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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

もう一度、名人の仕事を!

2020.02.18

第63章 もう一度、名人の仕事を!

 わたしの指導技術は、ここ数年最高水準にあるであろうと思う。指導できる子どもの年齢も今は小2まで可能になったと考えている。素人のみなさんには、わからないかもしれませんが、小学生は低年齢になるほど指導が難しい。これはかつて青山学院や都立西などの生徒を指導した経験からも裏づけがある。難しいことを難しいままに教えることほど楽なことはない。すでに概念枠組みのできている高校生を教えるのは楽な仕事である。しかし、小学低学年は、簡単ではない。まず思考というものがない。あっても未熟、知識はもちろんない。さらに知識を受け入れる容量もない。小学生の指導というのは、局面が全く違うのである。
 私は都立中高一貫校のための受検指導という機会を得て、小学生指導の研究に没頭してきた。わたしの守備範囲は、小4までであったと思う。平成23年に小石川に合格した男子は、小4夏からの指導であった。市販のドリルを使って通分を教えた。この時は、割合も塾専用教材から探して使った。この時、割合というものを立体的に理解できる子というのが、ほとんどいないということを知った。あの当時、通分でさえもできない小6が普通にいた。わたしは、子どもたちに、いかに手短に効率よく計算をマスターさせるか、割合という概念を自然に頭の中に簇生させるにはどうしたらいいのか、そういう諸々のことを研究対象に、わたしは、実践と研究を重ねてきた。今では、あたりまえのミクロマクロ思考法を思いつくまでに、どれだけアイデアをレジュメにしては、潰してきたことか。あの時は、寝ても覚めてもアイデアを考え続けた。朝目が覚めると思いついた、閃いたアイデアをすぐメモし、原稿に掘り起こした。来る日も来る日も試作品の制作に明け暮れた。今、竹の会で使われている、「算数の魁」や「思考の鍵」などのシリーズの原型はみなこの頃に完成したものだ。わたしは、同時に、「名前をつける」ということが、子どもたちの概念理解を容易にすることに気がついていた。よく医者が、原因不明の病気に名前をつける、あれはそれで患者が得心するかららしいが、曖昧なものに名前をつけるというのは、指導の一つの技術であるとわたしは思っている。子どもたちの脳の中に少なくとも居場所を見つけることになる。小学生の指導というのは、未開拓な脳世界に秩序(論理)をもたらすことを意図したものといえる。「割」「%」という概念に、息を吹き込む、これが、プロの仕事であると自負している。子どもたちの脳にどう息吹かせるか、これが技術と言われるものであり、わたしの真骨頂である。
 名人の指導をもう一度! 
 その思いがかなって、これほど幸せなことはありません。
 
 こころのかたち

 わたしたちは、おそらくこころのかたちを作るために生きている。こころのかたちは人の悪い意思で、良い意思で、様々なかたちを作る。
人生というのは、こころのかたちによってさながら様々な「生」を見せる。
こころのかたちはこの意味で運命(さだめ) そのものかもしれない。
とすれば、私たちは運命を変えられるかもしれない。こころのかたちは、私たちが自由に作れるのだから。
それではこころのかたちはどうやって作るのだろうか。
人を貶める人、人を欺く人、人を裏切る人、陰口を言う人、密告する人、そういう人のこころのかたちには品性がそもそも欠けている。わたしはそう思う。人間から品性を取ったらもはや人ではない。わたしたちは、ほかならない、品性をこそがこころのかたちを決めるものと知らなければならない。
教育とは、子どもたちに品性というものを身につけさせるためにその意義を見出さなければならない。学問が双刃の剣たることは、学問ができた、ないしできる人間が必ずしも品格を伴わないことからもわかる。
わたしは子どもたちにこころのかたちをどう描くのか導くことができるだろうか。本来学問は品性を備えるためにこそあらなければならないはずである。

試験のセンス

 いつも試験のセンスのいい子がいて、なぜか模試の成績がいいという子がいます。
恐らくこれは、賢いのだと思います。その意味は、この子たちは、かなり知能が高い、だから自分の考えよりも、先人、師の考えに迷わずしたがう、ということです。知能が中途半端に高い、そういう子ほど何か人の指示を嫌がるものです。自分が一番真実、真理を知っていると思いたがる。ここが、真の賢さとは違う、似非賢さなのである。 ほんとうに賢い人というのは、知能は高いのに、決して自分の考えよりも先人、先達の考えの方が素晴らしいということを熟知している。だから師匠の考えに逆らわず素直に従う。ここで迷わない、悩まないのである。
 センスの良さというのは、自らの判断ではなく、先人の判断を迷わず、選択するところからくる。先人というのは、こうすればこうなるということを知っている。賢い人間は自己の判断が迷いに満ちて悩ましいほどにあやふやなことを知っているのである。
 センスがいいというのは、勘が優れているということであり、それは、ほかでもない先人の判断を勘で選ぶ能力のことにほかならない。
 竹の会で合格を期するというのは、そうした賢さを持ち合わせていなければならない。私が、竹の会の指導に、自分の考えを持ち込むのを嫌悪するのも、先程述べた賢者の思想に背地するからにほかならない。習い事、稽古事を愉しみながら受かると思うのも賢者の思想とは相容れないのは勿論である。獅子はどんなに小さな獲物を狙う時も全力で襲うという。獅子奮迅の働きをする。合格という獲物を狙うのに様々なことに力を分散する、力を削ぐ、そういう思想というものがわたしにはどうしても理解できないし、受け入れられないのである。
 力を分散させるとは、本来の目的を舐めている、これは先人の考えにも悖る。
 自らの情報をガラス張りにしないのは、言いかえれば自らの殻に閉じ籠るのは、先人の知恵に耳を貸さない態度である。
 あとやっぱり、勉強というのは、コスパで測っちゃいけないと思うのです。勉強には、質と量という尺度があります。質というのは、高いか低いかです。つまり時間では測れない。これに対して、量というのは、当然時間に馴染む。コストパフォーマンスを言う母親というのがいまして、費用と時間で成果を測ろうとする。これは授業なら授業がすべて均一であることを前提としていますね。さらに質は時間で測られないから、そのまま成果の関数となる。
 しかし、時間をかけるというのも質の向上に影響します。質は、塾の側の提供するサービスの質です。竹の会で言えば、様々な教材、つまりレジュメ、指導の実際、つまり技術、指導経験、つまり場数を踏んだ数など、それはそれは一言では語り尽くせない、無数の要素から成り立っています。

 

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