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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

あなたたちは子どもに一番しっくりくる塾というものに無知か無関心である!

2019.12.19

 

第43章 あなたたちは子どもに一番しっくりくる塾というものに無知か無関心である!

塾を選ぶ基準
受験だから大手?
 子どもの能力を考えない暴挙でしょ。大手進学塾で問題なくやっていける子というのは、限られています。まず、大手の用意するテキストが、難なく読んで理解できる能力が、最小限必要です。それを前提にして、授業がわかることです。最低これだけは満たさなければ大手に行っても無駄です。テキストがわからなくて、他の助けが必要とか、授業がわからないなどの場合は、そもそも大手に行くことが無理だったと考えるのが自然です。授業についていけない、テキストが理解できないというので、補習塾を併用したり、家庭教師を雇うなどの行為は、無理だということを暗に認めての行為です。大手というのは、落ちこぼれた子を確実にスポイルします。子が荒れる。大きな副作用を覚悟しておかねばならない。それから大手で、私立受験に失敗し、落ちこぼれた子は、公立中でも、落ちこぼれるのが、必至です。

四谷大塚準拠熟という寄生塾
 昔からこういう塾はありました。四谷大塚教布教の役割を実は担っている塾です。四谷大塚は、テキストを公開していますから、個人でも購入してやれるし、準拠塾に行けばそれを使った授業も受けることができる、というわけです。
 わたしも実はここのテキストを昔一度だけ使ったことがあります。感想? よくできたテキストだとその当時は思いました。しかし、これを一年間、ある中学受験の子に使ってみて、わかったのは、算数三冊のテキストを終わらせたけれどもこのテキストを終わらせたからといって何も力がついていないというが実感でした。やはり生の過去問を考えさせながら解かせた方が絶対にいい、とわかりました。四谷大塚のテキストを使った小学生には、実験みたいになって悪いことをしましたが、過去問合格法で、成城学園(高校)に合格しました。
日能研グループ
老舗の進学塾です。もちろん大手ですから、大手の弊害は当然ある。グループ会社のみくに出版は、過去問集を毎年出していることで知られています。みくに出版には、竹の会も毎年お世話になっていますので、感謝しております。過去問集は、声の教育社が、解説付きのものを出していますが、わたしは、みくに出版の解説なしの方が好きです。紙質もコピーで裏写りしない。わたしは、人の解説を見るというか、読むのができないので、解説はいらない。自分で考えてつくります。竹の会の算数シリーズの解説はすべてわたしのオリジナルです。
日能研は、竹の会ができた当時から大手として有名でした。日能研で落ちこぼれた子が竹の会に来るということもよくありました。

サピックス
私立受験進学教室
もともと1989年に進学教室TAPの講師たちが、離反して作った塾です。

早稲田アカデミー
私立受験進学教室、都立中高一貫校対策塾、高校受験
1974年、「早稲田大学院卒業生塾」として始まった。

大原予備校
都立中高一貫校対策塾
大原は、資格試験の予備校として有名なところです。

栄光ゼミナール 今はZ会の子会社になっています。
都立中高一貫校対策及び私立受験
Z会
もともと大学受験の通信添削の会社
今は、進学塾も併設、高いレベルの子たちを集めている。
かつては、株式会社増進会出版社が、「増進会」(愛称・Z会)の名称で通信教育事業等を行っていた。株式会社増進会出版社が通信教育事業を行い、関連会社の株式会社Z会対面教育が教室での教育事業を、株式会社Z会出版が出版事業を行っていた。
2006年に、株式会社Z会に商号(社名)変更している。

ena
都立中高一貫校対策塾、高校受験
現学院長が、慶應義塾大学在学中の1972年に国立市内で始めた学習塾「国立学院」(1977年から国立学院予備校に改称。略称・KG)が元。

 

