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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

🎶GIFT/🎶選択問題の悪い癖/🎶竹の会という名前と母のこと/桜修館受検・都立戸山受験・都立小山台受験・女子学院受験など

2023.07.25

🎶GIFT
 
 子どもの性格も才能も、千差万別。とすれば、一律に同じ指導なんてできるわけがない。そんなことはわかりきったことですが、自分の子が才能がないなんて認めたくない、親とはそんなものです。だから「できない」のは、わかりやすく教えてあげないからだ、この子は呑み込みが悪いから時間をかけて教えてあげればできるようになる、そういうことを本気で信じている親がいます。だからできないのは、この子が頭が悪いからではなく、塾が悪いからだ、と断じて疑わないのです。
 そもそも呑み込みが悪いというのはどういうことなのか。ただなかなか理解できない、ということですよね。時間をかけてもどこまで理解できたのか、もしかしたら、わかったことにしたのかも知れない。いやそもそも子どもの「わかった」という言葉には何の真実もない。本当にわかったかどうかは、指導側が検査するしかない。言葉は何も真実を伝えない。わかったつもりになって「わかった」と言っただけかも知れない。「わかった」と言ったのは、何の根拠のない、ただ言葉でそう言っただけということもある。子どもの言葉とは、その程度のものである。「わかった」のなら、いくらでも確かめる方法はある。それが学問である。ただ能力が及ばない。その事実を認めたくない親の心情が哀れです。
 人は、生まれると同時に親(DNA)から持たされたgiftによって、人生を規定される。才能は多岐に、わたる。世の中は、勉強の才能を最も評価する前提でできている。もちろん運動の才能、囲碁、将棋の才能、料理の才能と才能は多岐にわたる。さらには、コツコツと努力するタイプか、熱し易く冷め易いタイプか、飽きっぽい性格か、怠惰な性格か、素直な性格か、自尊心が異常に高いか、親の育て方、親の価値観、親の経済力、親の育った環境も関わり、事は複雑な様相を呈する。そう言ったもの全てを含めて、子の現在を規定するgiftと考えることももちろん広い意味でgiftと捉えることができる。
 親の経済力、学歴などは、最近、親ガチャと呼ばれて、生まれてきた子にとって、人生を決めるほどの大きなこと、運不運と捉えられている。 
 塾にやれるかどうかも子には親ガチャの運不運となる。
 現代は、質の高い学歴を手に入れるためには、塾、予備校なしには、考えられない。塾代を払えない、節約するしかない、そういう層が、学歴を手に入れるには、本人がずば抜けて才能に恵まれていない限り、塾なしにはありえない。塾があるから子どもを伸ばし、学力をつけることができるのである。余程の例外を除けば、子どもが家庭でやる一人勉強、母親ないし父親が教えるやり方では、塾、予備校に通う子たちにはとても勝ち目はないだろう。江戸時代の昌平黌も上級武士の師弟などが将来のエリートとして通ったものである。明治になると旧制高校、帝大は、もちろん金持ちしかいけなかった。大正、昭和を経て、平成、令和と元号は変わっても、学歴はさらに先鋭化してわたしたちの社会で選別の機能を果たす。学歴を手にするまでにかかるコストは厳然としてある。カネのない者は、良質な学歴は得られない仕組みは変わらない。塾に行けない者、塾に行っても十分にカネを注ぎ込めない者は、淘汰されて、脱落して行くしかない。これが社会の、世の中の仕組みである。親ガチャという言葉は、現代の社会の実相は余すところなく語り尽くす。底辺の層に生まれた子は学問に、教育にカネを使えない結果、やはり底辺社会に環流して行くしかない。
 信頼のおける書物には、東大生の80%の親が、富裕層に属するという報告をしている。それはそうだろう。東大に行くには、有名進学校に入るのがほとんどであろう。たいていは私立であろう。都立なら日比谷としても予備校併用は普通,これは私立の開成でもどこでも変わらない。私立難関進学校に入るまでには塾に通う。それも目一杯通う。中学受験なら小学低学年から進学塾に通う。こういうことができるのは富裕層しかない。
 こうして富裕層から富裕層が生まれる再生産システムが完成する。20%の上級国民と80%の下級国民で社会が二極化していく。いや二層化していく。
 子どもは、生まれたときから、giftで人生を規定される。さらには、親ガチャで人生が決まる。親の職業、学歴、家庭環境、収入などがすべてこれからの子の人生に関わる。

