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トップ都立高校という選択/開成・筑駒・慶女に合格するには/桜修館合格法/中学受験という選択  🎶使用頻度と網羅性

2023.07.11

🎶使用頻度と網羅性
 使用頻度0.1%なのに網羅性を強調した参考書をアリバイ参考書と呼ぶのだそうな。
 とにかく出る可能性がほとんどなくても(これは)入れておかないとということで何でもとにかく載っている参考書というのがあります。「この参考書になかった」ということは避ける意図である。ここから考えても、網羅的な参考書は使用頻度無視した点において少なくとも効率的ではない。今年の都立社会に「大阪紡績」(時期が問われた)が出たが、これは大手の塾どころか、市販の参考書・問題集のどこにも出てこないレア物件であった。ただし、教科書には、本文ではなく、挿入写真の説明としてかなり細かい字で出てくる。こんな細かいところから出すのは、出題者側が余程ネタに困ったということだろう。都立の社会は簡単には点は取らせないという矜持が感じられる。これを例外、つまり平均値から外れるとして、無視するのもありだろう。使用頻度が低すぎするから。ただ高校の山川の教科書には、本文に詳しく出てくるから、高校レベルでは実は重要度は高い。こうした使用頻度の低い知識にどう対処するか、の問題は残されている。たちまち以降の参考書に取り上げられることは間違いない。すべて後付けなのが世の常なのだから。そもそも未来の予測なんて,できるわけもない。過去問の解説はすべて後知恵のくせに事前にわかっていたような解説をする。いちばん胡散臭いのが塾の解説。後知恵のくせに受験生には「当然押さえておくべきだった」ようなことを平気で言う。よく受験モノで「〇〇塾代表」みたいなのがノウ・ハウ本を出しているが,この類いの本でのまともな本に出会ったことがない。正面問題と向き合ってないのだ。やたら自分の成功体験を出してそれで終わりというのばかり。まともらしく見えて版を重ねている本もあまり信用していない。わたしは仕事柄そういう類いの本はほとんど目を通しているが「だから役に立った」ということは一度もない。読み応えのある本,手応えのある本というのはそれなりの時間をかけて研究の成果を発表する姿勢で実に丁寧に書かれているものだ。粗製濫造本が氾濫してわたしたちは余程読み手としての真贋の弁えを求められているのだろう。どうせ廃棄することになる本,ゴミ本が溢れている。大学教授が書いたからと言っていい本とは限らない。世の中の人間がみな平均値へと近づいているのが今の社会なのかもしれない。
 今年の都立社会に「大阪紡績」が出たとき、これをどう位置付けるか、考え込んだ。確かに、教科書には載っている。ただし、本文ではない。写真だ。そのコメントに、小さな字で「大阪紡績」とある。さて、ここまで押さえておくか、という話しだ。本文にはない知識だ。その扱いのせいか、大手塾の社会のテキストを何種類か調べてみたが、「大阪紡績」という言葉は欠けらもない。
 受験では、例外的なものは、捨てるのが常識とされている。基本8割基準で行けば、「大阪紡績」は知らなくていいということになる。しかし、都立理科、社会は、90点が普通の世界である。ああ、そうですか、というわけにはいかない。今後、わたしは、この問題を「大阪紡績基準」と呼ぶことにする。受験の方法の本質的問題を訴えていると思うからである。
 昔から、テキストの選択の基準として、網羅主義(完全主義)か、8割基準か、として取り上げられてきた問題である。
 表題の、「使用頻度と網羅性」の問題も同じ切り口である。
 使用頻度を基準にするなら、「大阪紡績」は、知らなくていい、問題ということになる。使用頻度基準か、網羅性基準か、という話しである。パーレットの2・8法則は、書籍の重要点は、書籍全体の2割だ、とする法則である。一般の書籍という縛りはあるものの、書籍が網羅的かどうか、という問題とは視点が違う。
 網羅性は、「知識」に関する問題として、提起されたものである。なんでも網羅しているというのは、これだけで間に合うという安心感があるわけですが、その安心感も不安に裏返るデメリットの数々があります。まず網羅的ということは、分厚くなりがちということです。これは人によりますが、わたしなどは、500ページ前後あると、もう精神的にダメです。もちろん専門書の話しです。200ぺージから精々300ページが受け入れられる限界ではないか、と思っています。これはわたしの経験からですが、分厚い本は、理解しながら読み進めるというのが、なかなか困難なことです。行けども行けども目的地が見えない、からです。
