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🎵桜修館🎵都立青山🎵開成🎵筑駒🎵その刹那に訪れる二の矢への無意識の依存が一の矢の切実な集中を鈍らせる‼️

2023.07.19

🎵その刹那に訪れる二の矢への無意識の依存が一の矢の切実な集中を鈍らせる‼️
「諸矢を手挟みて的に向かう」ことなかれ‼️
徒然草第九十二段 
 或人、弓射る事を習ふに、諸矢をたばさみて的に向ふ。師の云はく、「初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、始めの矢に等閑の心あり。毎度、たゞ、得失なく、この一矢に定むべしと思へ」と云ふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。懈怠の心、みづから知らずといへども、師これを知る。この戒め、万事にわたるべし。
 道を学する人、夕には朝あらん事を思ひ、朝には夕あらん事を思ひて、重ねてねんごろに修せんことを期す。況んや、一刹那の中において、懈怠の心ある事を知らんや。何ぞ、たゞ今の一念において、直ちにする事の甚だ難き。

 刹那、本当に刹那の逡巡が身を滅ぼすところをわたしは幾度となく目撃してきたし、またわたし自身も懈怠の性格からか多くの機会が逸するのを見過ごしてきた。
 刹那の逡巡、なぜ人間にはそういう躊躇いがしかも無意識世界から突如として一瞬に顔を擡(もた)げるのだろう、これが贄(にえ)切らない、迷いの中に身を置く、自信のない、自信を持てない、人間の姿なのであろうか。
 一つがだめなときのために、予備を用意して臨む、これは普通に考えたら問題ない知恵なのかと思う。 
 しかし、この兼好法師の教訓は、そうではない。勝負を決めなければならない時がある。二の矢も可能なのだろう。しかし、一の矢を外した人は二の矢に託す刹那の逡巡がもたらす二の矢をも外すに違いないという懈怠もある。サッカーのPK戦は自分が外しても次があるからという懈怠が刹那でも過(よ)ぎればどうなのか。
 お気に入りの鞄は同じものをもう一つ買っておくというのはどうなのか。
 一つが傷ついてももう一つあるという心理は確かに人間にはなにか安心をもたらす。これはまた状況が少し違うように思う。ただもう一つあるという心理は今の一つをどこか粗末に扱うところがないでもない。一つしかないというのは、どこか悲壮感がある。一つしかないから大切にする、それはある。
 これは、試験に臨む心について、何かすごいことを言っているのではないか、そう思って教室にある本の中から徒然草を探したら3点ほど見つけた。その中で岩波文庫ワイド版に載っていた。あと橋本武の解説版にも取り上げられていたが、現代語訳と謳ってピントが来ない意訳がされていて、興醒めだった。特に、大学入試の第二志望はいいのではないか、とコメントしてたのが、あまりにも乱暴な言い草で白けた。この程度の分析しかできないのなら、中身もそうなのだろうと読む気が失せた。それで註釈付の岩波をこれから愛読したい。そう思います。
 次の一手があると思うと、一瞬でも心が緩む。一度外してももう一度チャンスがあると思うと、気も緩む。ただ二の矢は飽くまでも同じ的を射るのだ。大学受験の第二、第三の矢は的が明らかに違う。普通は的は当てやすくなる。。達成感も格段に落ちる。
 ゴルフの雌雄を決するパットはどうか。これにはもともと二の矢は観念されない。もし外しがちな理由を求めるとしたら、刹那に過(よ)ぎる失敗したときの恐怖か、それとも成功したときの歓喜か、いずれにしても刹那に過ぎる、あの忌まわしい懈怠、心の揺れであろうか。
 人間とは弱いものである。刹那に入り込む気の緩み、雑念、これは防ぎきれないもの。なぜなら人間という迷いに満ちた存在が針の穴でも見つけたら入り込む。となると人間は迷いという気を無意識に封じ込めてはいるものの、それは隙さえあれば、意識の中に入り込む二の矢があると思うと、刹那一の矢への真摯ない思いが消える。消えた刹那、迷いが過ぎる。
人間というのは、迷いを封じ込めた袋をいつも抱えていて、何かの刹那、その袋の口が一瞬開く!おそらく、意識の中の不安が迷い袋の鍵になっているのではないか。不安の度に口が開くのではないか。
 迷いが失敗に導く!
 ただし、迷いのない人には、浅いゆえの自信というか、偽(ぎ)自信がある。習い事、稽古事に時間を自由に使う人は、その意味の自分への買い被(かぶ)りがある。それでも「受かる」と信じているところに余人のつけ入り難い、新興宗教の信者にも似た、ある意味軽文明に洗脳された十代の少女少年の強情さが垣間見える。サッカーや野球に大半の時間を使いながら、都立中、日比谷にさえ受かるつもりの親がいるのには驚かされる。わたしの想定しうる合格手順には「ない」ものである。都立中を「受ける」と言いながら、習い事、稽古事はこれまで通りという認識が、受検の素養をおよそ持ち合わせていない、ということの表明であり、合格することは結局「ない」。不合格になって、塾を批判するのはお門違いで、そもそもの受験観そのものが「ない」ということの方に気づかなければ、また同じ轍(てつ)を踏むことになろう。喉(のど)元過ぎれば熱さを忘れる、学ばない人たちではある。
🎵知らないのに適当に選ぶの悪癖
 知らないなら、選べないはず。しかし、選択問題は、とにかく「選べる」からまぐれがある。それでよく考えもしないで、選ぶ受験生が少なくないのではないか、と思う。
 なんの根拠もなく、反応的に選ぶ、場当たり的な判断には何の進歩も学ぶべきこともない。
 理科や社会は、国語と違ってその場で考えて選ぶというよりも予め覚えていたかどうかがなのではなくて、「知らない→推測する」というケースの多い科目である。
そもそもの基本の知識はそのためにある。たった一言の知識が、推理の鍵になることはよくある。理科、社会のテキストを読むとき、この知識は、何か分岐点の判断をするときの、推理の重要な鍵になる、ということを値踏みしながら読むことである。値踏みと申しましたが知識は、あるテーマに関して述べられるものの中で意味を持つのであり、その文脈の中での使われ方こそ大切であり、その流れの中で、その知識が次の判断の拠り所になるものか、あるいは、その知識が別のある知識の前提関係にあるものか、そういうところを押さえておくことが、理科なり、社会なりの勉強ということです。
 理科の計算問題も同じである。どういう流れの中で、計算の必要が生じるのか、どういう計算が求められるのか、計算することによって何が明らかになるのか、そういうことを考えて、学ばなければならない。

