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慶應女子、女子学院、桜修館への道 / 落ちた理由(わけ)  受験を誤解した親たちの末路

2023.06.12

🟡落ちた理由(わけ)  ~受験を誤解した親たちの末路
 落ちた理由? 単純に勉強しなかったからです。あなたたちは、「勉強した」ということが、どういうことなのか、わかっていなかったのだと思います。勉強したとは、あなたの使える時間のすべてを勉強に注ぎ込むことです。落ちた人たちは、勉強に割くべき時間を習い事、稽古事、スポーツ、家族旅行、レジャー、その他の由無し事に振り分けていた。中には、受検直前までサッカーや習い事を続けて、落ちて「泣く」という人もいますが、泣けるのは、まだ全力を出していない証拠です。受かって初めて「泣く」、「泣ける」のです。それは本当に心の底から込み上げるような、喜びというより、安堵感から来る感情なのではないかと思います。泣くのは受かった子たちの特権です。落ちて泣く意味がわからない。泣くこと自体が未熟な精神の顕れでしょ。
 落ちて「泣く」人に、真実はない、ように思います。勉強以外のことをしっかり楽しんできたのに、それでも受かると思っていたのでしょうか。勉強だけの生活をしてきた人もいるのです。習い事も稽古事もしない、スポーツに身を投じることもしない、家族旅行もしない、すべてを勉強に注いできた人がいるのです。そういう人を前にして、あらゆることを楽しみ、いい気分で勉強してきたつもりになっているあなたが落ちたら「泣く」というのはなんとも烏滸がましいように思えます。そもそもあなたは力を分散しても受かる程度の試験と見ていたわけですよね。
 公立中高一貫校の受検生というのは、そのレベルの家庭が実に多い、多かったのです。稽古事、習い事は続けて当たり前、小5までとか、とにかく選抜試験というものがわかっていないのです。なんとも牧歌的な、田園生活に身を委ねた人たちなのでしょうか。
 私立中学受験の家庭とは、根本のところから違います。彼らは、その多くは、私立第一志望をすでに確定し、それは多くはなかなか入れない難関中学なのですが、そう、最初から半端なことでは入れないということを認識、覚悟して、合格を目指して、自分の全生活を、家庭の全生活を、上げてそのために捧げるのです。そこには、習い事、稽古事、サッカーなど最初から頭にありません。勉強しかないのです。また親は、家庭は、子どもを支えることに迷いがない。私立志向の親はすでに子どもの十年後、二十年後を見据えている。教育にかかるおカネを子どもの将来への投資、なによりの価値と捉えているのです。
 先を見ない、現在の生活に追われて、近視眼的にしか、子どもの未来を見れない、そういう親、家庭が一般の庶民家庭では、もともと中学受験など他所の世界の話しです。たまたまおカネのかからない公立中高一貫校ができた、それなら「わたしも」「僕も」とこの世界に足を踏み入れた。当初は海のものとも山のものともわからない状況で、私立受験組は傍観していた。だから初期の頃は、塾に行かなくても受かる子もいたし、それは大手塾も何から取り掛かったらいいのか手探りでやるしかなく、少ない過去問を真似ることしかできなかった。
 しかし、ある時から、私立受験組が公立中高一貫校に関心を持ち始めた。こうして庶民家庭の淡き夢は一瞬にして潰え去り、次第に、公立中高一貫校は、私立難関受験者の有力な志願先と転じたのである。それまで教育費にさしたるカネしかかけてこなかった庶民家庭はあっという間に締め出された。
 考えても見てください。受験というのは、一気に前倒しで行った者が勝つ仕組みなんですよ。とにかく早く始めて早く早く進めるのが、受験に勝つ真理です。小4前後から大手進学塾に入り、週4回、土曜特訓、日曜特訓、季節講習と目一杯カネをかけて勉強時間を積み重ねてきた人たちです。習い事、稽古事、サッカーなど普段通り続けながら大手塾に通い、できるだけ講習代も節約して受かろうと考えている、庶民家庭に勝ち目はなかったのです。
 もともと受験は、受験勉強は、早くにスタートし、最初から全速力で駆け抜ける、そういうものなのです。「塾はまだ慣れないから最初は少な目に」とか、「まだ小4なので」とか、「小5だから」とか、何かと勉強時間を少なくする家庭、親がいますが、ひとたび受験をと考えたのなら、それは大きな間違いです。そういう親子に限って、直前、時間不足でどうにもならなくなってからジタバタするわけです。なんとか合格したい、しかし子どもの力不足は否めず塾の先生に相談してくる。

