画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

22日に変更予定/バカを作る構造について

2016.09.19

 おはようございます。17日、18日と長野県上田市に行ってまいりました。生憎の雨でしたが、標高1000㍍の空気は新鮮で、信綱神社の神気は格別で、久しぶりに「気」を休められました、ストレスから解放されたことを実感しました。さて、21日はAの指導日ですが、台風16号は速度を速めて21日に関東を通過するようすです。台風の進路予想図が確かならやむを得ず22日に実施するほかありません。祭日ゆえにすでに計画を入れておられる方もいるやに思いますが、なにぶんにも不可抗力ゆえのことで、どうかご容赦ください。22日の16時~20時、入室は15時から、という方向で調整しております。

 Bにつきましてのご注意ですが、開始時間は早くて17時です。入室は30分前には可能です。60分前の入室を認めているのは渋谷Aの水曜日のみです。

 竹の会では、来年2月から入室募集となる渋谷Aについて、待機組として渋谷Bの入室を募集しております。本来来年1月までに入会試験を実施して2月に指導開始としていましたが、渋谷Bがあるため、それに拘泥する必要はなく、まず渋谷Bに入室後、2月に渋谷Aに変更するという、前倒しの指導開始を推奨しております。来年2月の渋谷Aの空席予定は5席です。渋谷Bにつきましても現在は入会試験合格者のみの入室許可となりましたので、レベルは維持されるとみています。

 渋谷AはもちろんBについても、入室後6か月単位で「指導継続の可否」を客観的に検証したいと思料しております。竹の会とは「そういう塾だ」ということでみなさまにご周知願えれば幸いです。

 ◎バカを作る構造について

 わたしは塾を始めてもう30年以上になります。昭和60年(1985)の10月から平成28年(2016)の9月まででちょうど満31年になります。竹の会のような超弱小個人塾が30年以上も持ち堪えてきたのは奇跡かもしれません。と言いますのは竹の会30年の間に竹の会と競合する地域で多くの塾が生まれてときには繁盛するかに見えてもそれも10年の内には消えてしまい、いや半年で、1年で消えたという塾はわたしの記憶の中でも相当数ありました。竹の会というのはそういう塾業界の荒波にのまれることもなく、だれにも知られずにひっそりと生きながらえてきました。たいていの塾が参加する塾の団体といったものには一切参加せず孤高の塾を貫いてきました。だから他塾や特に大手塾などにはなんのしがらみもなくその批判も気兼ねなくやっています。

 塾というのは百害あって一利あり、というところでしょうか。いやわたしの巷の塾に関する見方です。竹の会も塾ではないか、ということですが、既存の塾概念で規定することはできない塾です。できましたら小4のうちに竹の会と出会うことが幸運の一歩となることでしょう。竹の会に出会わない不幸は自ずと自明です。とくに小4から大手にやることは致命的な判断の誤りと考えます。実は東京のみなさんは竹の会と出会う機会はいくらでもあったはずです。しかし、例えば、竹の会が九段で配付した一千枚以上のチラシがすべてスルーされてゴミとして捨てられた、その一事を見ても竹の会と出会うのは実は至難なことなのです。出会えないのは、畢竟親の大手一辺倒の思い込みに由来する偏見なのでしょうけれど、竹の会を実際にある期間、体験した親子が特殊なケースを除けばまず99%が竹の会に魅せられるという事実が親たちの食わず嫌いを証明しております。

 多くの親には見えていない。大手が本物に見えて竹の会が偽物に見える、そういうことなのでしょうけれど、それが証拠に、竹の会に入会を決意するまでの親の気持ちは、最後まで疑いを拭い去れないでいる、そう思います。多くの親が竹の会という本物を捨て、偽物に飛びつく、そういう傾向はもうあまりにもあからさまでした。みんなで仲良く偽物を有り難がる、そういう光景がわたしには目に浮かぶようです。

 それから世の中には未だに牧歌的な母親というのがいるのだと思いました。小6まで塾には一切行かないで小石川なり桜修館なりを受検しようという親子がいるということがまたひとつの驚きですが、塾に小6の今まで行かないという子の学力はたとえ「よくできる」が8割ある、いわゆる学校の優等生でも、竹の会の現在の小5の学力にはるかに及ばないと思います。塾に行かないという選択は停滞の選択です。

 わたしには特技があります。それは子どもの知能段階が手に取るように見える、もちろん指導を通してですけれど、知能の段階というものが「わかる」のです。子どもの段階がここまでわかるようになったのはいつの頃からか。わたしには「知」が見えるのです。いや正確には、わたしの発する知的刺激とその反応が、見えない心、形のない心、その真実の形を映像のようにわたしに教えてくれるのです。

 あなたたちはわかっていない。いや大手に迷いもなく決めるあなたたち親のことです。

 子どもを一様に教室で授業する、それでわかっていくのはほんの一握りの子どもたちです。学校の授業を考えてみればいい。「よくできる」をもらう子たちは学校レベルなら「わかる」子たちです。学校のレベルは低いから、そういう子たちは決して本当にできる子たちとは限らない。まず天才というのが含まれているとしても1%もいないでしょ。

