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学力吸収の速さは子どもの勉強する意識の強さに比例すること/竹の会 新規募集中/都立中高一貫校対策の名人竹の会

2019.10.29

 

第28章 学力吸収の速さは子どもの勉強する意識の強さに比例すること

のんびりした子はのんびりとしてしか伸びていかない。
夢中で勉強を追いかける子は、面白いほど伸びてゆく。
何かにつけ勉強を後回しにする子は結局伸びることはない。
家庭が何かにつけて家庭行事を優先する親なら、その子どもは伸びることはない。
家庭が習い事、稽古事にのめり込む体質の家は伸びることはない。
家庭がスポーツ偏重の家の子どもは伸びることはない。
家庭が勉強に関心が薄いならその家庭の子どもは伸びることはない。

 わたしは特殊例外について、反論をあげる愚者を相手にはしない。あくまでも一般的な、しかも経験値に基づく事実、すなわち90%以上の事実について、述べているだけである。
 まず試験というのは、そういう連中が、落ちていく。そういう連中の特質はなぜかほとんど似ている。必ず、頑張ればどうにかなる、と言う。もしかしたら本当にそれを信じているのかもしれない。その頑張ればというのはいったいどの程度のことを考えているのか。単純に考えてみよう。一日勉強できる時間が5時間あるとして、その5時間全てを勉強にかけている人がいるとして、その頑張ればの人は、勉強できた時間が1時間でも、頑張れば、これにあたるのであろうか。日曜日に10時間勉強できた人がいて、頑張ればの人は、一日サッカーの試合に費やしたとして、頑張ればの人は、どう頑張れば勉強したことになるのか。もし10時間やった人が、さらに何時間か頑張ったら、頑張ればの人はどう頑張ればこれを挽回できるのか。
 単純に、知能が同じとして考えたら、結論は、出ている。しかし、頑張ればの人は、自分は元々の知能が高いとか、生来の集中力が人並み優れているとか、自己の優越性を信じて疑わない人ばかりである。つまりこういう人たちは、自分の一時間は、並の人間の5時間に匹敵すると信じている節がある。最初から、根拠もないのに、自分を高い能力の人間と前提して、頑張れば、お前ら程度がどれだけ勉強しても俺には勝てないという尊大ない態度である。こういう人種の特徴として、親も同じ思考をとることである。
 頑張ればには根拠なんかないのである。ただ自分はできるという根拠のない信念があるだけである。そもそも一心に努力している人間よりも、何かにかまけている自分の方ができると考えているのだから、めちゃくちゃな話しである。これこそ経験則に背馳する。
 この人たちは、自分はすごい人だと言っているわけである。なにしろ勉強一筋に頑張っている人に、ながら勉強で勝てると言っているわけですから。なんという傲慢な人たちなんでしょうか。
 わたしは、このような人たちが、少なくとも私の指導した子で成功した例を知らない。
 いや不正確かもしれない。確かに、過去の竹の会の合格者たちのなかには、部活をしていて合格した中学生たちがいた。記憶にあるのは、平成10年に早稲田実業高校に合格した鈴木君である。彼は三年間柔道部、中2からはほぼ二年間生徒会長をしていた。だからといって彼は中学の三年間竹の会を休んだことはほとんどなかった。彼がいた頃の竹の会は月から金まで毎日4時から10時までやっていたはずである。それをほとんど休まなかったということからも昨今の部活中学生とは本質的に違っていた。彼が如何に竹の会を生活の軸としていたかは、幸いお母様が合格体験記を寄稿してくださり、公開していますので、是非お読みくださればと思います。
 もう一人あげておこう。平成13年に都立西に合格した男子生徒がいたが、彼はテニスをやっていた。彼の場合は、勉強の息抜きに楽しんでいたという感じを持っている。彼が西高から慶應理工に進んだことはすでにこのブログで何度となく触れてきたことなのでもう書かない。
 
 さて、本日のテーマは、勉強に対する意識が高いほど学力が伸びてゆく、という命題についての検証であった。
 先に挙げた二人の生徒の勉強姿勢は揺るぎない信念に近かった。勉強することに迷いなどない。勉強するのが当たり前で、そこで悩むことはない。多くのできないという子たちは、そもそもの勉強をしない、怠ける、先送りする、何かと回避する、そのレベルの問題であった。
 こういう意識の低調な子たちが、成功することはまずあり得ない話しである。
 もちろん親の勉強について持っている意識のレベルもある。特に、親の学歴によって子の教育姿勢に違いが出るのはよく知られたことではある。
 子どもが塾に行っても伸びない原因の一つは、確実に、勉強意識の低さにある。勉強時間一つ取ってみても、意識の低い子が、十分な家庭学習を主体的にやっているとはとても思えない。親に言われて渋々とやる、そういう子の勉強の質の低さは想像に難くない。塾に行っている時だけが勉強時間という子ばかりであろう。そもそも家庭学習もしない子が伸びるわけがないのである。家庭学習はと聞けば、学校の宿題だけという子に何を期待できるであろうか。
 小学低学年の指導は、もっと研究されるべき分野であったかもしれない。いや最近私がとみにこの分野の研究において心境著しいということもあるかもしれないが、これまでの低学年教育の実態を見てみると如何にも貧困に思える。
 小学低学年の前段階からよく聞くのは、公文である。値段が手頃なこともあり、たいていの子どもが一度は通ったことがあるほどに、普及している。短期間でやめる子も多いが、コツコツと続ける子もいる。わたしの知っている子で、公文を中学までやって開成高校に合格した子がいたが、そういう話しはそのまま一般化できない、その他のファクターがある。