 子どもの能力はみなそれぞれ区々です。またそれまでの積み重ねてきた学力もバラバラです。習い事、稽古事、野球、サッカーなどで勉強にかけた時間の少ない子もいます。学校の内申はいいのかもしれません。しかし、勉強不足は否めない。さらに、それぞれが合格レベルに達するまでにかけなければならない時間量も不透明なのが受験なのです。そういう中で、のんびりとゆっくりと勉強なんかしていていいのか、ということです。要するに、個人個人、合格レベルに達するまでの時間総量はわからない。逆算してどれだけ必要なのかは、わからないのです。凡人小学生と優秀小学生とでは、必要な時間はまるで違う。それなのに、「まだ小4だから」とか、すべての小学生がみな同じような、ここでは一般的な、あまりにも通俗的な論理を言うわけです。論理破綻していても、とにかく当面の現状維持に固執するわけです。考えても見てほしい。自分の子と他の子とが全く同じ能力という前提に、「まだ小4だから時間がある」と言っているのです。しかし、子どもたちの能力は千差万別、だから一般的に「まだ小4だから」とは言えるわけがない。しかも教育、試験がわかっている、自分が試験を経験してきた親は、そういう子の能力は高いであろうことも予測できるが、まだ小4どころか、小2あたりからもう先の心配をして、塾に入れて、時間とカネも惜しみなくかける。そうなると本番の試験では、そういう早くから準備をしてきた子たちとの戦いとなり、「まだ小4だから」という認識の親たちの子は、とても勝ち目はないということです。
 いいですか。受験の極意は、どれだけ早く準備をスタートさせたか、にかかるのです。能力が普通の子とか、普通よりやや劣るという子は、小4からでは遅いのです。能力がある程度高い子たちが小2から準備を始め、能力が普通前後の子たちが小4とか、小5になって、それものんびりと準備に入る、そういう現状があるのです。

 受験本番の差は歴然としています。のんびりとやって来た子たちが、いくら直前に親も子も、この時ばかりはと、時間とカネかけても、もう遅いのです。
 受験というものが、まるでわかっていません。
 親が、地方の県立高校出身だと、そういう誤解をすることが多い。地方の県立高校は、自称進学校を自負する高校が多く、学校のやり方を一方的に押しつけてきます。筑駒や開成などの進学校の生徒が、学校から特に何もやってくれることはなく、自由に受験勉強に取り組んでいることはあまり知られていないようです。地方の自称進学校ほど生徒の自由がない。やたら無意味な、大量の課題なんかを常時出すわけです。これがお前たちのためになるのだ、という上からの論理です。かつて代々木中学の数学教師が、新中学問題集の問題と答えを1ページから最後のページまでノートに書いて提出しろ、という夏休みの課題を出したことがありました。解答冊子付きですが。こういう下らん宿題を出すのが、いるわけです。頭のいい子の、効率のいい勉強を否定するわけです。地方の自称進学校の教師にはこういう類いの教師が多いのです。それが生徒のためになると信じているのです。しかし、開成、筑駒のような生徒の自主性に任せた学校では、このようなバカ教師はさすがにいないと思いますが、そうでもないようです。勘違いした教師がたまに紛れ込んでいるからです。
 まあ、いずれにしろ地方の自称進学校や二流高校を出た親というのは、難関受験というのがわからないのです。自主性を持って早期に前倒しの勉強を自らやったという経験がないからです。
 東大受けるとして、教科書を終わらせてから、例えば、数学なら青チャートだけで5冊はあります。これをやり上げるとしたら、トータルの時間だって1000時間はかかるでしょ。いつそれだけの時間を確保できるの? もう高校入学したときからでしょ。一日5時間としても200日はかかる。こんなとき、無駄な課題を出して来る教師は、受験妨害の最たるものである。何をやるのか、やるべきか、は自分が効率を考えて、決めることです。数学だけでこれですから,社会や理科、古典、漢文、英語などと考えたらもうどれだけ時間があっても足りないでしょ。高校に入って,のんびりと部活やっている生徒は勉強時間の確保が難しいでしょ。

 子どもには能力の差がある。生まれついての天賦の才の差は歴然としている。それなのにそういうことを一切考えないで,漫然と「小4ではまだ幼いから早すぎる」などと考えている親に受験は最初から無理だったのです。

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