 概説書というのは、全体を掴むのにはいいのですが、やはり浅いわけです。理解が深まらないということはあります。専門書の場合は、全体が見えてこない,「繋がらない」わけです。
 知識だけ網羅したものというのは、一番頭に良くないような気がします。人間というのは、羅列された知識をただ覚えるということほど苦痛に感じるものはない。これほど脳に悪いものはないと思うのです。
 ここは、網羅的な知識集に対してどう取り扱うかという取扱説明書みたいなものが必要なところです。
 知識は、意味付けというか、知識一つ一つにストーリーが必要と思います。わたしたちは、言葉によって納得して生きている、ということです。言葉なしに、知識だけ羅列されても、頭が受けつけないようにできています。言葉一つ一つには、「なるほど」と納得する意味がある。わたしたちは、言葉をネームで区別しますが、その区別のためのネームには、固有の意味がある。というか、固有の意味から名前、名称がつけられたというのが正確です。名前の前に、どういうものか、意味というか、機能というか、働き、性質、様態、そのようなものがあって,そこに由来の名前をつけた、それが本来なのです。だから名前だけ覚えてなんとかなる、そういうものではない。名前は飽くまでラベルですから、そのラベルから内容を理解する、そういう手順になります。
 名前がない、そういうのもあります。副詞節内の時制は未来のことでも現在形で表すというのがありますが、こういうルールには特に名前はない。勉強ではそういうことは普通にある。そういう時に、名前をつける、これが効率、暗記、理解の効率を上げるわけです。実は、勉強は、そういう場面の連続です。そのたびに名前をつけておく、これがコツです。名前というのは、一つの要約なんですね。だから昨今のような子どもの名前にキラキラネームをつける、というのとは少し違う。人名そのものには、要約から来る要請というものはありませんから、なんでもいいと言えばいい。
 わたしは、勉強というのは、徹頭徹尾「要約」ではないか、と思っています。要約というと、国語なんかでよく言われるわけですが、もちろん国語は要約と言い換えてもいいくらいに要約の学問だと思います。国語ができないという人は文章を要約できない人です。要約というのは,極端な話し、9割捨てて、1割残す、といことです。あるいは、適切な言い換えのこととも言える。長々しい言い回しを、端的に、「要は、…ということだ」と言い換えることが、要約の重要な部分を成すことは間違いないと思います。
 何を捨てて、結局何が残るか、という要約の基本作業から言えば、消去法に似たところがある。何を捨てるか、ですから。ただ筆者は、これが言いたいのだな、というアタリはあるわけです。ただアタリでやると、見落としが避けられない。だから基本消去法で行く。不要なものから落としていく。
 文章構造から言えば、文章というのは、具体、抽象の織りなす綾だから、具体を落とすということが基本になるかと思います。言い換え、対比、があれば、そういうものは、落としていく。いわゆる二元論的論述は、対比と同じく、カットする。筆者のいいたいこと、は何か。これが問いに対する答えなんです。
 これは端的には、筆者の問いを見つける、筆者の問いに対する答えを、見つける、これに尽きる‼️
 そうなると、中学、高校における客観テストと変わらないことになる。もっと言えば、問いは一つとは限らない。だから問いを見つけてはその答えを探す、でいいのではないか、と思う。
 石原千秋の「秘伝大学入試の国語」では、二元論を意識しながら読むということが、主旨かと思うが、こういう意識の持ち方、アプローチと言うのももちろんあっていい。こうなると国語の文章は「どういう意識で読むか」ということに、帰着する。
 読むという脳作業については、意味取りを妨げる雑念というのがあります。何の雑念も湧くことなく、文章の中に入っていけるか、ということです。雑念を生ずる、最大の原因は、不安、漠とした不安なのかな、と思います。自信のなさが、恐怖と重なって不安を生ずる。
 進学校だと、ついていけてないという状態が、本を読む際の大きな雑念,妨害要因になります。これは日比谷や開成などの落ちこぼれになればわかることです。落ちこぼれだけがわかる事情です。
 国語というのは、徹頭徹尾掘り下げである。概念の掘り下げ、文章の掘り下げ、文章の前後関係から、一つの文章の真意を探る、それはおそらく逆推理をすることに等しい。そうシャーロック・ホームズの逆推理だ。ホームズは推理するというが、あれは正確には、逆推理なのではないか、と思う。なにしろ事件が起きて、様々な事象、事実から推理するというのは、因果の果、すなわち結果から、原因を推測するのだから、これは逆推理に違いない。しっかりホームズもそう言っている。