 大手も元はただの私塾だった、ということですね。塾というのは、最初はみなそういう始まり方をしている。それが企業として、成長した。

 それらの塾がじゃー具体的に何をやっているのか
 私立難関対策の進学塾はもちろん信頼していい。もしそのカリキュラムを余力をもってこなせるのなら。ただ多くの子たちは、行っても無駄に終わる。難関校の定員+α の子たちだけが、そういう大手に行っても意味がある。わたしの経験では、進学教室で中程度、つまり難関は無理だが、というレベルの子たちは、思考力を磨く指導で、伸びていく、そして高校受験で、成功する蓋然性がかなら高いことがわかっている。大手進学で落ちこぼれた子たちのなかには、磨けば光る逸材がいるということである。
 中高一貫校型の大手塾
 過去問模倣問題で作ったテキストを軸にやっている、のだと思われる。こういう大手の最大の欠陥は、計算とか、割合とかの基本の訓練をほとんどやらないままに、テキスト授業をやっていることだ。思考力を育てるなど頭からない。ということは、もともと知能の高い子、地頭のいい子(DNAが優れている)が、当然のように、受かっているに過ぎない。この大手に行ったから受かるということになっていないのである。
 これはもちろん大手塾が、営利を目的とする企業であることからくる、必然の結果と言えよう。企業は利潤を如何に最大化するかしか関心はない。宣伝に膨大なカネをかけるのもそのためである。Z会のデータ分析が優れているのは、都内の秀才を集めてのデータ分析だからである。このように進学大手というのは、如何にして秀才を集めるかが、企業の浮沈に関わる。とにかく頭のいい子を集めて、合格実績を出すことが、会社の業績を上げる。進学大手は、秀才をどれだけ集めたか、で決まる。この少数の秀才軍団が、実績を出すことで、お客さんである凡人小学生が、大量に釣れる。夢と現実を綯交(ないま)ぜにして暈(ぼか)し、多くの凡人親子を錯覚させる、勘違いに導く、曖昧商法です。「大手だから安心」という、根拠のない信仰を逆手にとって、客を取り込む。
 大手塾の裏
 当然授業は、細切れ授業。そこでいったい何を学ぶのか。過去問模倣問題考えて何が得られるのか。学生講師の説明する授業は、何を教えるのか。過去問模倣問題の解説? そんなもん解いて何か意味ある?
 学生って、普段は何してるの? 大学暇なの?
 バイトで子どもを教えるってどうなの?
 私大文系だと数学やってないよね。そういう学生もバイト講師にはいるはずだよね!
 中学受験やったことのある学生ならまだましかな。
 学生講師の欠陥性
 とにかくわからない奴に教えたがる。わかりやすく教えたと自己満足してる奴がほとんど。教えたがり屋が多い。逆に、教えない学生がいたら、早晩首になるだろうな。バカ小学生は、自分で考えるなんて気はハナからないから、「先生が、教えてくれない」とすぐ母親に訴えてバカな母親が塾に噛みつくこと目に見えている。
子どもが考えるより先に何もかも教えてしまう!子どもは、わかってなくても、親切で熱心に教えてくれる学生講師に心理的に「悪い」と負い目を負い、つい「わかった」、いや積極的に「よく、わかった」と作り笑いまでして、嘘をつくものである。指導する者がこれを見抜けないで、「ようやくわかってくれたか」「自分の教え方はやっぱりすごいな」と満足する。だからバカ学生なのだ。大手のような同世代がたくさんいる中での授業は、「わからないのは恥ずかしい」という心理が、わからないものも「わかった」ことにして、終わりにしてしまう。
 学生講師はただのバイトである。普段は勉強に忙しいか、遊びに忙しい。だから自分が昔受験した記憶だけを頼りに「適当に」教えて、時間さえ過ぎれば、カネをもらえる。生徒に合わせて、いい人を演じる。まさに、役者である。親も子も、「優しくていい先生だ」と大満足である。ばっかじゃないの。
 問題の本質はなんだったのか。
 子どもが、ストレスなく、気なんか遣わないで、ほんとうに、理解していくこと、これじゃー、なかったの。そこから考えなければだめじゃないか。
 子どもというのは、初めての知識に、もうわからないのではないか、と恐怖が先行して、わかるものもわからなくなるほど、頭の中は不安定である。
 こういう状態で、授業を聞いて、冷静に聞けるものか。みんながみんな「わかる」を得られるものか。
 