 すべて自分が何をやっているのか,わかっての話である。
 知識というものが、独立して存在すると考えて、ただ覚えるというのでは、その知識がどういう脈絡の中で、出現するのか、考えないで覚えるのは、虚しい努力に終わることになる。
 いいですか。勉強というのは、言葉がバラバラに独立してあるわけではない。必ず「関係性」によって繋がっているのです。
 これは、国語の読解においても、同じことです。国語が苦手の人というのはいます。選択肢問題なんか、必ず外すという生徒がいます。その原因はおそらく言葉というものが「関係性」で語られるものだということがわかっていない。国語の問題は、多くは、棒線部について「どういうことか」と尋ねるものが、ほとんどです。問いの形式は、選択問題であったり、説明問題であったり、穴埋め問題であったりと、区々ですが、いずれにしても、棒線部を解明しなければどうにもなりません。このとき、棒線部が、文の一部である場合は、思考の対象をその傍線部を含む文全体に広げなければなりません。その上で、その文に指示語があれば、その指す部分を含む文全体がまた思考対象として広がります。なんのために思考対象を広げるのか、というと、「関係性」を読み解くためです。おそらく棒線部は、関係性のある文の中で、言い換えられて存在する、であろう。それが言い換えなのか、結局同じことを述べているのかどうか、ということです。ほとんど似つかわない文章にこれが言い換えと言えるのかとおそらく判別不能なことも多い。