 これが都立中高一貫校対策塾だとどうか。こういう塾は実は学校とあまり変わらないことをやっている。ここで「わかる」という子のレベルは高くない。もし「わからない」、「ついていけない」というなら、そもそも受検など考えないほうがいい。これは学校でも同じだ。学校程度で「よくできる」が8割前後もないのなら、そもそも受検など口にしない方がいいのである。

 進学塾なら「わかる」のは、天才である。かろうじて、つまり家庭教師やそのための補習塾に通ってようやく「わかる」のは秀才です。これ以外はすべてお客様です。全体の80%はお客様のはずです。大手進学塾というのは、20%の天才と秀才に実績を作らせて、80%のバカを相手に商売しているわけです。

 私から言わせれば、学校の優等生はただの人です。天才ではない。もしそういう子が進学塾もそうですが、都立中高一貫校対策の塾に行ったらどうなのでしょうか。残念ながら効果は消極です。こういう大手で伸び悩んで凡人になったという例なら枚挙に暇ないほどです。

 授業がだめなら個人指導ということでもない。多くのバカ親の考えそうなことです。そもそも子どもというのは教えてつくるものではない。バカ犬を訓練して賢い犬にする、これが本質です。世の中の塾というのは天才にだけ使えるシステムです。バカが集まってカネを貢いで結局バカ磨いてどうするのですか。

 授業方式というのはバカには無理なんです。バカ私立高校の授業が破壊的に崩壊しているのを見ればよくわかるはずです。ああいう学校では授業そのものが成り立たない、できないのです。大手好きの親たちがどうして授業を受けたがるのか、わからない。バカがおとなしくキョトンとしている、あるいはバカが退屈してふざける。本当に頭のいいヤツ、つまり天才には授業はくだらないものです。時間の無駄なんです。公立のバカに合わせた授業などつきあっていられないでしょ。だいたい進学塾大手が能力別にしているのも、バカ相手にレベルの高い授業ができないからです。能力に合わせてきめ細かに、などと言ってますけど、バカにはバカ用の授業しかできない、と言っているのです。最初から不合格を予定している。これを有り難がるバカ親というのが必ずいるわけです。

 そもそも小学生に「教える」というのは本質的なことではない。小学生は訓練の対象です。ただし、駄犬は訓練しても駄犬のままです。

 怠惰は無知をつく、無知は愚鈍をつくる。これが真理です。今の親には、過保護、過干渉、あるいは対極ですが、放置、無関心というのが目につく。こういう親が子どもを怠惰にする。怠惰というのは、使いものにならない、わがまま、無関心、といった典型的なバカ体質を作り上げる。バカ親が過干渉、過保護、教育放棄、ほったらかしで使いものにならないバカをつくりあげる構図である。

 バカの本質は怠惰である。怠惰にはもはや訓練も虚しい。

 どこでもいい、塾に入れることでバカを避けられるか。それはない。授業と教材で「教える」ことでは、バカは救えない。中世ではあるまいし、バカ正直に、商人が塾をやるから、バカになる、バカを固定する。

 根本的に「教える」、「教えてやる」、「理解を与える」、「知識を与える」という発想では、子どもはバカになるしかない。こういうところに脳天気に子どもを預けて、「楽しい仲間がいる」、「ウマの合う講師がいる」などと喜んでいるから、バカなのである。

 いいですか。500人いて、皆同じ教材使って、同じ授業を受けて、同じテストを受けて、同じように全員が同じカリキュラムの夏期やら冬期やらの講習を受けるとする。さて、これで100番の子が、1年後、2年後、50番になるか、ということです。な、ワケないでしょ。100番目の子は何年経っても100番です。同じ教材、同じ授業、同じテストという画一化された、単一処理のシステムにいる限りなにも変わらない。知能が最初に100番目なら、画一的処理すれば、そのまま100番目でしょ。日能研あたりで中のクラスの中の子はも小4から小6までずっと中のクラスの中の位置のはずです。心当たりのある人が大勢いるでしょ。

 そういう理屈もわからないから、バカと言っているのです。

 習って、教えてもらって、ノートをとって、100番目の子は受検のときも100番目のまま、バカはバカのままです。それでほんとうに受かるようになるか、ということです。

 いいですか。学校で「よくできる」が80%でも、同じです。大手のやりかたでは変わらない。順位はそのままです。学校の優等生もせいぜいバカの上ですから。だたこの優等生はただのバカではない。訓練すれば脱皮するバカです。硬い殻を破って脱皮する、あれです。脱皮というのは、昆虫に授けられた環境適応能力ですが、人間だって環境適応能力はすごい。特に生存本能に根ざす環境適応力は強かなものです。わたしは勉強というものは生存に根ざす、つまり食うために、生きるために、勉強するという、生存的勉強というのはしたたかなものと思っています。

