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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

竹の会回顧録(平成15年)~ある不登校生徒と共に歩んだ4年の記録、不登校から生還せり~

2015.10.28

★都立鷺宮高等学校・合格(男子)

 

彼がやってきたのは、中3の9月のことだった。

彼の母が、かつて竹の会にいた女の子の母親と知り合いで、子どものことで悩んでいたところを、「竹の会の先生に相談してみたら」ということになったらしい。彼は中2から、いわゆる不登校であった。私は特に詳しい事情は知らないが、どうもクラスにいる場所がなくなったようである。

 

それでも、中間や期末のときは学校に行き、テストを受けたということも話していた。

これまで学校の教科書を独学で進めてきたという。それなりの基本はできていたと思うが、基本から鍛え直す必要があった。竹の会には彼と同じ学校の男の子も来ていたが、なにやら冷たい視線である。私はお構いなしに指導を始めた。「英語指導案2」「英語指導案3」「英語ポイント集」を使った。数学は竹の会版テキストを使用した。

 

彼の勉強のスタイルは、ほとんどノートをとらなかったように記憶している。与えた理科と社会のテキストもただ読むだけで、赤鉛筆で線を引くということもなかった。

 

彼の同級生の男の子とは、竹の会では席を並べて勉強していた。

同級生の子は、とにかくテキストは書き込みと色鉛筆でやりこんだ感いっぱいだった。ところが理科・社会の過去問テストやV模擬では彼の方がいい。彼はたいてい90点以上だ。これに対して同級生の子は60点前後と悪いのだ。私はどうしたことかと、彼に尋ねたことがある。

 

彼はテストのときは、「ほとんど推測でこれかなと選んでいる」という。

それで理科100点をとったりできるものかと思ったが、おそらく彼はテキストの「ストーリー読み」ができていたのではなかろうかと思っている。受験に強い人は、テキストを読むとき効率的に必要な知識のみを覚える読み方をすることができる。そして覚えるときも、頭から闇雲に覚える愚はしないものだ。ひとつひとつの暗記事項になんでもいいからストーリーをからめる。こうすると自然と頭にはいるのだ。

 

テストを解くときも、問題文のキィーワードから推理すれば正解に達せられるような本の読み方をしておく。こういう問題が出たら、この言葉から推理するときめておく。必要な知識は覚えなくて推理ですませる。テキストというのは、「いかにして覚えなくてすますかと」いう頭の働かせどころだった。それに、網羅的に覚え込むと推理はまず働かない。少ない知識だからこそ、推理がはたらく。

 

実は、受験参考書というのは読み方があるということだ。そして、やたら受験参考書をやる人ほど「できない」。これは、私の受験時代と異なり、現代特有の現象である。

私の受験時代と異なり、と言ったが、それには理由がある。

かつて、私の高校時代に東大に進んだ後輩がいた。当時、進学校というのは先生はほとんど教えなかった。授業は予め渡しておいた宿題プリントをやるだけだ。生徒は出席番号順に問題が割り当てられており、授業が始まる前に、前と後ろにある黒板に自分のやってきた解答を書いていく。授業が始まると先生がそれを端から検証してゆく。他の生徒たちは必死で黒板を写す。授業はいつもこうだった。毎日大量の宿題プリントが配られた。中学のときのように、先生が教科書をわかりやすく説明してくれるということはなかった。いつも予習で理解して、授業ではプリントというのが進学校の中身だった。

 

さて、その後輩だが、数学なら数学で当時手に入る参考書のほとんどをそろえていた。プリント宿題が主体の授業の時代、参考書をたくさん持っている奴は絶対有利だった。たいていの同級生は参考書を買えない。これで落ちこぼれる。その後輩は、「チャート式数学」など当時人気の参考書が本棚にびっしりとあった。正直、私は参考書をほとんど持っていなかった。この差は大きかった。当時は、参考書を持っていた奴が成績がよくなった。私の受験時代はそういう時代だった。

 