🎶対象を広げれば広げるほど点数は平均に近づく❗️
 最重要点に絞ってやると得点は8〜9割まで上がる❗️ しかし、重要事項の反復ではそれ以上はない。
 ここのところは、多くの指導者は経験的に知っているはずである。が、このように法則化できている指導者はほとんどいないのではないか。いや、むしろ未だに網羅的、細部に広げる勉強をベストと考えている、頭の硬い指導者が多いのではないか。

 都立受験生の多くは,中3になって,理科、社会の壁に突き当たる。最初の模試から80点超を取れるというのは少数派である。たいていは40点から60点の範囲にあるはずである。不思議と70点台というのが見当たらない。こうした子たちが最終的に理科、社会90点前後に達するのかと言うとたいていは60点前後で終わることになる。つまり8月の模試で理科、社会60点の生徒が12月の模試ではやはり60点前後という不思議な推移が実は普通のことなのだ。その間それなりに勉強しただろうにおかしなことだと思いますか。考えても見てください。10月中旬定期テストを口実に受験勉強はストップします。これは11月中旬の定期テストでも同じです。そして受験科目は理科、社会だけではない。英語、数学、国語もある。社会だけでも地理、歴史、公民と範囲は膨大である。実はろくすっぽ勉強時間なんか取れないのだ。だから受験勉強は中2までに終わらせていなければならないのだ。ここを理解しないで脳天気に学校の進度に合わせて部活なんかも楽しみながらのんびりやっていれば中3になって第一志望の都立中なんかに行けるはずもないのである。

 わたしもそういうことを訴えてきてそれでも結局理科、社会を60点前後で中3の9月を迎える子たちがいたわけです。わたしの言うことを真剣にとらえてこなかったわけです。その結果、理科・社会でぎりぎりまで苦しむことになる。こういう生徒の指導経験からわかってきたことがあります。心配だと言うので知識を広げれば広げるほど模試の成績は限りなく50点に近づいていくことです。実際には60点ラインでしたが,なぜか決して70点は超えない。わたしはこういう子たちには最重要点に絞ったテキストを20回以上反復回すことを指導してきました。まあ、いろいろ細かい手は打ってきたと思うのですが,本番1週間前に過去問チェックでようやく90点前後ということもありました。理科は伸びたけど社会は結局50点止まりのまま本番を迎えたという子もいました。このときは重要点に絞っていたのですが、それでも点が伸びない、それで知識を広げていったことがありました。どうも知識を広げるのはまずいと実感したものです。

 中2までの理科、社会の取り組み方が後々の受験に影響することは明らかです。範囲の膨大な社会と原理的な理解を軸にする理科とは当然対策は異なる。かつて旺文社から「理科計算問題の解き方」という本が出ていましたか,あれは名著でした。竹の会ではよくそれを勧めていましたがたちまち理科が得意なる、そういう教材でした。今は絶版となって消えてしまいましたが,旺文社からそれを越える本は出ていない。もし復刻版が出ればわたしならまとめ買いするでしょうね。

 社会の勉強のしかたですが,範囲が膨大なので要領よくやらないととても間に合わない。まず要点をまとめたテキストは必須です。ただこれだけでは如何にも漠として歯あんなわけです。実は教科書を読むのが一番なんですけども時間のない受験生にはどうも終わりのない、とりとめのない勉強に終わってしまいそうです。

 そこでわたしはまず社会について対策本を執筆することにしました。例年都立受験生が苦しんでいるのを見てなんとかしなければと思ってきましたが,わたしなりに思うところがあり、地理・歴史・公民を教科書と過去問を軸に整理し直そうと思い立ちました。歴史は「時代背景」「事件の背景」というものが、公民は徹頭徹尾「制度の趣旨」が整理の基準となると迷いがありませんが,地理がいちばんとっつきにくい。下手をすると知識の羅列になってしまう。そうなると市販と変わらない。わたしは地理の教科書を読みながら思ったのです。「これって、リアルな人間の『生活』の断面だよな」と。厳しい自然・気候・環境の下での「生活」、人間はどこでも生まれた土地がどんなところであっても「生活」、つまり生存していくしかない。地理というのは、生存のための葛藤ではないか、と。リアルな人間の生活、生存のための活動、行動を地理学は叙述しているのではないか。実はわたしは新作「高校入試 社会ポイント集」の執筆に向けて今は資料集めと執筆の構想をいろいろと思い描いているところです。 
 