 わたしたちが、問題を解く過程というのは、他ならない、国語の文章、すなわち事象から、筆者の真意を逆推理することなのだ。とすれば、一文は手がかりなわけである。その手がかりは、出題者が意図的に操作している可能性が高い。われわれは、一文をやや範囲を広げて鳥瞰しなければならない。全体からその一文の位置を見なければならない。一文に省略された言葉がないか、指示語が指しているもの、そういうものをすべて取り込んでその一文を見なければならない。出題者が傍線を引いた一文は、何かが欠落した文、すなわち不完全な文である。何かは、意図的に欠落させたか、あるいは当然前提としてあるものとして、書かれていない、そういうことではないか、と思う。何かが欠けている。前提が省略されている。舌足らずな文章である。わたしたちは、その何かを補わなければならない。不可視な部分を可視化しなければならない。
 ホームズの言うように、逆推理するためには、証拠収集は必然である。
 一文から通常の言葉の、論理の帰結として、出てくる普通の事実を証拠としなければならない。
 「この種の問題を解く時に重要なのは、逆推理できるかどうかということだよ、ワトソン君」
 養老先生は、普通が一番いい、と言われている。特別なことは要らない。普通であればそれで生きていく上では十分だ、と言うのである。普通も100回になれば特別になるとも言われている。なるほど、そうなのか。わたしたちは、常に、特別を求めてこなかったか。最初から特別を求めて苦しんでこなかったか。もしかしたら特別を求めるのは、最初から能力、富に恵まれない人たちなのか。最初から普通の人ばかりの世の中なのに、なぜ普通で満足しないのか。生存競争というけれど、普通で満足した方が生存には結局有利なのではないか。
それを養老先生が不思議な実験として、紹介してくれる。美人というのは、実は平均に一番近い顔なのだそうな。それは例えば、無作為に100枚の異なる人の顔写真を重ねてコンピュータ処理して見ると、その平均の顔というのが浮かび上がってくる。それが衆人一致して認める美人の顔そのものだった、という話しである。美人というのは、目、鼻、顔の形、その他諸々のパーツがすべて平均値なのだ、というのだ。わたしたちの顔はみな平均値からずれているということである。美人とは、たまたま平均値に近い顔だったということである。わたしたちはえらい誤解をしていたことになる。美人とはすべてに優れた顔という風に思っていたに違いないからである。
 普通も重なれば特別になる。しかし、それは特別でもなんでもなかった、平均値なのだ。つまり、特別とは、特別に優れていたわけではない。平均値に過ぎなかった。
 特別を特別のものとして求めてはならない。わたしたちは、普通で満足していればいいし、あたりまえを喜ばなければならない。普通結構、あたりまえ結構、特別と普通、選択を迫られたら、迷わず普通を選ぶだろう。普通を確実にこなし、普通に満足するだろう。
 普通に精通すること、それは平均値に限りなく近づくことであり、わたしたちが、最高と評するものは、実は、平均値だったというオチに気がつくのは普通にこだわった人だけだろう。特別を追い求めている人は、平均値から遠く離れた偏頗なところに着地しているのではなかろうか。してみれば、試験というのが、平均値が着地点とするならば、普通、とにかく徹頭徹尾普通を追い求めるのが一番の近道なのではないか。
 わたしたちの気づかなかったこと、それはわたしたちが特別を求めるあまり、普通に見向きもしないで、特別ばかりを、追い求めてきたことではないか。特別を追えば負うほど平均値からは遠ざかる。特別とはあまりにも偏頗な位置のことではないのか。
 どんな難問も数多くあたれば、いつしかそれは平均値に近づいていく、ということにならないか。
 さて、国語読解の話しに戻しましょう。
 これまでわたしは国語読解に関する書物を何十冊と読んできました。予備校講師の書いた本がよく売れていますので、わたしもその方面の本も読み尽くしました。出口何某とか、田村何某の本とかです。またノウハウ本も何十冊も読みました。ノウハウ本から得られられたものはなかったですね。予備校本もノウハウが軸です。ためになったのは、石原千秋さんの本です。10冊ほどありました。「秘伝大学入試の国語」は何度か読みました。ただ読んでいて思いました。いろいろ示唆に富むことは書かれていますが、結局自分は読んで逆推理していただけなのではないか、ということです。読んだ本の中で、実際に使えるということで言えば、これも平均値は、何か、ということで、結局、要約に行き着くのか、と思います。自分が一番しっくりきた、そういう判断しかないと思い詰めたのだが、最後までわたしの心に残っていたのは、要約という言葉であった。この言葉はひとり読解に限らずすべての科目に言えることなのではないか。もう一つわたしの琴線に触れたのは、逆推理という言葉であった。逆推理というのは、逆算もそうなのだが、逆算の場合はしっかりとルールがあるわけですが,逆推理にも鉄板のルールがあるのではないか、そう考え、わたしは、自分の要約の過程、逆推理の過程を通して規則性の発見に意を注いでおります。今読んでいるのは、東大の入試に出た現代文なんですが、「要約論」という古い専門書を見つけまして,もう少し研究をしてみたいと思います。
〇「新英語ポイント集」の執筆に追われてなかなかブログまで手が回らない状況です。値段は3000円ほどになりそうです。そんな高い本誰も買わないよと言われそうですが、いや買ってもらわなくていいのです。だから値段を高くしたのですから。竹の会の中でも「そんな高い本買わない」なんて言ってる子がいるくらいだから実際だれも買わないのでしょう。いや買ってもらわないほうがいいのです。少なくとも受験英語に苦しんでいる生徒、開成や筑駒の英語でトップを取りたいと思っている人のために書いたのですから。
 竹の会では、令和4年に開成、筑駒、渋谷幕張、それからおまけとして城北に合格しましたが、すべての学校でおそらくトップ近い合格をしていると思います。渋谷幕張は特待生合格のその上の特別特待生合格でした。なぜそう言うか、というと駿台模試で全国1位を取ったからです。さらに志望校別順位は、慶應志木、早稲田高等学院などすべて1位でした。開成、筑駒は1から3位でした。日比谷はもちろん1位です。
 その中で英語は一桁順位にもっていきました。開成、筑駒の英語で90点以上を取れるまでに実力をつけていった竹の会の英語指導のリアルをこの「新英語ポイント集」に盛り込みました。もともと旧「英語ポイント集」は、竹の会の英語救世主と言われてきたものでした。英語のできない生徒がこのポイント集で都立英語満点を取れるまでになったという話し、国学院久我山の英語で9割取れた、という話しは竹の会ではよく知られています。この中から同じ問題がたくさん出たというのは最近まで変わりません。とにかく英語が取れる本だったのです。その本に今回は開成、筑駒でわたしが指導した英語のキモを盛り込んで「新英語ポイント集」としたのです。だから竹の会にというか,難関校の合格に関心のある人のみに買ってもらえばいい、そういう本音です。
 大手塾で何万も使っているとことを考えると、3000円なんて安いものです。これで開成の英語が取れるならなんともコストパフォーマンスのいい話しです。受験に失敗する人というのは、物事をなんでも対象化して考える人です。対象化するから対象を絶対と勘違いしてしまいがちなんです。本当に頭のいい人は、物事を方法の一つとしか考えないものです。選択の問題として置き換えてしまうのです。だからもし失敗すればそれは方法の選択の失敗、つまり自己責任なわけです。
 〇対象化