しかし、参考書を持っていた者が有利だったのは、参考書自体が少ない時代だったからである。
昨今は、受験生は経済的に恵まれた人が多く、化学でも日本史でも何十冊もの問題集やら参考書をそろえている。そのため、いいといわれる参考書すべてに手を出して失敗する受験生は多い。貧乏な時代の私たちの高校時代とは違って、今の受験生は溢れる情報に翻弄されて自分を失う人が多いようである。私の高校生の頃から今も変わらないのは、「少ない知識」をどう生かすかが受験の妙技だということではないかと思う。

 

さて、話を戻そう。

こうして彼は11月になるとV模擬で都立青山も届きそうな偏差値を弾きだすのである。そして彼は私に、「先生、青山を受けようと思います」と言って憚らなかった。

が、彼はある重要な事実に気がついていなかった。

 

12月の三者面談で担任から「都立は無理だ」と言い渡される。

なにしろ素内申10なのだから。オール1だが、数学だけは担任がお情けで2をくれたというわけである。

不登校というのは、こういうことなのだ。その内申で受けられる都立の普通科はない。彼がそれでも受けるといって決めた都立・鷺宮は都立千歳丘の微妙に上のランクだ。彼の内申で合格するには500点満点の450点程度とらなければならない。なお、内申に恵まれた子なら、400点そこそこで都立青山も余裕で受かる。

 

彼は12月・冬期・1月・2月と、いつも竹の会にいた。不登校で学校には行かなかったが、竹の会だけは一度も休むことなく、必ず勉強しにきた。

 

入試が終わり、都立発表の日。

彼が竹の会のドアを開け、「先生, 受かりました」とうれしそうに顔を出した。

彼の母親にまたまた頼まれて、私は高校でも彼の面倒を見ることとなった。

3年間、彼はほとんど竹の会を休まなかった。

 

心配していた高校も、不登校とはならずに通い続けた。

入学したてのころ、彼は高校の授業の低レベルを嘆いた。高1のときやった英語は中学の英語だった。数学だって同じだった。大学進学に必要な科目も高校の履修内容では不完全だったのだ。

 

彼は3年間を学年一番で通した。

当然だろう。あのレベルの高校で450点以上をとって入学する生徒などいるはずがない。必要な受験科目は竹の会でやったのだ。

 

彼は高3になり、東大を受けたいと言いだした。

あのレベルの高校では国立大学の合格実績すらない。竹の会には参考書はなんでもそろっている。だから彼は思うように勉強できた。が、現役で受験した東大は門前払いだった。

 

彼が竹の会を去った後も、彼の自宅が竹の会のすぐ近く(注釈:移転前)ということもあって、ときどき竹の会にひょっこりと顔を出した。「先生」と話にやってきた。彼は自宅浪人で予備校には行っていなかった。母一人子一人で母親に負担をかけさせたくなかったのかもしれない。

浪人1年目も東大受験で失敗。2年目は彼も利口になり、東大にこだわりはなかった。センター試験の得点が思いのほかよく、一橋の1次をクリアした。そしてラッキーなことに彼は東京理科大をセンターの得点だけで合格したのだ。これで国立が受けやすくなった。が、一橋の2次は難しかった。それで彼は、後期は千葉大理工の受験に切り替えた。千葉大はセンターの比重が高いところだ。彼はこの有利を生かして、難関の千葉大後期試験に合格を決めたのだ。彼は理科大か千葉大かで悩んだ。私もアドバイスを求められた。

そして、千葉大に進学した。

 

それにしても、あの鬱屈とした不登校の中学時代、受験の圧倒的不利を跳ね返した高校受験、難関大学受験に全くといっていいほど対応していない高校の授業、彼はなんとも重いハンディーを背負い、過酷な人生を歩んできたものだ。

彼は唯一、竹の会に、私との語らいに心の平穏を保ち続けて、ひたすら人生を前向きに真っすぐと生きてきたのだ。
これからの人生が、幸あらんことを祈らずにはおれない。

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