🎶選択問題の悪い癖
 見たこともない肢を選ぶな!
 マイナーな肢を選ぶな!
 未知の単語、難しそうな単語を含む肢を選ぶな!
 自分の知らない言葉は、魅力的かつ、秘密が隠されているような深みを感じる。
 特に、マイナー志向の高い人ほど引っかかる。

 普通の人になれ、常識的になれ、多数派になれ‼️
 私たちはたいてい「普通の人」である。
 試験というのは、普通の人に解けない問題を軸に出すとはとても思えない。普通の人は、特殊な問題(そう見えるだけ)が出されると、慌てる。ただ普通の問題さえも解けないほどに慌てたら、どうにもならない。本当に特殊な問題はできなくても仕方ない。ただ特殊の問題を装った普通の問題ばかりだということも普通のことだ。

 普通の人に特別を求める問題は明らかに悪問である。わたしたちは、普通の人になりきらなけれならない。決して普通の人が特別の人になろうとは思ってはならない。飽くまでも普通の考え、解き方にこだわる。普通に、常識的に考えたらどうなるか、である。普通の人がいつも特別の考えがあるのではないか、という姿勢を取っていたら、本来の普通の人の取る考え方さえも消失する。そしていつも問題を見たら特別ばかりを追い求め、本来取るべき思考手順が消えてなくなる。これを本末転倒という。
 いつも特別ばかり考えていては、成績は降下するほかない。仮に特別としても本来の普通思考の延長線上にあると考えていかなければならない。
 ドラマ「刑事コロンボ」。あれは面白かった。最初から計画殺人のカラクリを見せられる。犯行の様子を見せられる。犯人はたいてい社会的地位の高い人、富裕層の人と決まっている。いわゆる完全犯罪をどう暴くか、がテーマである。面白いのは、コロンボが、些細な「普通と違うこと」を見逃さないことだ。ここを犯人に問い糺す。その問いが本質をつくものだから、犯人は慌てる。焦る。それで取り繕う。質問は些細な矛盾、普通でないことに関して畳み掛けるようになされる。その度にその場しのぎの説明をする。するとどうしても矛盾が生じる。それが最後にはどうにも説明のしようのない矛盾が突きつけられる。ゲームオーバーだ‼️
 普通のこと、どこにもありふれた些細な素朴な疑問、その積み重ねが、どうにもならない矛盾を証明する。まるで数学の証明法の一つ背理法を現実では「こう使うんだよ」と教えてくれるような、不思議な気持ちにさせられた。
 わたしは選択肢問題には弱かった。現代国語にはその分析の仕方というものがあるということを知ったのは、後年のことである。司法試験の択一式問題では、五肢択一式であるが、いつも二肢まで絞り、二択で必ずマイナーな肢を選んでしまう性癖に苦しめられた。これはおそらくこれまで自分の生きて来た、いつも損をする、我慢する、自分にはいいことなんかないんだ、という観念が骨の髄まで沁みついてわたしの人生の選択において、常にマイナーな選択をするように働いてきたこと、そのことと無関係ではないと確信している。
 大学を出て、メーカーでも、銀行でも、普通に就職できてたのにしなかった。普通に生きることもできたはずだ。しかし、わたしは普通ではだめだ、という強い観念が支配していた。わたしは人生の選択において常にマイナーな方を選択してきたのだと思う。塾の先生がどれほどマイナーな選択であったか。普通の人生を歩めなかった自分の業(ごう)に行く道を規定されて、わたしはその中で必死に生きてきたのだと思う。
🎶竹の会という名前のこと
 塾という道を選んだのも、偶然であり、その後のわたしの選択は常に偶然の中に身を置いた。
 塾を始めたのはたまたまであった。生徒をどうやって集めるか、何もかも初めてだった。塾の名称を何にするか、これは考えた。いろいろ候補はあったがどれとしてしっくり来るものはなかった。今考えれば酷いものばかりだった。1週間ほど経ったであろうか。朝目覚めると、突然「竹の会」という名前が頭に閃いた。「これだ‼️」、わたしはもう迷わなかたった。竹の会の「竹」がわたしの名前の雄彦「タケヒコ」の「タケ」とたまたま一致していましたが、別にわたしの名前から取ったわけではありません。それから「竹の会」は人々に馴染むまで十年、二十年の歳月を要しました。時には、「タケノコ会ですか」などと電話をしてくる人もいました。竹の会という名前が一人歩きし出すには、二十年はかかったのか、と思います。と言いますか、竹の会がわたしとは別のところにある、別人格、別の存在だと実感するようになったのは、二十年ほど過ぎたあたりからなのかな、と思います。
