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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

勉強とは、心配することである

2019.03.18

 3月18日になりました。ここ3日ほど冬が戻ってきたような寒さでしたが、それもこれが最後でしょう。今日は快晴です。春の到来をようやく実感できそうですね。昨日までの冷え込みで体調を崩した子たちもいます。冬と春の狭間はやはり人間の体にはなかなか対応しきれないものがあるようです。

 さてこのところの竹の会のお問い合わせについては、一身上の事情で、対応できない期間がありまして、ご迷惑をおかけしております。おそらく本日から順次スタッフより対処してゆくこととなりますので、もうしばらくお待ちくださればと思います。

🔵中学生への警告 〜理社50点は退塾

 この時点で、竹の会は、退塾する、しかない、と考えております。
 それは理社50点というありえない点数は、不勉強の証しにほかならないからです。勉強しない中学生は竹の会にはいてはならない、来てはならない、と思っております。
理社という科目が、勉強の熱心度、したがって勉強時間の絶対量を表すバロメーターとなる科目だからです。普段から気にかけて、心配する、教科書を読む、ノートにまとめる、ワークで確認する、試験に備えた暗記用のノートを作る、わからないところを参考書で調べる、ポイントをノートにまとめたり、覚えにくいところをサブノートにしたり、とにかく様々な取り組みをしなければならない。そういう努力の結果初めて日の目を見る。そういう努力もしないで、理社の勉強の方法がわからないなどというのは、勉強しない人の、実は、常套句なのです。とにかく方法などというものは、実行する人が、経験を重ねて、場数を踏んで、見つけていくもので、個人個人みな違うものです。まず実行でしょ。わたしは部活などでそういう事態がもたらされる危険性については早くから警告してきました。しかし、たいていの中学生が、現実には理社50という事態に陥ってしまいます。ここでも本音を言えば、過去中1〜2で、理社50点という生徒が、少なくとも都立駒場などに行った例はありません。理社が取れない生徒というのは、勉強してないということなのです。理社でコンスタントに90点を取るというのは、それこそ毎日勉強のことばかりを考えて、勉強していなければできないことなのです。理社の手を抜くというのは、部活をやる人のとりあえずの手の抜き方なんです。早晩、成績がさらに落ちていく、そして都立駒場になど到底行けないということなのです。

季節講習についての竹の会の考え
 講習に出ないという選択肢はありません。竹の会では、それは退塾しますということだからです。
かつては、夏や冬の講習において、必ず何人か不参加という人たちがいました。そしてそういう人たちが、必ずと言って成績を落としていき、結局退塾していったことは、恐ろしいほどの定型化された退塾パターンでした。つまりそういう人たちというのは、早晩止めていく人たちであったのです。ただこれも経済的事情で不参加、退塾という人たちと自由時間を楽しむという人たちという内実の違いはありましたが、講習後の成績低下に差はなかったのです。よくその分、家庭で頑張らせますということを言う母親もいますが、実際は、何もしない、のが相場でした。つまりそういう母親の言葉通りに子供が勉強することはない。かつて中2の夏休みにアメリカにホームステイに行った子の母親が、2学期の中間テストの成績が落ちたと言って、塾に文句を言ってきたことがありました。「塾に行っているのに成績が落ちるなんて」と言ってきたのです。「ちょっと待ってください。他の中学生たちは、夏も20日間、1日8時間(当時)も勉強してきたのですよ。だから中間テストは、みな成績が良かったのです。あなたの子は夏休みいっぱい勉強してなかったのですよ。竹の会が文句を言われる理由がわかりません。どうか勉強しなくても、自由にやりたいことをやっても、成績が良くなる塾があるのなら、そちらに行って下さい」私はその母親にそう言いました。母親は素直に謝ってきました。その中学生は、それから頑張って、都立青山にいきました。
 竹の会が、講習にこだわるのは、指導というのが継続を生命とするからです。指導の中断は致命的なほどに成績を低下させてきたのです。これまで積み重ねてきたことを無にしてしまうこと、講習は長時間の指導をやれるいい機会であり、通常指導を補完する重要な機会であること、講習に不参加という消極的なスタンスは、勉強に対するスタンスを、消極なものにし、情熱を低下させてしまうものであること、などその不利益は考えているより遙かに甚大なものです。
ですから、竹の会に入会するときは、そういうことも踏まえて入会を決めてほしいと思います。
勉強とは、心配することである
 理科の勉強をしていて、ある原理がわからなかったとする。そんな時、心配になる。これが勉強する人の正常な感覚です。覚えてないことがあれば気になる、心配になる。だから時間さえあれば覚える。例えば、地理の勉強をするとして、国を見て首都を言えるまで覚える、覚えられなくて悩む。心配になり朝早く起きて覚える。学校から帰ったらまた覚えたところを見直す。とにかく完全に言えないと心配になるから、何度も、見直す。あるいは、教科書を読む。一度読んでまた読み直す。心配だからまた読み直す。勉強のエネルギーというのは、心配なんですね。心配だから勉強する。心配だから部活を加減する、あるいはやめる。戸山に受かるか心配だから塾に行く。夏休みも心配だから遊ばないで勉強する。一日何時間もやらないと心配になる。お正月だって遊んでると心配だからやっぱり勉強する。
 できない子を見ていると全然心配してない。習い事、稽古事、部活を目一杯やっても勉強のことは心配してない。というか考えてないように見える。勉強を他人事のように横目で見ている。だから家族で一週間帰省を楽しんでも気にならない。でも少しは心配はししているのか、勉強しないということの負い目か、罪悪感からか、なんとかなるとなぜか思う。こういう心配しない人たちは、何かにつけて勉強をスルーする人たちです。勉強の実体のない人です。勉強とは、実行することです。その実行のエネルギーとなるのが、心配です。
 心配と言えば、まだ竹の会が、知られていなかった頃、竹の会で受かるか心配だからと大手に行った親子がいましたが、竹の会創世記の頃はそういう親子がたまにいました。当時は大手志向の人たちが普通の時代でした。難関校を狙う中学生は、河合塾、代ゼミ、駿台なんかに行っていました。都立駒場あたりだと、地元の個人塾や中小の塾がありまして、大勢が通っていましたから、何もないところから竹の会を信頼するなどということはできなかったのだと思います。ただ竹の会を始めた時から、わたしと話して、実際に指導を受けてみて、竹の会を絶対的に信頼するという親御さんが、少数ですが、必ずいました。鰯の頭も信心からと申しますが、こういう人たちは結局は成功していった人たちなのですが、まず何にしても信じることから始まっていたのです。その慧眼には頭が下がる思いです。

 竹の会に合うか合わないか、そのメルクマールとなるのは、勉強のことをどれだけ心配しているかです。課題を出さないというのはその意味でダメです。指導時間中に勉強時間を無駄にするというのも心配の存在を疑わせます。習い事、稽古事、サッカーなどのスポーツで時間を取られるのは、心配という概念そのものがないということです。同じく、何かと家庭の事情とかやらで塾を休むなどするのは、心配にならないか、疑われてもしかたない。

 さて、以上に述べたことは、竹の会に入会する限りはという前提の話しです。わたしの言うことに異論のある方は最初から入会しなければいいだけの話しです。

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