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2018年2月6日快晴/気温7℃が適温に思える冬の日/大手とは何か、それから竹の会をどうするか

2018.02.06

 おはようございます。今年の受検も終わり受検生と親御さんには落ちつかない日が続いております。竹の会では小6のいなくなった席が、主を失い、寂しげです。正直なところ、いつも思うのですが、受検が終わると塾を止めたくなる、しかし、子どもたちの元気に通ってくる姿を見て、熱心に勉強に取り組む姿を見て、また「もう少しだけがんばろう」と思い直す、塾という仕事は子どもの勉強姿勢を常に問い、また親の塾に対する態度を塾への正当な批判と受け止めて、いかにして塾の信条を貫けるかに腐心しなければならない。そのいう意味では塾が一番子どもの勉強の状況を把握しているのであり、察知することができるのだから、このブログで黄紙(退塾勧告)を出し、退塾申出を促し、それでも効果のない塾継続という不作為が続くのなら、赤紙(退塾)を出す決断を厭ってはならない。最近反省しているのは、余りにも入会試験に不合格が多くて、仮合格による救済が多いこと、仮合格者の入会が増えることは正直竹の会の本意ではない、竹の会にはプラスにはならない、こういう子たちの中から、例えば小石川に合格できる者が出てくるか、と言えば、それはまず「ない」のだから。反省点はまだある。赤紙を出すべきタイミングを先延ばししてきたことです。

 小石川、桜修館、両国を受けるには、高い能力が前提です。これに対して、九段、富士、白鷗は、学校の優等生向きです。学校の優等生とは、通知表の「よくできる」が全体の8割以上ある子のことです。こういう子なら指導すればなんとかなる、そういうことです。もちろん竹の会で指導したならの話しです。それも指導開始が小4早期ならという条件付きです。

 竹の会にウェブで出会って、問い合わせてみる、これはありがたいことです。しかし、わざわざ遠いところから見えられるのなら、8割基準を満たすことが、せっかくの訪問を無駄にしない、ことになる、と思います。

 ◎大手進学塾、大手公立中高一貫校対策塾が、大量のバカを作っているという現実

  わたしが出会う大手にいたという子たちでまともな子に出会ったことがない。いったい大手で2年も3年も学ぶというのは何なのか。親たちが無知、無定見というほかない。漫然と大手進学塾に通わせる親は、自分の子のバカが加速しているのに気づかない。 大手に通っている子の大半は落ちこぼれ です。大手で我が子を使いものにならない、バカにしている、それが大手進学塾を選択する親です。 進学塾大手で落ちこぼれた子というのは、「わかった」という嘘をつくものです。「計算はできる」、「割合はわかる」ということを不思議なほど一致して答えます。しかし、わたしが検査してみて、計算にしても、割合にしても、まともにできた子を見たことがない。暗記した公式を当てはめる、ほとんど反射行動に近い、思考なし、である。親は馬鹿正直に子の「わかった」という言葉を信じる 。塾の先生やってると、まず言葉でいう「わかった」なんか信じない。それよりも本当にわかったのか、検証する。大手の指揮する親子バカ協奏曲に親と子が参加して 演奏する。進学塾は落ちこぼれが宿命である。これに対して、公立中高一貫校ブームで台頭した、公立中高一貫校対策を謳う大手 塾に群がるバカ親集団も手に負えない。自分たちの選択が「いかに愚かなことか、わかっていない」のである。かつてわたしが、毎年4月に催される九段の合同説明会の日、校門近くで、チラシを配ったことがある。あのとき、大手塾が、人数を繰り出して物量作戦を展開していたが、ほとんどの親は、この大手のチラシは手に取るけれど、竹の会のチラシには関心は示さなかった。受け取っても読まずにポイ捨てされたことであろう。アホらしいからもう止めたけれど、世の中の親の行動というか、向いている方向というものが、よくわかった。竹の会などという無名の塾に関心を示すことなどまずない。

 親の態度は2タイプあって、チラシに比較的好意的というか、拒まない親と全く無視する親、迷惑な顔をする、はっきりと拒む、そういう親たちがいた。まっすぐ前を見て呼びかけに振り向くこともしない、まるで塾を敵視しているのか、害悪ととらえてか、もう決めた塾に行ってますという態度なのか、とにかく拒む強い意志を態度で示す親である。とにかくこのときの親たちを見ていると、もう何を言っても無駄で、大手に行くという強い態度、そこに迷いはなかった。わたしはこの時から、こういう大手しか受けつけない、硬い頭に訴えることをやめた。 大手に2年以上も通ったという子でまともな子を見たことがない、 計算をやらせるとたいていデタラメ、正解率は限りなく0に近い、大手進学塾にせっせと、高い金出して通って、落ちこぼれていることにも気づかないおめでたい親たち、大手都立一貫塾に通わせて、計算はできないわ、割合のなんたるかも理解しないわ、で、のほほんと、大手の言いなりにカネを貢ぐ、バカ親、あなたたちが、見向きもしなかった、竹の会ですが、そういう親はこちらから、願い下げです、 いろいろと見識を掲げて、選択する、親というのは、子どもには、甘い、過保護というのがよくいます。子がもともと能力に恵まれていても、そういう親は結局子をダメにする。過保護とは、教育の選択の誤りであるが、超主観的、「圧倒的」誤りを正当化して止まないのが、こうした親の類型的特長、つまり限界である。