 竹の会が別人格なのか、と感じるのは、ここ何年か、竹の会を買い取りたい、という文書が送られてくるようになったことです。しかし、竹の会は、わたしと離れては存在し得ない特殊な塾だと思います。巷の塾のように代替性はない。それは巷の塾のように、塾の普通の、形態、システムは取らない、ことにあります。テキスト、授業、複数の講師といった塾の三種の神器がない。強いて言えば、指導、指導はわたしだけ、授業なし、といったところです。
 大手に一年いて、1ミリも力をつけていない、そういう子が大多数だと思います。今までに大手に小4まで、小5までと通って竹の会に来た子たちは一人の例外もなく、計算力なし、割合はほとんどわかっていない、ましてや算数などとても解ける状態にない、そういう子ばかりでした。なぜ一人の例外もなく、できないままに、大手にいるのか、わたしにはさっぱり親の気持ちがわかりません。はっきり言って、大手の一年なり、二年なりは、無駄以外のなにものでもありません。
 普通の子(学校の内申で「よくできる」が7、8割ある子)なら、竹の会に一年いれば(入塾したときの学年にもよりますが)、スーパーな計算力をつけて、割合を理解し、偏差値55レベルの中学入試に出される割合の問題を解けるまでになっています。
 これはウソでも何でもありません。事実を述べているだけです。竹の会に実際に子どもさんを通わせている親御さんならわかっていることです。
竹の会は決してウソ偽りを言っていません。竹の会に入会した途端にわかる親には「わかる」、「わかっている」はずです。
 それほど竹の会の指導はてきめんな結果、目に見える結果を日々見せていくことでしょう。
 竹の会に入会してまず変化を見せるのは、子どもの表情でしょう。「わかる」という積み重ねが、子どもに自信を与える。それがいい効果となって、子どもの表情が明るくなる。素直になる。最初、戸惑いながら、「できる」という小さな経験を積み重ねていく、これが指導の要諦である。
 一年経ち、竹の会の子と大手塾の子を比べればその差は歴然としている、であろう。大手に一年、二年と通い、例えば、芝中レベルの算数の問題が解けるのか、ということである。大手の子たちがそれぞころではない、ということはあまりにもわかりきったことであ。それは当の親が一番わかっていることなのかと思うが、ところが、大手に通わせている親の多くは我が子の計算レベルも知らないことが多く、割合に至っては「習ったでしょ」と子に確認するレベルである。そうなのである。大手に通わせる親のほとんどはそのレベルなのである。大手に通わせているだけで安心してしまっている。その間に自分の子がもはや取り返しのつかないレベルの学力になってしまっていることなど思いも及ばない。当然受検など最初から受かるはずもなく、当然なように公立に行くことになろう。その時に小学時代を無為に過ごしたツケが回ってくる。しかし、小学時代まともに計算も割合もできない子が中学でいくらまたまた大手塾に通ったからと言ってどうにかなるわけではない。それからの中学は、部活に興じて、ただただ転落していく、落ちこぼれの人生になるだけである。待っているのはFラン高校(中途退学率異常に高い)、社会の底辺へと排出される工程に乗っただけのことである。
 塾の責任ということを勘違いして、受検に落ちた責任をどうとるのか、などという戯言を言う人間がいるけれども、塾は100%合格を保証するところなどではない。受検とは選抜試験であり、落ちる者が、圧倒的に多いのが前提である。また試験は個人の能力、努力、資金力、環境など様々な要素が合否に関わるのであり、個人の責任、自己責任なのだ。
 わたしが塾の責任と言っているのは、預かった子たちの基礎学力もつけてあげないで、公立中へ放り出すことを指している。受検に落ちたのは自己責任としても、基礎学力もないのは、塾の責任だろ、と言っているのだ。およそ教えられない、という子なら、断ればいい。しかし、大手は株式会社だから営利目的を前面に出しているのだからそんなことはしない。ただただ一年、二年と止めるまでカネを払い込ませるだけのことである。その大手に我が子を預けてめでたく区立中に行くことになって大手の責任は?などと騒がないのはどういう頭の構造をしているのか、ちょっとわかりません。

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