 世の中の凡人の皆さんは、なんでもかんでも対象化してしまう。こういう人は頭の悪い人です。何かと絶対主義、完全主義、自己中心主義にと自分では意識しないで、陥りがちです。いいですか。頭が柔らかいと言うのは、物事を相対的に捉える人なんです。俗に言う、頑固というのは、いい意味でも、悪い意味でも、使われますが、いい意味では、自分の信念を貫く人というプラスのイメージで語られ、悪い意味では、合理性のないのに古い考えに固執する人、しがみつく人のことを言うのかと思います。
 ですから、頑固という言葉だけでは実は何もわからない。
 問題は、物事を対象化しての頑固なのか、物事を相対的に見て、ただ方法の選択のところで、一つの方法に固執しているのか、ということです。方法の選択と考える人は、一つの選択にこだわらないようにも思えますが、実は、そうでもない。デカルトの「方法序説」の最初のところで、一旦選んだ方法はもう変えてはならない、その方法がどんなに後から出てきた方法よりも劣るとしても、もはや変えてはならない、ということを書いています。これには、折角一つの方法で積み上げてきた成果が無駄になること、また新しいことを始めるのは慣れるまで時間のかかること、などが比較衡量されているわけです。だから、方法の選択といってもいつでも自由に変えていい、というわけでもない。
 さて、そういうわけで、何事も習性として、対象化することは、誤った道を進むことになる、ということはしっかりと弁えておかねばなりません。
 物事を対象化する人というのは、封建的な精神支配、戦前戦後の多くの庶民を席巻した思考態度で、素朴科学的、未分離思想、幼児を支配する思想、空気に支配される、いわゆるB層を支配する思考態度で、物事を何かと決めつける、対象化の故の自己中心的発想、悪いのは自己以外の他人だとする思考が顕著に現れる、人たちです。
 宗教的な人たちが、一元論に固執し、他者の価値を認めない、そこが宗教紛争の根源にはある、そこから民族、宗教間の熾烈な闘争が繰り広げられる、わけで、社会の批判者たちの多くが、対象化を前提とした人たちであるのは、偶然の一致なのではない。
 物事を対象化することで避けられない事態は、洗脳、呪いの言葉の容易な侵入ではなかろうか。私たちは、情報化社会の末路の中に身を置き、膨れ上がった情報に押し潰されるというか、情報に生存をさえも害される人も出てくる、そういう時代にある。情報過多がもたらす脳の異変は私たちの一人として、様々なバイアスから自由ではありえないという、なんとも形容のし難い状況をもたらしている。いやもともと人間というのは、バイアスそのものであったのだ。信念、信条でさえももしかしたらバイアスの言い換え語であるのかもしれないのである。家訓、家風、風習、しきたり、村、町内、みんなバイアスの発現かもしれないのである。わたしたちは、情報を科学の成果として利用するということであったかもしれないが、情報の渦は、わたしたちを飲み込み、情報を操っているつもりが、情報に主体を奪われ、情報に流され、人間理性はどこかに吹き飛んで消えてなくなり、このまま行くところまで行くのか,と絶望が漂います。
 昨今の政治家を見ていると、わたしには、レベルの低い、バイアスの塊のような人ばかりにしか見えない。ローマの衆愚政治がそのまま今の日本の政治のように見える。結局利権か,というばかりに事件が明るみに出ればみな利権に群がるハイエナと変わらない現実を見る。

