2025.01.09
🟧結局、我慢なんだと思う❗️
小学低学年ほど我慢が利かないのが一般である。過保護の子は「できない」ともう放棄する。「できない」という状態が我慢できないのだ。勉強そのものを放棄する子もいる。
低学年だと毎回計算ばかりやる。するとここでも我慢が切れ、勉強放棄する。甘やかされて来た子には、いつもあやされていないと我慢がキレるのだ。飽きっぽいというのはここから来る。小2、小3だと集中力も1時間ほどが普通と思うが、4、5時間平気という凄い子もいた。手遊び、ちょっかい、歩き回るなど一切なく、ひたすら言われたことをやる、そういう子がいるのだ。ちなみにその子は東北大に現役合格している。こうして大成する子は幼きときから普通とは何か違う。あまりにも普通、とにかくすぐ飽きる、気が散る、他が気になる、そういう子は、普通の結果、とにかく普通の、その他多勢に埋もれるだけである。
我慢というのは、本来親が躾けるものである。「他人のものを欲しがる」のが子どもである。そこを我慢させる、のが親である。可愛さのゆえになんでも買い与えるの愚は結局子どもが大きくなってその我儘に歯止めがかからなくなったときに悟る。働かない、自堕落な子を作ることになることを悟らないバカ親がいずれは酷い仕打ちを受けることになる。いや躾と言っても虐待ではないから、子の将来のための生き方を教えるのである。昔の封建的と思える、さまざまな、ともすれば虐待と紙一重の、躾という名の暴力の数々は、少なくとも、今の子が親から受ける過保護よりはまともな大人にしている。だいたい今の親の虐待には、歯止めというのがない。感情のままである。
子に何を教えるか。
他でもない、空腹である。すなわちひもじい思いを教えるのだ。空腹力こそ、将来のエネルギーになる。何もかも満たして満腹なままに、成長させるのは、ろくなものにはならない。人間は、動物と同じだ。空腹こそが力となる。足りないところで我慢させる。いつも不足を味合わせる。人間は平衡で安定するようなシステムを内蔵している。だから不足を工夫で補う「意志」が発生する。満足ばかりさせていると、この能力が育たない。だから貧乏は素晴らしい教育と言える。しかし、人間育成としてはいいとしても、学歴は、それでは買えない。学歴は、如何に、受験として必要とされる知識を限られた時間で、頭に入れられるか、であり、自分でなんとかするよりも、先人に教わる方が圧倒的に早い。既に場数を踏んでいる先人の手を借りないなんてありえない。
だから現代の、受験戦線は、投資的にカネを投じてやらなければ学歴は手に入れられない。中学受験は、カネを投じなければ受からないことは、受験の母親ならよく知っていることだ。
しかし、大手に中学受験で子どもを託すこと、これには、恐ろしい副作用を覚悟しなければならない。実質80%以上の子たちが、失敗しているのが中学受験の現実だ。1割の天才が当然入れるべくして入るのに、その他多勢の9割が、実質玉砕するのが、中学受験だ。そういう子たちの中には、深刻な精神の破壊を見ることになる子たちが少なからずいる。かつてそういう子たちの勉強忌避、不登校、鬱を嫌というほど見てきた。そこまで大手は凡庸な子どもたちを破壊する。破壊の矛先は、特に、バカではない、公立に行けばトップ層にいたであろう子たちに深刻である。おそらくそれは大いなる自尊心の破壊に帰因するのではないかと推測している。
中学受験はこのように両刃の剣である。偏差値による、個人の容量を超えた、過重な知識の詰め込み、つまり、自由なる思考の欠落がもたらす破綻はあまりにも過大な代償を払うことになる。
受験の天才のための塾、それが大手進学塾である。その他大勢はそれにあやかろうとして集まる勘違いした親、何かに洗脳された親たちである。ここで考え違いしてほしくないのは、受験の天才はいわゆる天才とはまるで異なるものであるということである。受験の天才が何か創造的仕事をしたなんて聞いたことがない。受験が苦手な天才もいる。受験天才とはすでに答えのある問題についてだれよりも速く答えを出す手順を理解する人たちのことである。彼らは答えのある問題には強い。事務処理能力に優れているのはもちろんである。かれらは結局自己本位、利己主義に収斂していく、まるで公益性のない、偏見天才なのである。現代の受験とは、そういう人間をペーパー試験で選別していく試験なのである。 偏差値とはまさにペーパー試験の個人の格付けにほかならない。世の中のほとんどの子どもは決して受験天才などではない。そういう子たちがあえて受験天才のためにしか存在しない大手進学塾に勇んで入るのは親の無知以外はない。あえて子を精神破壊装置に放り込むのだから。竹の会は子の能力に応じてやるべきこと、つまりは基本、基本の基本を訓練して、学歴に挑戦してきただけである。無理な子には何をやっても無理である。最初から筑駒や開成をめざして無理に詰め込むことなどできようがない。子どもが能力に目覚めて自ら伸びるのを助けることしかできないと最初から承知しているから。