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国語の解き方第4回講義/頑固な子は受からない/「わかりません」と丸投げする子/わかりやすさ、という毒

2022.05.04

 

頑固な子は受からない

 したがって、自己流を通す子は受からない。自分のやり方を変えない子は受からない。素直に学ぶ姿勢に欠けるからである。頑固、自己流にこだわる人というのは、なかなかの自信家であり、人の教えをふんふんと聞いても、感動というものがない。ときには、それどころか自分の考えの方がすぐれている、と根拠もなく思いこむことも多々ある。超主観に支配された人である。こういう人は、先人に学ぶ姿勢が欠如し、自滅する宿命にある。

 学ぶというのは、基本には、自分の無知を自覚し、素直に、教えをこい、したがうという心の持ち様がなければ、できないことである。

◎「わかりません」と丸投げしてくる子は、模試で点がとれない!
 丸投げしてくる子というのは、自分で解いた経験がほとんどない。解き方を覚えていて、同じ解き方をするという知恵が精いっぱいだ。だから、ヒントに「面積図を書いたら!」と言うと、これまた出鱈目な図をかいてくる。図をかく意味がわかっていない。図から解決の糸口を見つけるのだ。だから図は問題の意味を正確に反映したものでなければならない。問題事実を図に的確に表現したものでなければならない。
 丸投げする子というのは、事実を読み取れていない。事実の関係を抽象化できないのだ。いやそもそも図にするということが抽象化の方法なのだ。教えてもらって「覚える」という方法を繰り返している限り、何も進歩はないであろう。そのことは、いつか来る模試の結果が如実に示してくれることになる。

 この3年に限って、算数が上級テキストに進んでいるのに、適性問題がさっぱり解けないという子が、目立つようになった。もともと算数ができない子の話しではない。これはどうしたことかと、私も首を傾げたことであった。最近わかってきたことは、そういう子には共通点がある、ということである。1問をこだわって解かない。これが決定的な共通点と思える。問題に手をつけては「解けない」と次の問題に手を出す。それが解けなければすぐ次のに手を出す。だからほとんどの問題に手はつけているがまともに解けた問題はほぼない。こういう子がどうも適性問題に対応できないように思える。だから、算数のテキストはそれほど進んでいなくても、1問をじっくりと時間をかけて解き進めている子は、適性問題にも同じ姿勢で取り組み、正解を出してくる。1問がわかるまで他の問題には手を出さないで、じっくり考える、そういう子が、適性の試練に屈しないことがわかってきた。
 何が悪いのか。あれこれ問題に手を出す子というのは、問題から離れたときに、そのわからないという事態を頭の中で反芻することができない。ずっとひとつの悩みを考え続けることがない。これは考えるということがわかっていないのだ。数学者のピーター・フランクルさんは、わからないときは、長持ちのようなハコに入ってその中で何時間も考えたという子ども時代の逸話をその著書で紹介していた。あれこれ手を出して中途半端にしたままに次をやるという子は考えるということがどういうことなのかわかっていない。

 それであれこれ手を出して、1問にほとんど時間もかけないで、すぐに聞いてくる。そして「わかりました」はいいのだが、このやりとりは永遠に続くことになっている。覚えた解き方は確かに増えていく。だから似た問題には「解ける」体を示す。しかし、見たこともない、(これは外見上だけ、見かけだけなのだが、)問題には、全く思考は停止したままだ。だから適性問題のような問題には、手も足も出ない。白紙だらけの答案だ。算数のテキストは上級まで進んだのに一向にできないというのは個別の、具体的な問題には、具体的な対応、それはおそらく今まで解いた問題の解き方の類似性を探そうとしているのだろうけれど、要するに、抽象化できてないのだ。問題を考える、解決の糸口を見つけるという精神作用は、問題を、問題事実をどれだけ抽象化できたかにかかる。この問題が解けたではなく、どれだけ抽象化して、いや抽象化のために頭を使ったか、である。
 学ばなければならないのは、偏に抽象化である。それには1問にこだわり解けるまで1日てでも2日でも考え続けなければならない。そういう勉強をやっていると、わからない問題の文章が頭の中に何度も流れることであろう。そしてああでもこうでもない、といいアイデア、解決の糸口を探して悩むことであろう。このいいことは、寝ている間も無意識に考えているということだ。多問に同時に手を出す子には、寝ている間に悩むことはない。
 