 今の日本は結局平均値の政治家が悪の選択,つまり政策決定をしているように見えてしかたない。新型コロナ騒動で見せた政治家,優秀なはずの役人たちの狼狽えぶりは幼児並みであった。何が東大出ました,優秀な官僚なのか。やっていることは平均値以下のことばかりではないか。

〇子どもというのは生まれながらに授けられた能力の多寡の範囲内で平均値にさえも近づけない子もいるということを理解して対象化しないように自己を戒めながら指導に細心の注意を図りながらその子どもの能力に方法を微調整していかなければならないゆえに難しいものである。

 すぐれた能力を授けられずに生まれた子ならなおさら早い時期から方法を錬磨して指導していくのがいいことはわかっている。子どもというのは自己の性格に翻弄されるものだからである。特に自尊心の高い子は高学年になってもできないということが見えてきたからではもはや遅いのは,素直に受け入れられる段階を通り過ぎているからである。

 竹の会の入会審査に使われる問題はほぼ的確に子どもの能力を言い当てている。その出来で理解する能力は歴然と区別されるのである。能力が低い子は勉強意欲というか,知識への関心も低いからその分勉強に取り組む姿勢も消極的になりがちである。そのことがさらに学力の伸びを鈍磨させていくのである。「解ける」ということに,というか「解けた」という実体験の積み重ねが子どもを伸ばすのである。この体験の乏しい子には勉強は苦痛以外のなにものでもないのである。指導できるかの限界線というのはある。それを判断するのが竹の会の入会試験である。やはりこれができた子が伸びていく。それは真理である。しかし,だから成功するというわけではない。ひとつ言えるのは早期に指導開始した子の方が圧倒的に成功する確率が高いということではないか。小2がひとつの分岐路になるであろう。小4でものんびりと勉強しているというのはいきつく先は平均値と考えて置いたほうが無難である。平均値からほど遠いのに習い事や稽古事にも時間を割いて勉強もその一つに過ぎないという子が小6になって平均値以上になるということは期待しないでもらいたい。

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