 世の中には、あえて我が子をバカにする親がいる、大手進学塾に入れて落ちこぼれにする親、大手都立一貫塾に入れてバカを固定化する親、そして勉強に関心もあり能力もある子を塾にやらないという不作為で凡人として封じ込める親。頭はあるのに過保護で子をぐうたらにしてしまう親というのもいる。 こういう親には、竹の会が、「本物の塾」として、訴えても、まず通じる相手ではなかったのである、 竹の会という塾を理解する親たちが、少ないけれど一人、二人と出てきて、それが口コミで本当に何年もかけて広がっていく、 竹の会は草の根の、少数の竹の会に理解を示す人たちに支えられて、細々と生きてきた。

 大手の大量処理、まるで鋳型にはめるような、子どもの処理方法、そこで、できのいいものだけが、取り出されて、合格実績というショーウィンドウに飾られる、かすは そこで事実上棄てられているのに、わからない。少子化でどこの私学も火の車だから、選ばなければどこでも入れる時代である。かすを棄てる場所に不自由はない。そもそも大手というのは、大量の製品を鋳型にはめて流しこみ製品化するようなものである。品質の良し悪しは、材料の良し悪しであり、最初から決まっている。悪い材料が鋳型に流しこまれたら品質がよくなるなどいう、錬金術などあるはずがない。もともと一人一人の能力も個性もバラパラなのに同じ歳、学年ということでもみな同じ鋳型に流しこむのだから、メチャクチャである。鋳型の構成成分は、学生講師に定型テキストとマニュアル通りの授業、確認テスト、復習テスト、などなどで作られている。そこからできあがった商品は偏差値という基準で等級が分けられる。

 商品がほとんうに分かっているのかなど関係ない。計算のやりかたが一度でも合格とればいいのであるから、人間が一度わかったくらいで本当にこなせるようになるのか、そんなことになんの斟酌もない。割合もベタなパターン問題に即答できるような公式を覚えさせてそれにあてはめるだけである。これのどこが教えたことになるのか。だからバカが生まれるのである。大手に1年も2年も通うと、反射的に公式を探して当てはめる、公式がないと「わからない」、「わからない」ときはもう何もしないでただ待つ、餌待ちのポチ状態である。これをわたしはバカと言っているのである。多くの親が、自分の子が天才でもない親が、鋳型に嵌めれば天才になると信じたバカな親がこうした悲劇の子どもを大量に社会に生産させている。鋳型で作られた子たちは、粗い、不良製品ばかり、材料がよくないとすべて不良製品になる、いい材料のみがいい製品になる機械なのだ、これが大量生産の宿命である、 子どもにもわかる理屈が大人にはわからない 。進学大手は、大量の落ちこぼれが経営基盤を支えている。親たちはこの経営基盤に盤石の資金を与えている。これもひとつのシステム構築なのであろうけれど、少なくともわたしは騙されない。

 竹の会というのは、合同説明会でチラシを配ってもまったく関心も示されない無名の小塾です。ですから大手大好きの親たちにはとても相手にはされない、そんなことはわかっていますから、そういう親は相手にしておりません。わたしは指導歴33年ですが、竹の会というのは常に進化してきたと思います。そして究極の指導システムを構築することを目標にしてきた。授業方式を最初にやったのは塾とはそういうものだと思っていた、新米の未熟さからでした。授業をやってわかったのは、頭の悪い子には無駄であるし、頭のいい子に「わかりやすく教える」と成績がなぜか下がる、という事実でした。個人指導は、頭のいい子と悪い子では全く質が異なる。そもそも個人指導は思考力をつける方法としては適しない。テキストの効用といのも実践しました。オリジナルのテキストを執筆したこともありました。しかし、子どもは画一的な処理では限界がある。それに子どもというのは多種多様で日々変化していくので、画一化したものだと限界がある。どうしたら子どもを効率的に理解の坩堝に持ち込めるか、子どもはそれぞれにみな違うから、とにかく一対一の対応が勝負である。対症療法的に「わからない」問題を教えるのではなくて、思考段階を少しずつ上げながら、現在の思考で「わかる」ということを体験させる、それが次の「わかる」の栄養になる、つまり思考のステージを上げていく、あくまでも自分で考えて答を出すということにこだわる。わたしは、試行錯誤を繰り返しながら、最高の指導法を追求してきたのであり、子どもたちとの実践的な指導体験でつねに新しい困難、障害に出会い、またそのための対処法を構築するということをしてきた、つまり竹の会は常に進化してきた、そういう塾である、と思っている。

 東京の渋谷にこんな塾がある、そういうことが少しずつ23区のみなさんに広がっていき、ひとりでも竹の会に理解を示される親御さんが増えていけば、きっといつかは、わたしの積年の夢である、「渋谷駅の近くにとてもいい塾があるんだよ」と噂されるような塾になれたら、という夢がかなうかもしれない、そう思い続けてきましたが、そのわたしもそろそろ限界に近づいております。わたしの夢が半ばで潰える、わたしが倒れることももう冗談ではなくなりつつあります。だから今はひとつの受検が終わったら、もう1年だけがんばれるかな、そういう思いでまた前に進むしかない、それが本音です。

 

 

 

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