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後顧の憂

2021.08.05

 

後顧の憂
 うれい【愁い・憂い】
①悪い状態になることを予想し心配すること。不安。「日本の将来に━をいだく」「後顧の━がない」
②心中にいだくもの悲しい思い。憂愁。「━を帯びた顔」「春の━」
③災い。難儀。「遠慮ノナイ者ワ必ズ近イ━ガアル/天草本伊曽保物語」〔現代語では「うれえ」より「うれい」の方が一般的に用いられる〕

こうこ【後顧】
①後ろをふりかえってみること。
②あとに残る思い。

 例えば、小3から小5まで竹の会に通ったとして、その勉強姿勢、生活態度において、必ずしも勉強を優先してこなかった、「それなりに」優先させた、ということ、あるいは、小6になっても習い事や稽古事、あるいはスポーツにもそれなりの時間を割くということ、春や盆、連休、正月には、里帰り、法事なとと大義をあげて実家に帰るなど、その間は、勉強はお休みになることには寛容になること、この長期の娯楽は、期間だけのお休みにはならない、ということは計算にあるのか。その前後、特に、後一週間は、気の緩みが抜けないし、長期の休みで、頭は空っぽになっていることも忘れてはならない。これを後顧の憂いを遺すという。

 後顧に憂いを遺さないのが理想である。その意味で徳川家康は鑑と言えようか。ところが、私たち人間は、現実逃避、問題回避、敵前逃亡、厄介先送りの名人である。とにかく今楽することを優先させる。面倒なことは兎角後回しにする。それが人間、いや凡人の特性である。

 受験は、頭の悪い者が落ちて、頭のいい者が受かる。言葉は悪いがこれが真理である。本当のところである。
 頭が良くても、サボる奴は落ちる。これも真理である。
 同じレジュメを読んでも、頭のいい子と悪い子では、その響きはまるで異なる。頭がいいと言うのは、物事から本質を読み取り、それを抽象化する。いわば、抽象世界というのは、比喩的に言えば、である。フレームである。盲人に象を説明するのに、枠、つまり構造を説明する。それから属性について説明する。
 逆算とは何か。逆算はこれまで小学生にとっては、受検指導がうまく行くかの登龍門であった。わたしは、逆算の壁を取り除く工夫を重ねた。教える側ができるだけ、予め抽象化してから、教えるのは、指導を成功させる技である。普通は、学ぶ側が、抽象化する。つまり、フレームを獲得する。
 逆算とは、普通の順序で計算していったら、最後に計算する数とその結果となる数(=の数)から、逆算していくものだ。
 例えば、(12➗⬜︎)➗3=2 なら、最後に計算する数は3となる。この3と=2の2とを逆算する。どのように逆算するかと言うと、
⬜︎➗3=2 と想定して□を求めるのだ。わたしは、このパターンを、3✖︎2=6 と公式化(抽象化)した。
これで、12➗⬜︎=6 となる。このパターンでは、12➗6=2とする。
これで、⬜︎=2 となり、答えが出る。
私が言うパターンは、抽象化して、3パターンしかない。
これで逆算ができるようになった、これまで救えなかった子たちがたちまちマスターした。
 教える側が、できるだけ抽象化して「与える」ということは、その分、子どもたちの抽象化する手間を省くことから、進捗を高めることは確かである。
 しかし、子どもたち自身が、フレームを取り出すことができるようになることが、一番である。これまで頭のいい子というのは、自分でそれができた。私は、できない子たちのために、抽象化して、子どもたちの頭の中に組み込んできた。しかし、頭の悪い子はそれでは済まない。自分では抽象化できないからいつまで経っても手間のかかる指導が必要となる。本来竹の会はそういう指導を想定していない。入会試験はそういう子を篩い落とすためである。
 

 事実を抽象化するということが、理解するということにほかならない。
 頭が悪いというのは、具体的な事実でしか見れないことをいう。そこからフレームだけを抜き取ることができないのだ。抽象化ということができないから、一般化して他の事実に転用することができない。教育学で言う「転移」ができないのだ。個別化された事実からその本質的属性を汲み取ることができない、ということだ。
 頭の悪い子の指導は、普通の子の何倍も、何十倍も手がかかる。いちいち抽象化して、食べさせる、ということをやる。
 それでも呑み込みが悪く、なかなか受け付けない。
 それと竹の会は、計算とかを一年もかけてやることを想定していない。できればそういう子はそういう塾に行ってもらいたい。過去にも小3入会で小5まで計算をやっていた子がいたが、こういう子の指導は竹の会の仕事ではない。割合にしても2年かかっても主体的な取り組みができないような子を想定していない。竹の会はそういう塾ではない。
 割合概念との格闘は、思考する力を作り、もって未知の問題について、思考の力で難局を切り拓く力ということを可能にする。これを主体的に取り組む、という。そして算数をやる目的は、ある日のコペルニクス的転回のためにやるのであって、算数の問題についてわからないからと解説聞いて理解するというノルマ的勉強を求めているわけではない。
 だから算数レジュメを7回解き直して、できるようになったということで、何か出来上がったということはない。
 問題は、未知の問題に対して、考えることで解決することができるか、ということである。
 竹の会は、未知の問題について、考え、苦しみ、葛藤し、自力で乗り越える、乗り切ることを価値ありとする。この乗り越えた過程こそが究極の力となる。だから世間一般のみなさんが算数を学ばせる、学ぶというのとは、一線を画することになるであろう。いわゆる受験算数をやっているわけではない。飽くまでも思考の力を、考える経験、その深みをこそ重視してのことだ。考える、わからないと悩む、すぐそばにいつも「ある」真理の大海が目に入らない。頭の上を素通りしていく。何も考えなければ素通りのままだ。私たちは、真理の大海が見えないのだ。盲人に象を教えるのと同じだ。盲人に象とは何かを説明するのは難しい。わたしたちはある意味盲人と同じだ。見えないのだ。割合を習っても、それが盲人が象を習うに等しいのだ。類い希なる想像力に恵まれていなければならない。赤毛のアンがいつも暖炉の前で想像を駆け巡らしていたように、わたしたちは象を想像しなければならない。抽象化の粋を尽くして象のかたちを想像しなければならない。割合という象のかたちがひとつのまとまりとして見えるまで想像しなければならない。これが都合考えるということの正体である。
 算数はすばらしい思考開発道具である。事実の読み取り、つまりは関係性による事実の再構成、算数的視点による分析など思考に効く、葛藤の場に踏み込む最適の道具である。
 竹の会の指導は常に進化している。
 思考という契機を子どもたちに如何にして植え付けるか、そのために最適な方法を考え続けるからである。子どもたちの指導を通して、何がいいのか、何が意味がないのか、つまり実践指導は濾過器としての役目を果たし、わたしによりいい指導に「進化」をする機能を果たしている。

 

 

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