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都立中高一貫校/都立高校トップ校 受験専門 渋谷で創立30年

塾は指導のプロか

2022.12.10

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わたしはプロである‼️  

 プロとは、この子を受からせようと誓い、そのために自分の生命をかける人のことだ。生命をかけるとは、自分の全経験をかけて受からせる行動をとることをいう。その過程で死すとも可なりとする覚悟をいう。  この子だけは、受からなければならない、受からないなんてあってはならない、そういう気持ちにさせる子がいる。「受かりたい」という強い思いを胸に抱き、どんな努力も怠らず、病気以外は決して休むことなく、ひたすら与えられた課題に取り組む姿勢を日々見てきた・・・、わたしの心に切なる気持ちが生まれる。言葉の端々に「敬い」の心を感じとるとき、わたしの心に「信頼の芽」「敬愛の念」が生まれる。「この子の悲しい顔は見たくない」「涙は見たくない」とわたしの心に強い決意が生まれる。わたしを信頼して、敬愛してくれる、そういう子が落ちるなどあってはならない。プロとは、ひとたび決意をしたら何が何でも目的を果たす、そのためには、生活のすべてを犠牲にすることを厭わない、根底のところでは、死を賭している、わたしはそう理解している。

 一般に、プロを自称する人が、難関大学を出て、豊富な経験を誇り、有名進学塾で講師歴を積み、合格実績を誇り、高い報酬を当然とするなどということを喧伝することは、知っています。そうなると、わたしなどはとてもプロなどと言えないと思います。わたしなどは、広告チラシなどで、そういう経歴を読むと何か胡散臭さを感じとってしまうのですが、これもひとつの職業病かもしれません。長い間、塾という仕事をしてくると、塾の裏側というものが見えてしまうので、眉唾、嘘というものが透けて見えてしまうのです。実はプロという人ほど眉唾なのかな、と思う。  プロと言えども、成功するかは、子ども次第です。どんな子でも成功するということではない。まず、才能がなければ、指導は成立しない。  悲しいことだが、子どもには、もって生まれた能力というものがある。能力の低い者に何を期待するか。経験豊富なプロならそんなことわかっているはずでしょ。プロと自称しても、子どもにそれだけの能力がなければ何も教えられないのだ。プロがどんな経歴を誇っても、そんなものは何の役に立たない。有名進学塾で天才、秀才ばかりを教えてきたのはいいが、それがどんな子でも教えられるということにはならない。講師歴なんて関係ないのだ。  天才、秀才だけ教えられれば、こんな楽なことはない。大手進学塾は、選抜試験を勝ち抜いてきた者が集まるから、そういう苦労はない。わたしは原石の中から光る石を見つけて、能力を開花させてきた。最初から天才が来たわけではない。だから、わたしは、玉石混交の中から玉を見つけることに長けている。また才能的には、中の上の子なら、これは訓練すれば、どこまでいくか、という期待をもっている。そういう子がその能力を開花させることなく潰されるのが、大手である。中程度の子なら、受験は無理である。伸び代も、知れている。中の下なら指導は最低限の基本を理解させるだけで終わることになる。世の中にはそれさえもできない子だっているのだ。中学生で、オール1という子を教えたことがあるが、こういう子に正負の数の負の概念を理解させることがどれだけ大変なことか。さらに文字式の文字というものが、数でないということで、たちまち拒絶されてしまうのだ。私はかつてそういう子ばかりがやってきて、正直参ったことがある。最初一人だけということでみたのだが、その子が方程式まで解けるようになったら、次々とオファーがくる。なにか、そういう子専門の塾だという評判が独り歩きして、私はもともと難関高校の入試が専門で、そんなことはない、とお断りするのに神経を消耗してしまったことがある。  

 子どもというのは、本当に能力の差は微妙な段階をなして、多彩であり、冷静に判断して、これは、無理という能力段階の子もいる。考えて解き進めていけているか、が一つのバロメーターになると思うが、受検は、7、8倍の難関であり、普通に考えても、誰もが受かる試験ではない。  能力的に無理というのは、高校入試でも、うまくいくかわからない、という話しにもなり、前途は多難といえよう。  だから、わたしが、「高校入試を考えた方がいい」と助言するのは、高校入試で成功する可能性がある場合の話しである。高校入試で勝負したらと言えない子には何も言わない。また模試で既に結果が見えてるのに、敢えて受検しようという親子には、それも人生の一つの通る道なのかと思い何も言わないことにしている。ただ竹の会では、高校入試で成功する見通しもないのに、高校入試で勝負したらと進めることはない。中学は、定期試験があるから、定期試験でさえもとれないという生徒が、高校受験で成功するはずもなく、わたしがとやかく言う前に、自主退塾してくれるから、つまり、見通しのない子は、早くて中1までに、遅くても中2のいつかは消えていくから、手間は省ける仕組みになっている。