  それでは、近接性、同質性はどのようにして判別するのか。それは、その関係性ある文章とされるものが、文中の言葉で定義されているから、その定義によれば、と判断することになる。
 一般的な、言葉の、文章の、国語的意義からとても出てこない、文章でそういうものとして、定義されているから、同じことを言い換えたものとわかるのです。
 こうして国語の問題の謎解きの方法は、既にして明らかである。わたしたちは、棒線部を文の中の部分として、文全体からその関係性を考えなければならない。その上で、関係性判断の対象を文の指示語、前提関係などを手がかりにして、広げていかなければならない。広げる場合、一文単位で広げる。多くは、棒線部を含む文章の、前の文章が関係性のある語を含むことが多いであろう。しかし、そうとは限らない。後の段落の、さらに後の段落ということもある。関係性のある語は、飛んでいることもある。
 わたしたちは、関係性のある、言い換え語を、定義づけた部分を探して、その関係性の近似性を判断するのである。近似性が検証できれば、その関係性をもって答えとすることができる。
 国語の問い方は、決まっている。
 棒線部(たいてい文の一部)の説明を求めるものだ。国語を場当たり的に答えるからできないのだ。「これかな」で選んではダメなのだ。ちゃんと関係性と近接性を確認して選ぶのだ。
 ところが、いくら比べても、どこが近接、近似しているのか、さっぱりわからない、というのが、実際なのではないか。
 これは純粋に国語的意味で対照するからだ。国語の辞書的な意味の近似性はちっともない。むしろ無関係なのではないかとさえ思われる。
 違うのだ。対照の仕方が根本から違うのだ。対象となる文の一部は、それだけとしてあるわけではない。前の方を探して欲しい。必ずその文の一部を定義したところがあるはずである。そうなのだ。わたしたちは、直接関係文を比べてもなんとも判断できないという事態になるのは始めからわかりきったことなのである。比べるのはその関係文の出自たる定義なのだ。定義と照らし合わせて初めてわたしたちは関係文の作為に満ちた意味を知ることになる。そうなのだ、問いの「どういう意味か」は、関係文の定義のところを尋ねているのだ。 
 さて、そろそろ読解の正体というのがわかってきたのではないか。
 比べるべきは概念の定義なのであるということが。わたしたちは「読む」とき、結果としての概念をそのままに国語的意味など探ってはならないのである。その概念がどういう文脈で使われているのか、その概念の定義づけは如何になされているのか、そういうところが力点なのであるということをもういい加減に悟らなければならない。
 🎵わたしの仕事
 生徒、児童が「わからない」と言うところを研究対象にする。わたしはそれぞれの科目の決して専門家ではない。わたしは、子どもたちが困難を感じる科目を私なりに紐解いて、わたしなりに理解し,そういう科目を要約することを仕事とする、そう思っています。噛み砕いて子どもたちに授けるには、わたしがまず理解しなければならない。理解するとは、「要するに」と要約できるほどに、本文を噛み砕けたときです。わからないものを「要するに」とはやれない。
 さて、文章間の近接性判断は実はかなり難解なように思える。それは抽象的文章同士を比べるのが、もともと無理だからである。
 「要するに」の使い方
 文章同士の比較は確かに難しい。それは文章が、それぞれに「何か」を述べているからである。文章というのは、主語と述語からなる。文章の比較は単なら単語比較ではないから比較そのものが成り立たないように思える。
 なら単語比較に持って行けばいいのだ。
 文章を抽象化して、単語に凝縮するのだ。
 ◆実例 早稲田大学入学試験問題
 次の空所には次の4つの文章が入る。正しく文章を並べ変えて入れた場合、3番目に来る文章は、どれか。
 アからエの各文は次の通りである。

(欠文の前の文) 世界は色彩の饗宴である。
 甲(欠文)
 (欠文に続く文)
 芽吹いた若葉がやがて紅葉し、ついには枯れ葉になるように、まさに「土に帰る」というごとく。しかし、混沌は死ではない。
 
 ア めくるめく自然は色のせめぎあいであり、まるで印象派の画家のパレットのように騒がしい。
 イ しかし無数の営み、無数のときめきは移ろう時間の中で混ぜあわされ、大きな時間の中では褐色へと流転する。
 ウ しかしひとたび混ぜあわされると、生気に満ちていた個性の饗宴はたちどころにグレーの混沌へと変転するのである。
 エ 木々の瑞々しさや水面のきらめき、果実の凝縮感に満ちた色合いやめらめらと燃え上がるたき火の色など、僕らはそのひとつひとつをいとしいと思う。
 

R・ヤーコブソンの助言
「文と文とは必ず類似語と近接語で、形の上でも内容的にも繋がっていく。」
注 類似語 似たような言葉・同じ言葉
注 近接語 例示や比喩のようにいつも一緒に使われる言葉
これを二軸理論と言います。
※ボール・ド・マン「テキストのテーマとレーマの相互変換」の原理
テキスト(文章)というのは、「簡単なテーマ:小主題、簡単なまとめのこと)」を掲げては、それをレーマ(説明のこと)として説明し」いくつか「説明したら」またそれを「簡単なテーマ」にまとめあげて、「テーマとレーマの相互変換がテキストの本質だ」
注 レーマ:具体的な説明のこと

早稲田大学の問題の解法
 世界は色彩の饗宴である。→小テーマ
だから、次には、レーマ(具体的な説明)が来ます。
それは、「エ」です。
次に来るのは、まとめとしての「小テーマ」です。「ロ」がこれにあたります。
そこで、もう三番目に来るのは、わかります。なぜなら、「しかし」が二度続くのはおかしいから、三番目は「イ」しかないからです。
ただ、ここでは正統な推理をします。
欠文の続きは、「芽吹いた若葉がやがて紅葉し、ついには枯れ葉になるように、まさに「土に帰る」というごとく。しかし、混沌は死ではない。」です。その内容は小テーマです。ですから、その前の文はレーマのはずです。それが「ハ」です。

