入れてみたけれどなぜかできないという現実に突き当たる。勉強難民とする道を知らないとはいえ選択しての結果であり、当然のなりゆきであったのだが、勉強習慣もない、思考態度も形成されないままに中学に入ることのなんと無謀なことか。ここでまた大手を選択してもはや難民として決定的に揺るぎない地位を確立させるのが、大手信仰の親たちである。地元塾ならいいのか、という話しもあるけれど、わたしの知る限り、いずれにしても難民と化することに変わりはない。何がいけなかったのか、何を間違ったのか。そもそもわたしは塾などというものを信用していない。わたしは塾を生業とするけれど、塾は信用していない。正確には、既存の塾というものを信用していない。何かを教える、という建前が疑わしい。そもそも教育を知識の獲得、情報を手に入れることと考えているところから気に入らない。親は大きな誤解をしている。塾がオリジナル性を売りにした、テキストを使い、東大などの有名大の学生講師が授業をし、知識を教えて、わかりやすい説明をして、という形態が、いわゆる受験ママを喜ばせる。この受験ママというのがやたら受験豆知識に詳しく、モンスターママ化するのもよくあることである。情報にばかり翻弄され、勉強の本質忘れたバカママである。こういうママが創り上げた難民というのがまた扱いにくい。わがままで好き嫌いばかりをいい、何事も長続きせず、平凡な方法をバカにし、いつも講釈つきの特別な方法ばかりを追い求める、特殊な難民である。

 いいですか。情報を手に入れて活用できるのは、ほんの少数の天才だけなんです。大手の実績と言われるものは元々塾なんかに教わらなくても一人でできる天才が当然のように受かっていっただけのことです。情報をコントロールできるだけの能力があるのです。ところが大多数の、おそらく95%の子どもはそういう能力はもたない。情報に流される、押し潰される、そういう子たちです。学校の優等生と言われる子たち、内申の「よくできる」が8割以上ある子たちですが、そういう子たちでも、この情報の洪水には呑み込まれてしまうでしょう。ましてやその余の子たちがいくら個人指導だ家庭教師だなどともがいてみてもどうにかなるわけがないのです。元々が染まりやすい、ゲームなどに溺れる、意思の弱い子たちがほとんどである。そういう子たちが情報の氾濫する中で、精神的な死に至ることは目に見えている。社会に出て、フリーターか、弱小会社に使い捨てにされるのはまだいい方で、社会に出る勇気もなくニートとして家庭から出られない、親が死ぬまで離れられないという悲劇を書き上げる親がどれだけいることか。

 あなたたちはわかっていない。自分の子に何が必要なのか、ほんとうに必要なものは何なのか。知識ではないのです。本当に必要な知識は何かを判断し、思考する、ただ単に「考える」ということ、そのことがいちばん大切なこと、そして小4期にこそそういう訓練をしていくことがその子の少なくとも考えるということの意味を悟らせることこそが教育なのだということを。考えるというのは、自分を律することである。いろいろやりたいことを我慢しながらひたすらひとつのことに精神を傾注する、そういう訓練の積み重ねがもたらすものこそわたしたち人間が、いや子どもたちが身につけなければならないことなのだ、ということです。受検というのは、そのための機会にすぎないのです。この機会を通して、人生でもっとも大切な、あるものを内面に形作ることが大切なのです。

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