 竹の会では高校受験をする生徒は最後は、一人二人になることになっている。近年は3人いたことはない。これと違って都立中受検は、とにかく成績は悪くても受けるという親子がほとんどであり、宝くじにあたる感覚なのかもしれない。  大手のように、受かる見込みのない子でも、「受検したい」と、申し込みがあれば型通りの授業、テキスト、模試、オプション講習などを買わせて、それは商売としてやっているので、その子の能力からは無理だからと断ることは決してない。そういう大手をプロと言うのは、それ専門にやっているから、というだけの話しであり、商売繁盛を目論んでいるだけの企業をプロと崇める理由がわたしにはさっぱりわからない。  受験、受検というのは、自己責任が前提である。大手に通って落ちる人は合格した人の何十倍以上いるわけだから、そういう人たちが落ちたからといって大手の責任を訴訟で訴えたなんて話しは聞いたことはない。受かるかどうかは、誰にもわからない。能力、努力、生活姿勢、家庭の事情、その他塾がコントロールできない事情が山ほどあるのに、落ちたら塾の責任は?などという人がいるのは驚きだ。

 人生というのは、徹底して自己責任なのである。なにを選択するか、は個人の自由であり、生まれながらの能力も自己が責任とるしかない。もちろん怠けた結果とか、旅行、趣味、習い事、稽古事の結果とか、すべて自己責任である。人生というのは、自分の人生、家族の人生も、自己責任である。失敗したらその結果を甘受するのはすべて自分である。それが人生、社会の掟であり、厳しさである。  わたしは、そういうことを当然の前提として、プロの意識を語っているのである。習い事、稽古事、講習不参加等々で落ちたのならそれは自己責任ですよ、と言っているだけです。もちろんそれは、つまりどうするかは、各人各家庭の自由である。自由というのは、その前提に責任をとるということがあるからです。そうです。すべて自己責任です。  だからわたしが訴えているのは、プロとして、合格するには、こうした方がいいですよ、と言っているだけです。わたしが、どうこうできることではないからです。  

 昨今の若い親には、自己責任がわかっていない人も多い。何か保護を受けるという意識でもあるのだろうか。大手に惹かれるのは、大手=大きい=安心=保護 という勝手なイメージが行動基準になっているような気さえする。つまり、思考の結果なんてない。  ご存知のように合格する人の8倍の人が落ちているのである。その落ちた人は、ほとんどが区立中学に進むことになる。そして自己責任ということがわかっていない人たちは、今度は、そのほとんどが部活で勉強を二の次にする。自己責任の責任の意味がわかっていないのだ。勉強しなければ高校入試で篩い落とされ、底辺を這う人生を歩む、それが責任の意味である。毎年区立中学生の8割は、底辺に流れる。まともな都立に行けるのは、5%ほどである。ただ一つだけ朗報もある。都立中高一貫校と進学重点校(高校)を並べてみると、その進学実績の差は一目瞭然となる。、難関国公立大学、早慶合格者の数は、進学重点校において顕著である。  高校入試でも、開成、筑駒、幕張などの私立、日比谷、西、国立、戸山、青山、新宿、小山台などに行ける人は選ばれた人である。そういう都立に行けるなら、今、高校入試で勝負した方がずっと楽だ。竹の会は、そういう中学生ばかりだった。27年28年戸山合格者は、それぞれ両国、桜修館を落ちて、高校入試で復活した子たちである。両国に落ちた子は、戸山に進み、一橋大学に合格している。わたしは、プロの目から見て、高校入試を請け負っている。大手のように、商売本位でプロの旗を振らない。責任を持てる生徒を選んでいる。この責任は、先の自己責任のそれとは意味が異なる。これを捉えて責任云々という人はただのクレーマーだから、取り合わないに限る。プロの責任とは、受からせるために、自分の生活のすべてを捧げるという意味である。ただそれとして、本人の事情、家庭の事情で勉強が中断、回避されるなら、それは自己責任ですよ、と言っているだけです。責任が取れないとは、わたしの生活をかけて合格に導くことはできません、という意味です。    

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