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竹の会回顧録(昭和62年)~追憶の笑顔~

2015.10.28

※以下の文章は平成3年発行の小冊子「竹の会指導論集1」に収載されたものです。

 

中2の11月に竹の会に入学したE君の話をしてみたいと思います。

E君は背筋のピンと伸びた姿勢のいい子でしたが、いつもむすっとした顔をして人をにらむのがくせでした。水泳が得意で、仲間にも一目おかれているようでした。入会した当時の成績は数学23点、英語は30点台、国語は40点台といったものでした。

家でまともに机に向かうということは、ほとんどない子でした。
入会した当初から気の合った仲間がいたということもあり、本当によく騒いでくれました。私が何か言えば、必ずなにかウケを狙って一言いいました。

 

なにしろ正負の数の計算からほとんど駄目で、これをマスターさせるのにも一苦労でした。文字式に入るとまた一苦労といった具合で、連立方程式まで実に遠い道のりでした。英語はといえば、三人称単数現在のSをまったく知らない有様ですから、その力たるや推して知るべしといったところです。

それでも、この子のいいところは、一つ理解すると目を輝かせて感心したりうなずいたりするところです。

なんとも教えがいのある子でした。私は、「先生の言うとおりにやりなさい。そうすれば必ず成績が上がります」と、ことあるごとに言いました。

12月の期末で、数学が20点台から40点台にまで上がりました。気をよくしたE君は、先生の言うとおりにやれば成績が上がると、納得したようです。

 

「奇跡の人」という映画がありましたが、あの中で三重苦のヘレン・ケラーが、ものには名前があるのだということを理解するのに苦しみ、そのことを理解したときの喜びが感動的に描かれていました。E君が一つ一つ理解していく過程は、まさにそのようなものとして私には映りました。

 

三人称単数現在のSがわかった時、何度も何度も確認するようにうなずき、ニコッと実にうれしそうに笑うのです。それから、そのことをノートに書き留めるのです。 私が覚えてくるようにいった単語を、目を輝かせながら、「先生、覚えてきたよ」と、嬉しそうに報告するのでした。

私もついうれしくなって、ほめことばのひとつも言いたくなりました。彼は照れ屋で、本当は無口な子だったというのがだんだん分かってきました。指導は、悪戦苦闘の連続でしたが、わかったときの彼のニコッと笑う顔が、そしてその目の輝きが私の支えになりました。

 

しかし、中2の3月の学期末テストで、数学は30点台まで下がってしまいました。このとき彼は、随分荒れました。

指導では投げやりな言葉がついでてしまうようでした。「先生のいうとおりにやったのに上がるどころか下がってしまったじゃないか」、そういっている彼の心が見えるようでした。

これには私も参りました。

 

時間がたつと、彼も次第に落ち着きを取り戻してきました。

中3になると、いろいろ新しいことを習います。彼も必死になってきました。元の無口な彼に戻っていきました。5月の中間では、数学は50点台に乗りました。英語も60点台で、彼の嬉しそうな顔を今でもはっきりと思い出すことができます。私への信頼もやや回復というところで、内心ホッとしました。彼は気をよくしたのか、7月の期末ではとうとう数学70点台英語も70点台に乗せてしまったのです。

ここで、私に対する信頼も確固たるものになったようです。

夏が過ぎ、二学期がはじまりました。

彼はほとんど口も開かず、ただ私の言うことをじっと聞き入っていました。毎日夜遅くまで頑張っているのでしょう。随分やせたような気がします。顔が青白くなったのが気になりました。

集中力は抜群で、一定の姿勢で何時間もひとつのことに集中できるようになりました。私は随分変わったなと思いました。10月の中間では、遂に数学80点台、英語も80点台になりました。しかも、国語、理科、社会も90点前後というのですから、驚きました。続いて12月の期末でも、5科目80点以上でゆるぎない実力のついたことを思わせました。

高校に推薦合格が決まったある日、お母さんが私のところに報告に見えて、涙ぐみなから話されました。

「それまで、勉強などとはまったく縁のない子でした。あの子が夜遅く机に向かって勉強している後姿を見ていると、涙が出てしょうがありませんでした。あの子がここまで変わるとは、先生に出会えたことが、あの子の人生を大きく変えました」と。

 

正負の計算すら満足にできなかったこの子が、ここまで来るとは。私の脳裏には、悪戦苦闘の彼とのやりとりが走馬灯のように走りすぎていきました。

合格後、E君と会ったとき、私はなにか言えば涙がでそうで困りました。

ニコッと笑った彼の顔は、一つのことをやりとげた充実感にみちたさわやかなものでした。今、彼のことを思い出そうとしても、ただひたすらに頑張っている、あのけなげな姿しか思い浮かんでこないのです。

 

いつかまた、あのニコッと笑ったさわやかな笑顔をみたいものです。

 

 

 

追記

E君とその仲間たちは第1期生でした。

学校の成績はビリから2番目とか3番目とかのグループで、この子たちを1クラスとして、私は熱血先生ならぬ授業に明け暮れていました。

 

この子たちが成績を上げ受験に成功すると、その噂を聞きつけた世のできない子の親たちからの問い合わせの電話が連日のようになり響き、私は「竹の会はできない子が集まる塾になってしまった」と嘆いたものです。

当時は、まだ今のようなレジュメはなく、また竹の会版テキストが完成するのはずっと後のことでした。学校の教科書を使ったり、市販の問題集を切り貼りしたりといろいろ苦労しました。時には、塾専用教材を試すということもしました。

 

とにかく試行錯誤と手さぐりの指導の中で、情熱だけが燃えていました。

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