◎わかりやすさ、という毒
 難しいところを削除する。大手、中手の塾が、やっている手である。難しいところを抜いたテキスト、平均80点取れるように調整したテスト、親も子も喜ぶテスト、だから塾も儲かる、塾の実態とはそんなもんです。だから力なんか何もついてない。昔から、竹の会を訪れた親に「今の塾ではどうなのですか」と聞けば、「成績は悪くはない」と決まって答えたものです。しかし、わたしは、内心わらっていましたね。実力なんて空っぽだと知っていたからです。親子で騙されて世話はない。
 塾が看板にする、「わかりやすさ」というのは、毒なんです。頭を悪くする毒、しかも効き目が良すぎる毒です。
 教え方がうまい、下手というのも、この「わかりすさ」の調合次第というところがある。教え方が下手だ、と親や子がぼやくとき、自分が頭が悪いだけじゃないの、ということもある。
 確かに、講師の質はあるけれど。かつて都立駒場高校の生徒を講師として雇っていた塾が近くにあったけど、呆れて言葉もなかった。
 大手の講師は、ほとんど学生アルバイトだと思う。さすがに、大手進学塾には専門の講師もいるとは思うが、案外東大生なんか雇っているところもかなりありそうだ。鉄緑会は、東大、しかも医学部の学生で固められている、らしい。
 わたしの知る限り、早慶、マーチあたりの学生が多いように思う。慶應も理工学部の学生になるとかなり優秀だが、とにかく玉石混交といったところか。
 親は、わかりやすさを求めるが、わかりやすいというのは、実は、自分の子の頭がそれほどでもないか、塾の教材、講師のレベルが低いかのどちらかということの方がほとんどだろう。

 大学の刑法の講義で、井上教授が、「刑法はわかりやくなんか講義できない」と学生に向かって壇上から話していたのを覚えている。わかりやすさを求めているのは、頭の中が具体的なものしか受け入れられないからである。学力というのは、如何にして頭の中を抽象化していくか、ということである。だから塾は、この抽象化ということを如何にして子どもたちに学ばせていくか、訓練していくか、ということに力を注がなければならない。

 わかりやすさを売りにする塾は、具体的な問題の解き方をわかりやすく説明すると言っているのだろうが、そんなことをやっていたら子どもの頭の中には、わかりやすいものしか受け付けないという毒がそれこそ全身に回ってしまうだろう。

 学問を学力を誤解した愚かな親子に何も言うべき言葉はない。

 

◎国語の解き方第4回講義 読解の目印

 あなたたちが、文章を読むときの心理を見てみましょう。文章というのは、論理を積み上げたものです。つまり、既出の知識を前提にして、新出の知識を登場させてくる。それからその新出の知識はいったん登場すれば既出の知識となります。だからそれらを前提にしてまた新出の知識が登場してくる。論説文というのは概ねこのような流れになるのかと思います。だから、ここで注意を払わなければならないのは、「新出」が「既出」のどこと繋がっているのか、または「既出」のどこを踏まえているのか、です。国語の文章で考える、というのはここのところです。

 整理してみます。論理の文というのは、前提の文のことです。何かを前提して何かを述べる。だからこの文はどこのところを前提にのべているのか、といつも考えていなければなりません。

 読解の目印概観

 ①説明文のポイント どこに何が書いてあるか。

 ②論説文のポイント 筆者の意見

 ③随筆のポイント 作者の意見と気持ち

 ④小説のポイント 登場人物の気持ち 正確には本文でそれが「わかる部分」

 補注 説明文と論説文とはどう違うのか

 説明文は事実を説明する文章のことです。この事実とは、実は、理科、特に生物に関することがほとんどです。

 論説文は筆者のが自分の意見を発表・説明するために書いた文章のことです。したがって、論説文の読解とは、筆者の意見をさがすこと、だけです。「筆者が何を言いたいのか」を読解することです。

 そこで、この論説文について、筆者の主張をどう探すのかについて、述べておきます。

 筆者の主張は、形を変えて繰り返される。

 たとえば、言いかえ、例、比喩、象徴、引用という形で繰り返されます。

 筆者の主張について

 筆者は自分の主張がなかなか読者に理解してもらえないということをよく自覚しています。だから、何度も何度も繰り返すのです。繰り返すと言っても同じ主張を連呼するのは芸がない。だから工夫をする。それが「形」を変えた繰り返しです。形とは、ここでは、例、比喩、象徴、引用のことです。

 論説文では、だれもが知っているあたりまえの主張はしない。筆者は読者の知らない、思いもつかない内容を主張してきます。その内容は一般常識とは食い違う、かけ離れているに違いない。かんり非常識なことを主張していることだったある。そうなると読者は「なぜ」とその根拠を知りたくなるでしょう。これは筆者の戦略なのですが。

 ちなみに、私はこの講義を書くにあたって、多くの書籍を参考にしています。例えば、田村の現代文講義、石原千秋の「未来形の読書術」など数冊を手元に置きながら、わたしも勉強しながらの講義です。

 

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