 ただ現代の裕福な子どもたちに生存的勉強ということを求めても無理です。勉強しなければ食べていけない、そういう状況にはないからです。しかし、かといって、子どもの欲しい物はなんでも、どんな高価なものでも買い与えるなどのことをやっていれば陸なことにはならないと思います。生存というものの裏づけの伴わない過保護は子を怠惰にするばかりでしょ。

 勉強することが子どもたちが生きていくために必要なことであることはまちがいないでしょ。これは帰納法的推論と言われるものですが、帰納的推論というのはわたしたちが普段やっていることです。たとえば、勉強しない人が将来どうなったか、勉強してトップ都立に進学し、さらに国立大に進み、・・と考えてそういう人たちの成功例をふまえて、勉強について推論するのが帰納法的推論です。わたしたちの日常的な判断というのはたいていこれです。将来学校を出て社会の中で独り立ちして暮らす、こういうときにこしかたの勉強というものが、生存を決めるとしたら、わたしたちが勉強するのは将来の生存のためにほかなりません。部活に熱心な親子というものがいますけど、もしこの親子が勉強というものを蔑ろにするのであれば、この親子、特に、その子は社会に出て、その部活とやらで食っていけるか、ということです。世の中には、イチローのように野球が生存の手段だった、石川遼のようにゴルフがそうだった、というごく少数の天才たちはいる。そういう人たちはそれを生存の糧とした。しかし、特に才能というものを持ち合わせていないわたしたち凡人には生存の糧は勉強しかないのである。4歳のときからバレーをやってという人がいて、こういう人が生存としての勉強を蔑ろにすることのリスクはどうなのかということである。大学なら体育会系は就職率がいいと言われています。しかし、中学や高校で体育会系が就職がいいというわけではない、まず大学でしょ。

 生存本能に根ざした勉強姿勢をこそとるべきです。とことん追い詰められてなんとか窮地を脱出するために「考える」、考えるとは真剣勝負です。いつかだれかに説明してもらう、教えてもらえばいい、そういう子ことを心のどこかに持っている子というのは、結局考えるということの真の喜びを知らないままに終わる。よく「わからない」と言って考える、しかし、そのわからない問題は一度答えというか、解き方というのを教えてもらったら、もうただのゴミです。わからないから価値がある。答を聞いたらもうゴミです。考えるというのは、生存本能そのものです。人間というのは知恵があるから生きのびてこられた。知恵というのは考える人間のみがもつことのできる武器です。これでわかるはずです。今の大手塾にしても巷の弱小塾にしても、考える訓練などしない、解き方を教える、知識を与える、つまり、思考を停止させることをやっているわけです。わたしは勉強というのは生存をかけた戦いであると規定しています。怠惰なものは死んでいく。落ちていく。そういうことではないでしょうか。問題を必死で考える、というのは生存をかけた戦いであるからにほかならない。簡単に聞くな、と言いたい。だれかが解決した問題なんか、生存の役には立たない。試験場は、生存をかけた戦いの場である。普段から生死を分ける意気込みで考えてきたかどうかが如実に問われている、そう思いませんか。

 自宅で小6まで塾にも行かないで勉強するという子について、しっくりこないのは、やはり生存をかけて生きていると目されないからではないか。もちろん大手塾に行く子たちがとても生存をかけた行動をしているとは思えないけれど、いや逆に生存できない行動をとっているようにしか見えないのだけれども、どうであろうか。

 竹の会でも最近退塾をお願いした子たちというのは、やはりこの生存をかけた勉強というものとはかけ離れたところにあったということが大きい。怠惰な人間は早晩死ぬ。肉体的な死を意味するのではなくて、社会的死である。あるいは人生における死である。怠惰は人間の生存とは本質的に相容れない。怠惰のもたらすのは無知にほかならない。無知な人間は愚鈍である。勉強しないということのもたらすものの余りにも大きいことか。勉強するとは、生存するということである。だったらそう簡単にあきらめてほしくない、考えるということは生きるということなのだから、簡単に降参して白旗をあげてほしくない。

 そうだった、わたしが、部活に熱心な親子を見て、あるいは習い事、稽古事に夢中の親子を見て、どうしてもしっくりこないのは、生存の臭いがしないからなのではないか。

 今日は、午前中早くに更新するはずでしたが、途中で中断したのは、面談の約束があったからです。しかし、約束の時間になっても待てど暮らせど来ない、連絡もない、嫌な予感がしたけれど、確か、渋谷教室になってこれで4度目か、悔しいのは、事前にいろいろと準備して、他の仕事なんかも調整して、早めに教室に行きいろいろ整えていたことがみな徒労に終わったことだけど、まっ、しかたないですね。

 杓子定規なことは嫌いです。スーツとは縁がない。大手などの学生講師はスーツにネクタイ、革靴を義務づけられているけれど、型は大切だが、型に囚われたくはない。

ページトップへ