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言い換える魔術

2022.09.20

 

 

言い換える魔術
 読んでも「わけがわからん」
 なら意味がわかるまで読む
 読むとき、文章をそのまま理解するのではなくて、必ず「要はこういうことか‼️」と言い換える作業をする。理解するとは、言い換える、というフィルターを通して、頭に格納することである、と言っていい。
 的を射た、素晴らしい言い換えほど、その理解の深さが、見て取れる。うまい語呂合わせが物事の本質を突くが如し。言い換えというのは、いや言い換えの妙というのは、どれだけ深く、本質を理解したか、にかかる。
 ごちゃごちゃ書いてあるけど、「要はこういうことかな‼️」と簡単に言い換えて頭に入れるのだ。間違っても文章そのままの言い回しを覚えてはならない。
 読み方の極意‼️
 テキストは、「眺める」、まるで風景を眺めるように「眺める」のが、極意である。「める」、つまり一瞬見るという感じである。別に、「理解しよう」とか、「覚えよう」とか、いう意思は働かない。眺めるだけだから。そのページの滞在時間は、30秒もかからない程度。コツは、そのページの「知っている」知識をサラリと読む、それがそのページに対する和性を作るから。眺めるとは、読み飛ばすと同義語である。高速回転で回すのが、この読み方の一つの特徴である。読んでみたいと思うところを見たらサッと読む。そしてページをめくる。眺めながら親和性を作る。それが目的なのだから。7回、8回と高速回転で回す。
 ノートは取るな‼️
 時間の節約である。というか時間の無駄である。
 本を増やすな‼️
 というか逆に減らせ‼️
 知識の範囲を広げることで起きる重篤な事態‼️
 心配症が裏目に出る。
 今やっているものより、説明がわかりやすいとか、知識が網羅されているとか、とにかく心惹かれる本に出会うと、心配だから、よりいいものだから、と買ってしまう。これはまずい。本が増えれば増えるほどやる回数は減る。時間は限られているから。本来固めるべき基本が手薄になっても新しいものに手を出すのか、である。
 人間の忘却曲線は、一気に下降する。新しい本に次から次に手を出せば、核となる基本のエリアの知識はどんどん消えていく。薄くなりやがては空洞となる。これは知識のドーナツ化現とでも言うべき事態である。もちろん本末転倒の事態である。
 新しい本を増やすことは、本来やるべき基本をどんどん手薄にして、空洞化することにほかならず、自分の脳をドーナツ化しているのだ、ということに気がつかねばならない。
 試験というのは、限られた時間と人間が本来持つ忘却曲線故にのドーナツ化現象を回避することを第一としなければならない。
 限られた本を何回も高速回転させる、ということが、鉄則である。「限られた時間」ゆえにの「限られた本」なのである。忘却という人間の生まれながらの限界ゆえにの繰り返しなのである。
 この基本の鉄則から、試験の勉強は、必然限られたものとなる。
 時間の節約と忘却の回避こそが、試験の絶対の鉄則となる。
 原子力発電所に擬えて時間節約所、忘却回避所の二大施設が稼働していると前提したほうがいい。
 何かを行動しようとするとき、時間節約所と忘却回避所に相談してからの話しとすることだ。
 部活、その他の遊興は、時間の浪費であり、時間節約の真逆に位置するものである。また当然忘却回避の真向否定となる。
 中学に限って言えば、部活は、時間節約しなければとても間に合わない入試というものを、自覚的に放棄する行為にほかならない。つまり部活をやる人の99%は入試を捨てている、と考えて間違いない。本人の意思がそうでなくても、必然そうなる選択である。
 さらに忘却回避の点からも部活は、もともと忘却する知識があったかも疑問であるが、とにかく忘却どころか、知識の空洞化が促進されることは間違いない。ドーナツ化現象どころか、脳の空洞化が進むことになろう。
 高校入試を誤解した親子が多過ぎる。考えてもみてほしい。中3になって4月から中3の履修範囲の勉強を始めてどうなるのか。区立中の99%は、教科書を終わらせることができるかも危うい。高校入試と学校授業の較差、都立と私立難関との較差、共通問題と独自問題の較差がもたらす誤算。中3履修事項と中2までの履修事項の較差が優等生を狂わせる。
 4月スタートで6月、7月には、もう模擬が始まる。模擬は、中学全範囲が前提である。理科、社会は、中2で仕上がっていなければどうにもならない。ハイレベルの英語長文問題、高度の数学の問題に、4月から7月までの僅か3、4か月でどうかなるとでも思っているのであろうか。すべては後の祭りである。
 試験勉強に余裕などない。のんびりと部活をやって時間を湯水のように捨てることが、少しも高校入試に資することはないことは誰が考えても分かりそうなことだと思うが、多くの部活に夢中の親子にはわからないのである。
 部活やって高校入試に失敗して、部活は何か意味があったのか。ここで失敗とは、上位都立に行けなかったこと、言い方を変えれば、低偏差値私立に単願推薦、つまり無試験で入ったこと、ということである。部活やって、上位都立には入れなくて、低偏差値私立に行くということは、質の悪い、生徒の柄の悪い高校で、染まるということである。染まりきれなくて中途退学が多いのもこの手の高校の特徴である。いや部活に熱中してきた生徒といっても、中には頭の良い子もいるわけで、そういう子が、低偏差値の高校にいって、不完全燃焼することは目に見えている。なにしろ分数の計算もできない、三人称も知らない、そういう生徒の集まる学校なのであるから。やり直そうとした生徒も知っている。都立を再受験する。つまり浪人である。しかし、都立再受験は甘くない。内申は悪いから私立に行ったのであるから、浪人しても上位都立など行けるわけもない。どうしても低偏差値都立になる。しかし、高校中退して都立に行ける生徒は数えるほどである。城北から戸山というのは知っている。ただし、編入試験である。再受験ではない。
 部活で高校入試に失敗した生徒の未来はヘタをすると最底辺の人生の道かもしれないのである。
 すべては高校入試を甘く見たことに帰着する。子も部活で人生満喫ならそれを認める親もそれまでの見識ということである。

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