 公文というのは、ドリルを段階的にやる、監視型の自主学習スタイルをとるものである。似たものに、花まる学習会というのがあるらしい。ここは聞いた話しでは、丸しかつけない、らしい。一つの教育姿勢を示しているのであろう。
 小学低学年指導と言えば、これだけである。要は、ドリルをやって、次のステップに進む、という方式である。親がつきっきりで見ていないと目を離すとすぐさぼる。ドリルは、解き方を例題で学習させる。解き方がわかったら、後はドリルで何度も練習する。類題練習である。このやり方で次第にステップを上げていく。能力が高い子ならどんどん進めていくであろう。能力的に低い子でも繰り返しやるから、進むのは遅いだろうが、とにかくも前へ進めることにはなるであろう。
 ただ公文は、小学高学年が、受験をするには、対応していない。最近では、取り込み年齢もかなり早く、進学大手が、低学年指導を手がけているようである。
 総じて小学低学年指導というものが、家庭のレベルでやる問題として、軽視されてきた、ということである。小4になったらそろそろ進学大手に行って勉強始めるか、といった具合であろう。 
 わたしも長く小学低学年の指導など眼中になかったというのが正直なところである。
 わたしの場合は、都立中高一貫校受検のための指導がまず小学高学年指導の目覚めとなった。その指導をする中から、研究を進めていった。最初は、小6であった。それから小5へと指導のための研究が進んだ。そういう中で小4がもっともいい時期なのかなと思った時期があった。研究が進むに従って、指導の技術が上がり、小3が、視野に、そしてさらに小2も指導可能というところまできた。竹の会の、わたしの方法は、確立した指導体系をなす。この指導体系の中で、これまで小4、正確には、小3の2月が、ベストと考えていた。それまでに小3を指導した経験はいい結果を生まなかったこともある。一人は、小数の割り算で躓いた。小3という学年が、幼すぎて勉強意識の低いことが大きかった。もう一人は、なんとか計算を切り抜けたが、共感性、集中力、幼児性という、この年ごろ特有の阻害要因が、障害となった。
 わたしは、小学低学年は指導は無理、不可能と一度はその指導を諦めた。
 その間も、私の指導技術は、さらなる深化を重ね、高度な指導が可能となっていた。わたしの指導体系を試す環境は整った、と言ってよかった。後は、小2でも勉強意識の高い子でさえあれば、成功裏に指導できる自信がわたしの中に満ちていたと言えよう。
 そもそもの竹の会の指導体系とはどういうものか。
 いやこれは難しいものではない。基本は、小数の計算から始めて、分数をマスターする。それだけのことである。わたしの最終目標は、難関中学で出される程度の計算問題をまず正確に解けるようになることである。この過程は、個人差もあるが、3から6か月あればいい。わたしは、これを小4から始めて3か月という期間で終わらせる体験を重ねたが、この同じ過程を小3でも、小2でも可能なように、研究をしてきたのである。例えば、分数の指導は、何個かのパートに分けた。最小公倍数のパート、通分のパート、繰り上がり・繰り下がりのパート、約分のパート、小数⇄分数のパートなどなどである。この各過程をテキパキと進めていく。それから一気に分数、小数の四足混合演算をやらせる。問題はわたしが選び、理解の状況を見ながら、一問一問解かせて導いていく。この過程で一気に難しい分数の計算ができるようになる。分数に徹底して慣れさせたら、逆算をやる。逆算は、これまで多くの小学生を悩ませてきた分野である。ここで時間のかかる子がたくさん出た。わたしは、逆算の効果的なマスター法をずっと研究してきた。この逆算の指導法が確立したのは、ここ2年のことで、わたしの新しい方法が、功を奏してきたといえる。
 どうであろうか。竹の会の指導システムは、最初高学年を念頭に進められてきたものが、しだいに、その対応年齢を下げていったものと言えよう。それは裏から言えば、竹の会の指導技術の高度化を意味していることになる。
 さて、みなさんは、まず、小学低学年に竹の会の指導を体験することである。
 その際に、あなたたちの子どもの勉強意識の高いこと、強いことが、指導の成否を決めることを知っていた方がいい。
 さらに、わたしが指導に際して、望むのは、「字」の書ける子どもに教育してほしいということである。これは、小1の前後が、勝負と思う。ゆっくりと丁寧に字の形を練習させてほしい。子どもというのは、親がつきっきりで見ていなくては、それをやらない。親の目がなければたちまちいい加減になる。乱雑になる。乱暴になる。書き殴りになる。字形などどうでもよくなる。よく公文に行っている子が、字が汚くなるのは、親が字まで見ていないからである。ドリルを早く終わらせることにばかり目がいって、親もドリルができさえすれば、字の汚いのは、まっ、いいか、と大目に見る。これがいけないのである。要は、親が、字まで気をつけて見ていない、これが元凶ということである。繰り返すが、勝負は、小1である。
 高学年になったら、もう汚い字は治らない。中学、高校と字が汚いのは、計り知れないマイナスである。ノートも満足に取れないなんて、勉強の入り口で、すでに排除される。勉強のイロハの前の話しである。

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