画像
都立中高一貫校/都立高校トップ校 受験専門 渋谷で創立30年

ドーナツ化現象

2022.09.27

 

◎ドーナツ化現象
 範囲を広げすぎると核となる部分が、空洞化し、広がった外延が、痩せ細ったドーナツのようになる現象。空洞化した部分は、基幹の部分であり、本来外延を支える土台となるはずのものである。応用とか、新しい知識とか、過去問とか、目新しい、気を引くものを追いかけてきた結果、もたらされる、最悪の状態と言える。
 基本を怠り、いいと言われる参考書を何冊も買い漁り、中途半端にしかやらないで、乗り換える。こういう人は、ほかにもっと何かいいものがあるはずだ、という生来怠惰に根ざす楽観力というか、そういう意味での向上心というものはあるのだと思う。資格試験だと、完全網羅を追求するから、それこそどこそこのいいと言われる予備校の講座を次から次に申し込み、テキストを手に入れる。かけたカネはいったいどのくらいになるのやら。
 完全網羅主義者というのは、実は、準備ばかりして、実行しない人なのではないか。完全網羅ではないから、実行には進まない、わけである。おそらく実行に進むことはない。手段の完全に余念がないからである。そうなのだ。目的よりも手段を偏重する人たちだ。
 基本か、応用か。
 本来、基本を完全にしたら、応用へと進む手順なのであろうが、ことはそれほど簡単ではない。
 基本を完全にするというが、人間の忘却能力の凄まじさを考えたら、基本はいつも眺めておかなければならない相談であり、基本から距離、時間を置くことは、できないのではなかろうか。必然、応用に手を出すとしても、かなり限られることになる。なにしろ常にドーナツ化と戦わなければならないから。人間の忘却能力の疑いのない威力を考えればとても、外延を広げる気にはなれない。
 ここで、人間の忘却能力を考えた場合の理想的な読み方について、私の見識を述べることをお許しいただきたい。
 眺める読み方
 最近、本の読み方について、思うことが多い。本という場合、法律とか、会計とか、政治とか、の専門書を想定してみたい。政治の専門書とは、巷に溢れる下らない政治に「関する」三文小説ならぬ、政治駄文ではない。私が念頭におくのは、丸山眞男「現代政治の思想と行動」のような類である。
 こういう本を読むとき、間違っても、1ページから丁寧に最後まで読むというスタイルは取るべきではない、と思う。
 後で詳しく書くが、井上ひさしは、司馬遼太郎が、「眺める」ように速読したのを目の当たりにして、自分にはとてもできない、いや自分は、まず最初からゆっくりと精読して、その本の設定というか、登場する人物なり、概念なり、の定義を頭に入れてから、読んでいく、やり方が結局は速読に繋がる、というようなことを述べている。
 井上の言うことはよくわかる。読もうとする本のキィーワードについて、まず定義を確認しておくというのは、そのとおりだと思う。
 ただ私が最近開眼したのは、難解と言われる書物の「眺める」読み方である。「眺める」というのは、活字を追わない、字を実は読んでいない、というニュアンスである。まさに、景色を「眺める」と同義である。写真的というか、全体を画像のように焼き付ける、読み方である。
 サッと映像を頭に流すイメージである。とりあえず「映像読み」とでも呼んでおこう。映像だから、何度も頭に流さなければ、脳内には焼き付けられない。いや実は映像だからこそ脳内に容易に焼き付けられる、のではないか。これが、文章を假令(たとえ)論理という定着装置を使おうとも容易に記憶として定着できないのと対照をなす。
 人間の脳は、映像には、比較的抵抗しないのだ。すんなりと遺る。忘却能力の横暴さにも屈しないのは、論理的記憶が左脳の司るところであり、映像記憶が右脳の司るところであるから、と思われる。映像読みは、右脳読みと言い換えてもいい。あるいは「眺める」読み方と呼んでもいい。「眺める」というのは、ただ「眺める」のである。そこには、意識の働きは一切ない。ただボーッと眺めているのであるから。本を映像として読む。
 この画期的読み方は、最近私が開眼したものだが、実は、井上ひさしの「本の運命」という本の中で、司馬遼太郎のことを書いている。「僕は、司馬さんが本を読んでるところを見たことがありますけど、あの方は、『写真読み」です。文字を読むんじゃなくて、頭の中に写している。司馬さんは、二十分ぐらい、ゆっくりめくって見てらっしゃる。読んでるのは読んでるんですけど、視線が上下に動いたりしないんですよね。それで、「ハイわかりました。これは大事な本でしょうからお返しします」とおっしゃって、その場で返していただいた。後日、東慶寺の話が出たとき、本の中身を全部覚えてらっしゃるんですね。この人は、頭の中で写真を撮ってるに違いないと、びっくりしました。
注 東慶寺とは、鎌倉にある「縁切寺」として有名なお寺です。その東慶寺について、郷土史研究家がガリ版刷りでいい本を出した。その本の話しです。
 

 考えてみれば、私は、無意識の裡に、右脳読みをしていたのではないか。10回も回すとページをめくれば、そのページ全体を一瞬見る、この時、文章を読むという意識は全くなく、映像として見ていたのではないか。
 ただ今、私が映像読みというとき、これはもう「読む」という意識はなく、最初から「映像」として見ているのだ。一瞬にして映像を見る。だから全体を見る。部分の字を読まないから。ただ映像は、ワンカット、ワンカットと、スポットを照らすことはある。また文字を読まないと言っても、一瞬見た映像の中の文字を一瞬で意味翻訳している。
 映像読みを基本スタンスとすると、本は最初から読む理由は全くない。適当にページをめくり、一瞬の映像を写す。一瞬にして映像を脳裏に焼き付ける。そういう一瞬の焼き付けこそが、実は映像読みの核心ではないか。このとき映像の全体を一瞬にして画像解析する、そういうことなのではないか、と思う。
 この映像読みは、受験勉強の一つ方法の提起ととっていただきたい。事実私はこの方法で専門書を読む実験をしている。私の読む専門書と言えば、法律書になってしまうが、一般の方にはもちろん勧められない。なぜなら私は専門書の入口である、法律専門用語に精通しているからである。既に読む基盤がある。その上で、映像読みをするのだから、全くの素人がやるのとは事情が異なる。
 受験生の皆さんは、まず基本をしっかり定着させて、ということになる。
 映像読みの深化
 一瞬の映像をすぐ想い出すこと、フラッシュした映像を瞬間で再映像化する、ということです。時間にして、数秒かからない、程度と考えてください。理想は、一秒映像、一秒再映像です。
 とにかくページをめくることが優先です。ページ選びは、任意、アトランダムでいい。ただし、気になるところが優先。読む前に目次をサラリと見るくせをつけておけば、気になるところがインプットされる。

 

ページトップへ