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前提としているものを問え!

2022.08.31

 

 

前提としているものを問え!
 そもそもの前提は何なのか?
 言っていることの裏には、何か別の動機がある、ということである。前提を問うことは、その隠された、真の動機に迫る手法である。
 問題の筋書きを考える‼️
 これは、問題を作った出題者の動機、真の意図を学べ、ということである。筋書きというが、組み合わせである。あらゆる問題は、詰まるところ、パーツの組み合わせの問題である。パーツ単体で問題を出しても面白くない。簡単に解かれては競争あるいは選抜にならない。
 適性問題は、何を試しているか。まず、問題を解く以前に試されるのが、文章そのものの読み取りである。読解力である。文章の国語的意味を取れなくては、問題の解きようがない。特に、適性問題は、会話文で問う形式が主流なので、大事なことを見落とし易い。注意力、いや注意能力が特に試されている。適性問題は、実は親切な問題である。なぜなら、答えのヒント、方向性を会話文なり、問題文なりに、何気に示しているからである。何を書いたらいいかを教えてくれている。例を示す問題は、ほとんど答えを教えてくれているようなものである。
 そういったものを全く無視して、というかほとんど問題を読んでいないのではないか、と思えるほど雑な、的外れな答えを書く子ばかりである。
 作文にしても、数個のことが問われているのに、大雑把に捉えて答えにならない答えを書く。
 国語の問題の答え方にも一言言っておかねばならない。国語というのは、もちろん読解を試しているのだけれど、一つ一つの問いは、決して「あなたの意見、あなたの考え、あなたの判断」を聞いているわけではない。出題者が、本文を「どう考えているか」を尋ねているのである。だから答えは、必ず本文の中に書いてある。本文の該当箇所を「あなたが適当にあなたの考えを取り入れて、換骨奪胎して」書くのではない。出題者が考えている本文の中の答えをそのまま書くのである。もちろん問いの形式に合わせた答えの形式でなければならない。「…のことか」と問われれば、「…のこと」と形式を合わせる。「どうして・・・か」と問われれば、これは具体的にどうしてなのかを書かねばならない。具体的に「・・・だから」と形式を合わせる。
 選択肢問題も、個々の選択肢を本文の文章と対照する、のが王道である。ただこの時、長い選択肢は、二段に分けて、本文と比較するのがコツではある。選択肢どうしを比較するのも有効である。ただ本文と比べて、たちどころにわかるような選択肢は作らない、であろう。如何とも判断しようのない選択肢を作るのが、製作者の意思である。正解の肢は、できるだけ曖昧にする。だから消去法が有効なのである。どれが正しいかと探すのは、もともと無理なのだ。正解ほど曖昧に作られるからだ。そうすると、つまり消去法で消去していくと必ず正解らしい択が残る。このとき、その2択はとにかく曖昧であり、抽象的であり、本文に照らしてもどこにも該当するところが見つけられない作りになっている。このとき、一つの肢を読点で切って、その切ったパーツのうち抽象的でない方を選び、本文と比べるのがこつである。曖昧な表現は基準にはならない。曖昧な表現を感覚で選んではならないのだ。

時には竹の会がない日のことを思ってください‼️
 例年夏期、8月の最後の週は、竹の会はお休みになります。今年は、短い方で長いときは10日前後お休みだったのではないでしょうか。
 しばらく竹の会がないと、きっと竹の会って、自分にとってどんな存在なのか、と考えることがあるのではないでしょうか。
 竹の会は、塾と言っても、世間で言う塾とは、だいぶ違います。まず授業というものがない。だから当然講師もいない。世間の塾が授業で必ず使うテキストというものもない。
 授業というのは、必要悪として、必然的に「落ちこぼれ」を作ります。落ちこぼれは、事実上切り捨てです。これを意識してか、わかるまで教える塾、個別塾、個人指導受験など、できていますね。いずれにしても授業前提です。授業についていける子のための塾です。落ちこぼれには、そういうパフォーマンスをする、というだけのことです。落ちこぼれがそういう塾で、できる子に変わることはまずありません。
 他塾に行ったことのある親子ならわかることです。
 竹の会は、わたし一人、わたしの作った塾のかたちです。一人一人指導する、理解を疑いながら診断、指導をする、理解がなかなかできない、そういう場合、新たな処方レジュメを作ることもよくある。同じレジュメを何度も反復してやらせる、そして答案チェックで、いちいち基本を指摘する、こういうことを地道に繰り返す、続ける、正直、無理なのではないか、と思うことも多々ある。しかし、子どもが嫌がらずに通ってくる限り、勉強を放棄しない限り、辛抱強く、指導を続けるしかない、と観念している。
 世間では、事実の本当のところを何も知らないで、竹の会を批判するための批判をする人も多々いるけれども、そういう匿名=無責任=自己はまったく傷つかない、というご都合人間の言葉が、如何にいい加減なものなのか、ということは良識ある人にはわかることです。
 竹の会は、昭和60年、1985年の10月に、東京渋谷に生まれました。そして2023年になりました。あとどれだけ続けられるのか。竹の会が消えたらもう竹の会のような塾はなくなる。東京の渋谷に「いい塾があった」と皆さんの記憶に残るのでしょうか。
 私の夢は、東京の渋谷駅近くに竹の会を開くこと、渋谷には「いい塾があるよ」と23区にみなさんに知っていただくこと、そして開成、筑駒合格を果たすこと、でした。
 「いい塾」とわかっていただけるのは、実際に通った、その中のすべてではない、まして外部の、中を何も知らない人がわかるわけもない。
 竹の会を信頼していただいた人たちの記憶に竹の会が消えた後も残っていただければもうそれでいいのか、と思います。

 今はお預かりしている子たちをとにかく仕上げられればと思うばかりです。

 
 

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