 前にも述べたことがありましたが、文章というのは、まあ、あるテーマについて、述べられるものですが、抽象的なことを書いたら、次の文はその説明として、具体的なことを書く、これは文章を書くものとしては当然なことで、自分の書いていることが、抽象的でわかりにくいと思ったら、次はその説明を書く、具体的に分かるように書く、そしてさらに次には、そのまとめみたいな、つまり抽象的なことを書く、そういう流れになっているものです。
 上記に述べられている、小テーマ、レーマ(具体的説明)が交互に現れるというのも、同じことを言っているのだと思います。
 さらに、重要なことがあります。
 隣接する文の関係について、重要なことが述べられています。類似語と近接語が必ずある、ということです。これはかなり重要なことです。
 「棒線の部分について、どういうことか」と言うのが、「問い」の定型ですが、わたしたちは、まず、棒線部分を含めた一文で考えなければならない。その一文に指示語があったり、すれば、当然その指示語に示された部分を含む一文を思考の対象に広げなければならない。指示語がなくても、前後に関係性のある部分があれば、それも含めて思考の対象にしなければならない。そして棒線部分の類似語、近接語を探すのである。これは、類似語、近接語というのが、言い換え語だからである。この言い換え語こそが、「どういうことか」の答えにほかならない。近接語か、類似語かが、一見してわからないこともあろうか、と思われる。抽象語の近接性、類似性は判断しにくいからである。その場合、その近接語ないし類似語と思われる語の由来と思われる定義というものが、あればそれが抽象語の輪郭をはっきりさせるはずである。なぜそのような抽象表現が規定されたのか、そこを問うのである。
 国語の読解とは、このような思考の働きを通して、意味の輪郭を取っていくことをいうのであって、一般の皆さんが、漠然と文章を読んで、問いを読んで、素朴に答えるなどと考えているとしたら、それはそもそも読むということが、わかっていない、ということになります。
 それから読書をするということの意味も、そういう抽象と具体の関係性の認識、というか、文を読むとは、関係性を捉えることにあるのであって、関係性の輪郭を捉えることができれば、いいのである。ここで、輪郭と言いましたのは、抽象的な概念の組み合わせからなる文章というのは、必ずしも、実体的なイメージをもって理解できるとは限らないからです。文章中の定義に従って初めてその関係性を認識できるということも少なくないわけです。
 わたしは、その意味でやはり、筆者が、なんらかの定義付けしているところ、そういうところが、一番大切なところではないか、と思うのです。
 先程の早稲田大学の入試問題なんですけども、小テーマとレーマの言い換えが、それとわからなければ実はどうにもならない。それは、突き詰めれば、やはり語彙力というのが、大きく関わっている、のではないか、思われます。
 語彙力をつけるには、言葉を文章の関係性から理解するのが一番いいと思います。漢検をやるのは、もちろん新しい言葉を覚えるわけで悪いわけがない。やらない人の基礎国語力が破滅的に悪いのは、そもそも国語に全く関わっていないことが多く、漢検がどうのこうのと言うわけではないが、漢検はその出鱈目振りの発現でしかない。
 読書が、語彙を増やすのは間違いない。新聞を読めることは、語彙力と大いに関係する。テレビなどの音声では語彙として定着するのは効果としては薄い。
 わたしの経験からは、やはりいろいろと本を読むことが語彙を増やすのに役に立ったように思います。わたしの場合は、入試問題をたくさん読むことが多かったので、また、その文章を書いた筆者の本を取り寄せて読むということもしますので、やはり、いろんな意味で、本を読む機会があり過ぎるほどあった、ということです。
 語彙を増やすといいますけど、学生みたいに参考書を覚えるような勉強ではなかなか本物の語彙力はつけられないのかな、と思います。
 普段から語彙に関心というか、こだわりをもって書物に接するということが、もっともいいのではないか、と思います。
 語彙力をつけるためには、やはりいい本を通してということになりますか。
 何か、いい本と言いますと、わたしの場合は、どうしても古い本になる。
 好きな文体というのがありまして、そういう作家の本ばかりになる。
 例えば、三島由紀夫、小林秀雄ですかね。
 これという一冊を決めて読み込むことです。何度も何度も読むことです。
 三島由紀夫と言っても評論のほうです。
 小説は語彙は増えるとは思いますが、いわゆる評論の思考の働かせ方の練習にはなりません。
 三島由紀夫は、もともと小説が本業だと思うのですが、評論があまりにも評価が高い。わたしも三島の評論集を持っているくらいに、彼の評論には魅せられています。
 小林秀雄は近年念願の全集を手に入れることができました。評論の大家です。
 全集どころかあらゆる著作シリーズを持っているのが、丸山眞男です。こちらは、政治論文集が中心ですが、とにかく出版されたらすぐ買っていましたのでたいていのものは持っているのかと思います。
 こうして、語彙力をつけるには、語彙集などではなく、一冊の良質の本によるのが一番いいのかと思います。
  

 

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