 竹の会の「指導」は、どうしたら、子どもに「わかる」を真実担保しながら、先へ導いていけるか、常に、そこを尋ねながら、子どもの理解の状況をいちいち「確かめて」、指導する側が理解を見届けて、先へ進めるということをやってきた。
 子どもというのは、「わかった」という言葉では、何がどの程度わかったのか、何もわからないものです。学生講師のように、「わかった」という言葉を鵜呑みにはできないのです。わたしは、自分の作ったレジュメを解かせて見て、判断します。ですから、家庭で親に聞きながらやることは竹の会では厳禁です。わたしのレジュメは別に親の教える能力を試しているわけでありませんから、親の「わからないなら教えてあげよう」は、正直余計なことであり、指導の妨害です。自分で考えて解けたとわたしが誤解したらどうするのですか。それに子どもというの、「親に聞いたのか」と尋ねれば、「少しだけ、ほとんど自分で考えた」と言うものです。こういうことをして子どもから思考の芽を摘まないでほしい。
 わたしのレジュメには、それとなく、ほんとうに理解したのか、その深度はどの程度か、を検査するための問題が仕込まれています。リトマス試験紙と同じです。子どもは「わからない」と持ってくるけれど、そのことが何を意味するか、わたしは心の中で判断しているのです。
 理解したかどうかは、検査してみるしか、本当のところはわからないのです。
 わたしは、そういう指導の理想にもっとも適した方法を模索してまいりました。現在の形は、長い間、実践を通して試行錯誤を重ねてきた結果、到達した究極の指導の形態です。
 読んでわかる、これが勉強の究極の形です。常に、人に教わりながらというのは、幼児性、つまり依存性を助長する、介護型の指導です。確かに、要介護の子たちを繁殖させるにはこれが一番いいでしょうね。

 読んでわからない者には、口で説明してもわからない。巷の親は、読んでも理解できないから、説明するのだ、と言うのでしょう。しかし、読んでもわからない子には、説明も虚しいだけです。読む、そして理解するというのは、まず、文字を読む、意味を理解する、という基本的なコミニュケーションの基盤があるかないかなのです。
 竹の会は、レジュメという形式で、読んで理解するという基本能力をまず要求しました。
 次いで、考える。ただひたすら考える。もちろんレジュメの問題を考えるのです。
 次に、答案を添削する。考えが足りないか、どこまで足りないか、何がわかっていないか、そういうことを見ながら、指示、コメントをして、さらに考えさせるか、いやここで打ち切って、説明するか、いや前の段階に戻るか、そういうことを瞬時に決めていく。
 指示は、子どもの理解の段階を判断し、的確、簡潔を旨として、一言で斬る。説明のしかたは、子どもの状況に応じて様々なパターンがありうるわけです。これはもうこれまでに様々な子と接して、その時どういう説明をしたか、その説明が功を奏したか、虚しくも潰えたか、つまり場数をどれだけ踏んだか、ということでして、経験がものをいうところです。
 竹の会では、解説レジュメというものを用意しております。この解説レジュメは、まさに、読んだだけでわかるを一つの理想形として、工夫を凝らし、コメントを旨として、カラーの図を駆使して、製作しております。
 竹の会の指導を見学した親御さんが、目の当たりにするのは、きっとこれまでに見たことのない指導の光景であろう、と思います。一人一人の子どもとの鬩(せめ)ぎ合い、指導の実際、その光景を目撃した親御さんは、驚愕(きょうがく)の本心を隠しません。
 竹の会が、常に、考えてきたこと、一流のプロでありたい、だからカネはとります。でもカネをもらっただけの仕事はしなければならない。これがプロの精神です。竹の会が、本物の塾であることを、わかってもらうには、竹の会は、結果を出し続けなければならないし、そのために、思考力をつける、そこから自ら考えて解く、というスタイルをたたき込むという信念に基づいて指導しております。プロは、預かったら必ず仕上げるという使命感に突き動かされるものです。
 

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