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小学校という格差封印装置

2023.01.21

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小学校という格差封印装置

 高校受験までの「ふつう」な中学生活が、将来の学歴格差をオブラートに隠す‼️

 小学入学以後に確認される格差は、義務教育期間にゆっくりと拡大していく。それはもっとも端的には学習時間の格差として表れる。小学校では、まず勉強する者と全く勉強に関心を持たない者とに分かれる。それはもちろん親の学歴が如実に反映されたものである。共稼ぎ世帯、母子家庭では、親が子どもの教育にまで細かく気を配れないということもある。親の教育関心度が薄いと小学高学年まで塾に行かせることもなく過ごすことも普通である。こういう層が、将来的には、格差社会の低層に属することになるのは予測に難くない。
 さて、小学でも学年が上がるにつれて学力格差は次第に顕在化する。しかし、学力格差が存在しているにもかかわらず、小学のカリキュラム内容が薄く難易度が低いために表面化しない。、この学力格差というタブーに触れないという暗黙のルールが教師、親を封じていることは想像に難くない。例えば、授業内容が平易であれば言語力に格差があることは認知されないであろう。これは親たちがよく誤解することだが、「わかりやすい」塾が「いい塾だ」と信じて疑わない、浅はかな親の意見をよく耳にする。しかし、特に、大手塾は、小5までは、易しい内容にして少々発達に難ある子でも理解できるカリキュラムを組んでいる。それが「わかりやすい」の正体であり、親は「うちの子はついていっている」「わかっている」という安心感をもたらせられる。土曜テストや日曜テストの成績もいい、と好印象を持っている親が多い。しかし、平易な内容では、学力は何もよくならない。最初と何も変わらない。だから小6になって、実力が試される段階になって、初めて我が子の力を知り、不安を募らせる、真剣に転塾を考え始める、ということになる。竹の会に、よくこの時期に転塾の問い合わせが来るのは、そのことをよく物語っている。そういう子ら、つまり大手に1年、2年といた子が、計算にほとんど無力なこと、割合を全くわかっていないこと、が、驚くほどに共通していた。その中でも、もともと頭のいい子は、親子でもっと早く竹の会に来ていれば、と後悔するのであるが、これは竹の会に大手から来た子たちが一様に言ってきたお決まりのセリフである。
 さて、話しは続く。小学校の内申書は、高校受験結果を左右する中学校の内申書とは違う。小学校では、ワークテスト、通知表はほとんど力を持たないのだ。教師と児童との私的な「やりとり」の記録に過ぎない。内申が意味を持つのは、受検のときだけである。都立中では、内申は、得点化され、合否に影響する。ただここでは、学力格差の話しをしているのだから、力を持たないでいいのである。
 小学校は、自らの学力的な位置を能力差として児童に明示しないから、格差は潜伏したまま存在そのものがまるでないかのように、長閑な農村風景が続く。
こうして格差は、特に小学校段階では誰の目にも映るほど明確ではない。家庭学習をほとんどしない子やその親からすれば、高「親学歴」家庭の児童が塾や家庭でどれぐらい勉強しているかはわからないし、関心もないであろう。
 そういう親というのは、自分がどう育てられたかを基準に子育てをしているのであれば、そんな「当たり前」の子育てに疑念が呈されることはない。
 選抜(ここでは高校入試をさす)まで年月がありカリキュラム量も多くなく順序付けを伴うテストがない状態では、「生まれ」による格差は可視化されづらいのである。そうなると、全員に「平等な」機会が与えられたという見做しが成立してしまい、結果は自己責任と理解されてしまう。
 中学校生活は、小学校ではなかなか可視化されない学力格差が「選抜」という現実が近づくにつれ炙り出され顕在化する過程である。
 こうして、中学になると、これまで表面上はあたかも「ない」かのような学力格差が、突如として表面化する。親たちは子どもたちのもたらすテスト情報を間断なく目にすることとなる。ここで流石に自己の位置を知ることになる。小学入学と同時に広がり始めた学力格差は、もはや目に見える形で、人間を少数の上級層と多数の下級層に完全に篩い分ける。こうして人は生まれながらにして貧富の差に分けられるのである。
 私たちを幸福にするのは、勉強することである、というのは、わたしたちが、一番よく知っていることである。しかし、親の学歴格差がそのままに子の学歴格差となる社会に私たちは生きている。勉強した者、勉強のできる者が勝ちという社会に生きている。そして勉強する環境を与えてくれるのは、親の学歴環境、資力環境であり、人間は生まれながらにして、その差別を受けなければならない。福沢諭吉の平等は、機会の平等であり、わたしたちは、勉強する機会に恵まれたか否かでまるで違う人生を歩むことになる。つまり、機会の平等は、そもそも「ない」、空想上の平等である。それは日本国憲法第14条の保障する法の下の平等がお題目であることと同じである。ただし、憲法は国家に課された義務であり、社会制度を規律するものではない。

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