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竹の会回顧録(平成19年)~初めての公立中高一貫校の指導のこと~

2015.10.28

 

★千代田区立九段中等教育学校(区分B)、東大附属中等教育学校(2人)・合格

 

平成18年の4月、1人の小6男子が入会した。区立九段中学志望の子だった。

そして5月、小6の双子の姉妹が入会した。東大附属志望の子だった。

今年の竹の会は, 小6はこの3人だけだった。

公立中高一貫校の適性検査が始まったのは、確か、その前年のことではなかったと思う。

 

全国過去問も2007年度版1冊が出たばかりであった。それは今と比べると半分もない厚さであった。都立の数も少なく、過去問も1年度分だけという程度でデータはほとんどなかった。どこの予備校や大手塾も手さぐりではなかったかと思う。

竹の会では、レジュメは制作していたものの、まだレジュメ指導というほどまでに完成したものはなく、試作品的なレジュメばかりであった。私はまだ数式ソフトを十分に使いこなせず、レジュメの制作に合わせてソフトの使い方を学んでいた段階であった。私が数式ソフトに熟達するのは、さらに後のことになる。

 

ただ、それでも算数のレジュメは色々作っていたのではないかと思う。初期のころに作ったレジュメは今はほとんどない。割合の導入には、教材会社のものを使っていた。私が自己の割合指導法を完成させたのは、さらに後のことである。

このときの受検の指導は、竹の会伝統の過去問指導法であった。

適性過去問に限らず、私立の過去問も昔ながらにコピーして使用した。この時の指導法は, 本当に竹の会創設の時代から、私が得意としてきた過去問コピーを年度単位にコピーしてやらせる方法であった。

その後、レジュメ制作技術が向上し、2年目(平成19年)の指導では、レジュメ指導を中心にした。伝統の過去問指導法をとらなかったのは、冒険であった。

結局、何人かいた小6のうち合格したのは桜修館に合格した男子1人だけであった。私の指導法が過去問コピーからレジュメへの移行期にあったことが、災いしたのかとかなりショックだった。

その次の年(平成20年)はまともな受検生がおらず、私はレジュメ指導の研究に埋没することができた。約1年の空白の期間に、私は現在の竹の会のレジュメ指導を完成させた。

そのレジュメ指導で育った子たちの受検、が本年(平成22年)の受検であった。今のレジュメ指導は、レジュメの精緻さと伝統の過去問指導法をも取り入れた完璧な指導システムとなっている。

そういうわけで、平成18年の話しに戻りますが、九段志望の男子はパスポート(注釈:竹の会指導時間の全てに参加できるコース)でしたので、4時~9時までいつもいました。東大附属志望の双子は、当時の基本コースでしたので、2時間しかいないということで、すぐに帰ってしまうわけで、いつもポツンとその男子( I君)ひとりいたわけです。

 

私は過去問のコピーしたものを解かせながら、よく彼に話しかけたものです。

なにしろ中3を除いてはほかにだれもいない。彼1人だけなものですから、色々話すわけです。彼は作文が苦手で、1時間も2時間も書けないでいたことがよくありました。私は辛抱強く待ったものです。

時には、私の書いた作文を読ませたりしました。というか、あまりに書けないので、私の書いた作文を暗記するくらいまで読みこませたというのが真実でした。

私は常々「適性は算数ができれば受かる」と言っていますが、I君は知能が高く、私を十分に満足させました。過去問指導法の具体的な方法は、企業秘密ということでここでは書かないこととしますが、とにかく彼はコピー過去問でできた電話帳のような冊子と格闘したわけです。まあ, その当時としては、思いつくことをいろいろやりましたが、とにかく受検生は3人だけでした。

 

双子の姉妹は、まじめで休むことはなくきちんきちんと言われたことをやっていたのが印象に残っています。

直前の1月のことでしたか、私が九段の倍率を聞くと、I君が「11倍です」と答えました。私は一瞬言葉を失いましたが、「君は普段の力を出せば合格できる。いいか、決して難問には手を出すな。そんな時間があったら、易しい基本問題を確実にしろ。基本問題をいい加減に解いて落とす方がまずいのだ」といった趣旨のことを、こんこんと説いた記憶があります。

彼は本番では、難問を2問だったか3問だったか白紙で出してきました。

彼の父上は、それを聞いて「これは落ちた」と思ったそうです。

私は彼については、比較的早い段階で父上に「合格する可能性が高い」と言いきってきましたから、心穏やかならずでした。

受検後。

双子の姉妹が見事に合格したのです。

そしてI君から、「合格しました」と興奮した声が飛び込んできたのです。

 

なんとこの公立中高一貫校初の指導の年に、3人いた子全員が合格を果たしたのです。

なんという快挙でしょうか。

しかし、それから私は公立中高一貫校の本当の難しさを知ることとなるのです。平成21年の空白の期間、私はどれだけ苦しみ、どれだけ公立中高一貫校について研究に没頭してきたことでしょうか。

3年後の平成22年、私は、この平成19年の時のように、興奮気味に受検生を送り出しました。そして、先に述べたI君に説いた言葉を繰り返したのです。

マカロニ・ウエスタンの名曲に「ガンマンの祈り」というもの悲しい曲があります。私は夕日が沈みかかり、あたりに次第に闇がせまらんとする荒野にひとり頭を垂れて祈りを捧げるガンマンの心境でした。

そっと祈るだけでした。子どもたちを送り出した後の、なんとも言いようのない哀しさに、私はじっと耐えるように、独り祈りを捧げました。

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