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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

竹の会回顧録(昭和62年)~竹の会の始まりと代々木中3人娘~

2015.10.28

★都立駒場高等学校、都立目黒高等学校、国学院久我山高等学校・合格(女子)

 

竹の会がスタートしたのは、昭和60年10月のことであった。

 

手書きのガリ版刷りのハガキで出した入会募集に、なぜか3人の母親が興味を持ってくれた。当時の私は家庭教師の経験はあったものの、学習塾は全くの素人といってよかった。

当時塾には、自前のテキストはもちろん、過去問集や参考書類もほとんど皆無からのスタートだった。今思えば、よく入会申込みにきてくれたものだと思う。

 

第1号入会となったのは、代々木中2年の女子3人の仲良し組みであった。

秀才タイプのFさん、お嬢さん育ちのSさん、庶民派のYさんの3人が、私の住むマンションの1室を利用した教室に通い始めた。週2回のペースで授業をした。

 

ひと月もすると、私の授業が評判になった。

わかりやすくて熱心な先生がいるということが口コミで広がった。

私は夢中で授業を回した。2時間ごとに生徒が入れ替わった。あの頃は、土曜も日曜もなかった。時代は学校群制度が最盛期で、都立高校も私立高校も人が押しかけた。まだ少子化のかけらも口に上ることはなかった。塾は、たちまち生徒が増えていった。

 

このころは、キャノン製のミニコピー機をよく使った。参考書や問題集から、問題を切り貼りしてコピー機で即席教材に仕上げた。

教材はなんでもよかった。授業で「完全に理解させることができる」と信じていたから。

 

このころは、今の模擬テスト業者が学校と提携して、学内で定期的に模擬テストが実施されていた。そのため都立入試に関しては、中学校の先生が豊富な資料を持っていた。しかし難関私立となると業者テストはあてにならず、代ゼミや河合塾の模試が使われた。

 

都立は一度落ちても、グループ制といって、グループ内の最低合格点を上回っていれば、グループのどこかの学校に入ることができた。いわば敗者復活だ。

例えば、21グループには、戸山・青山・新宿・都立大附属・目黒・広尾が属していた。仮に都立大附属を受験して落ちても、予め第二志望として都立大附属を出しておくと、都立大附属が定員に満たない場合は拾われた。

 

ある時期は戸山を敬遠する受験生が増え、目黒を落ちた生徒が第二志望で戸山を出すケースが増え、目黒で落ちた子たちが大量に戸山に流れたことがあった。戸山では、入学後にできない生徒を別クラスにするなど対応に苦慮したと聞く。いずれにしても、都立はこのようなできない生徒に手厚くした半面、大学進学には不向きとなっていた。多くの逸材たちがあげて私立に流れることとなっていった。

 

さて、話を戻そう。

3人娘は中3となり、いよいよ受験の年となった。

3人の母親は熱心で、よくそろってやってきては話しあいがもたれた。私は、竹の会創立当初から、本能的に過去問を使っていた。過去問をコピーして使った。私自身も、過去問を精力的に解きまくった。そして子どもたちのために、手書きの解答を作りコピーして配った。まだわら半紙もなかったので、子どもたちは持参の計算用紙に書いていた。

 

何年かして、東京都の私立や塾では「新中学問題集」というのが使われていることを知った。私はよく、大久保にある教科書販売会社に出向いて教材を探し回った。新中学問題集を使って指導したこともある。市販のテキストは帯に短く、襷に長かった。特に市販テキストは項目別に編集されているため、何を練習するのかが予め予測できてしまい、未知の問題に対してどう考えて解いたのかを訓練するには全くダメだと思った。

私は、ワープロ専用機を使って自前のテキストを書き始めた。竹の会の自前のテキストが完成するのに3年ほどかかったかもしれない。私が指導しやすいように編集した。

いちばん苦労したのは数学だった。

ワープロ専用機では、せいぜい分数が限界で、細かな数式表現はできなかった。ましてや図やグラフなどはありえなかった。いつの頃からか、わら半紙を大量に購入して常備するようになった。過去問集は毎年受験の度に増えていった。私がまだ授業中心の指導に囚われていた時代の話しである。

3人娘のうち、Fさんはいちばんの秀才だった。

定期試験前は3人でよく英語のリーダーを暗誦していた。ほとんど覚えてしまうのには感心した。理科や社会はきちんとノートにまとめていった。

※リーダ―の暗記というのは、良質な文を暗記してしまうことです。当時は竹の会のメニューのひとつになっていました。文は私が選りすぐり、もしかしたらワープロ専用機で作っていたかもしれません。当時は、パソコンもなく、私は何台もワープロ専用機を使っていました。

 

 

Fさんは憧れていた都立駒場に合格した。

Sさんは國學院久我山に合格した。

Yさんは都立目黒に合格した。

私が、「授業」に夢中になっていた、竹の会の牧歌的な時代の話しである。

あれから、私は多くの様々なタイプの子どもたちと出会い、その度に指導に悩み、光を求めて彷徨いもがいた。首都圏の高校入試問題を解き尽くし、私立中や国立中の入試問題を解き尽くした。

大学入試の英語や数学を研究する日々もあった。様々な英語文献を詳細にノートにとり、分析したこともあった。東京出版の「大学への数学」シリーズもよく読んだ。できない子の指導に悩み、超秀才の指導では秀才たちを魅了したこともあった。

私は、今の竹の会の指導の域にたどりつくまでに、どれだけの艱難辛苦を乗り越えてきたであろうか。そして、竹の会開設当初から私が本能的に用いてきた、そして多くの奇跡的合格を輩出した過去問指導法は、私の唯一変わらぬ鉄則の指導法であり続けた。

教室には、今も3人娘が肉まんを食べているところを写した写真が残っている。ときどき私は感慨深げに写真を眺める。そして、あの頃の、無我夢中に動き回っていた自分を懐かしく思い出している。

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