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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

慶應女子などの難関私立、都立戸山などの都立独自校、私立難関中学、桜修館などの都立中学 指導🎶何事も1冊を完全に終わらせなければ効果は0である‼️

2023.08.26

🎶何事も1冊を完全に終わらせなければ効果は0である‼️
 竹の会では、中1入学の時には、理科、社会のテキストを渡し、これを中2の夏までに終わらせるように指示している。
これは中3の最初に受けるVもぎで理社各80点以上を取ることを一つの目標、というか果たすべき義務としているからだ。
 しかし、平成28年戸山合格者を最後に、その義務を果たせる者が皆無となった。原因は、真剣に、必死で理社に取り組んでこなかったからだ。何かと先送りし、正面から取り組む姿勢が欠如していた、ということである。
 学校の行事があれば当然のように先送りされる。定期試験優先の法則により定期試験の度に先送りされる。やらなくても当面危機的な状況になる、ということがないから、先送りしても、痛みがない。だから先送りどころか、差し迫ってやることもなくなる。こうしてほとんど勉強も、しないままに、中3の最初のVもぎを迎えて、おそらく7月、8月になるだろうが、理社とも50点前後で、落ちとなる。
 怖いのは、9月以降毎月模試はあるけれど、その点数は不思議なほどいつも50点前後を推移する、ことである。
 これはどうしたことか。
 9月ないし10月には中間テスト、11月末には期末テスト、その準備で、前2週間は潰れる。体育祭、修学旅行とまた何日か潰れる。その他の学校行事でさらに潰れる。
 それよりも中学3年間の範囲をその残された、9月から11月までの、学校行事に使う日数を除いた1か月ほどでやり切れるか、である。9月から11月までの3か月、そのうち定期テストなどで潰れる日を除いて、どれだけ理社に時間をかけられるのか。やらなければならないのは、理社だけではない。数学も英語も国語もやらなければならない。例えば、英語一つにしても、長文読解、文法、英作文など時間はいくらあっても足りないのである。
 つまり、理社だけに時間を使えないのが、9月からなのである。
 だから8月の模試で理社50点だった者は、12月の模試でも50点は変わらないのだ。
 わたしはこの恐ろしい蟻地獄に陥らないようにと、手を打ってきたわけです。しかし、わたしの指示を軽く受け止め、流してきたのではないでしょうか。
 ことの深刻さを理解せず、何かと先送りしてきた、ないし全くやらなままにきた、そういうことなのではないでしょうか。
 わたしは、よくテキスト、問題集を「やるように」と指示して、渡すことがあります。しかし、このわたしの指示もたいていは流される。有耶無耶にされてきたわけです。そして当然ですが、中3になって理科、社会で苦しむのです。問題点は2つあります。9月以降に理科、社会の全範囲をやることになる点、記憶すべき知識が既に脳の許容量を超えているのに、それをやる時間がほとんどないこと、です。
 わたしが「やれ」と言って、渡したテキストを原則1週間以内に終わらせなければ、指導は無効となる。
 それにしても、もらったテキストを放置しておくことの意味は重大である。いろいろもらってもすべて手をつけていないというのは、既に指導が成り立たないことを意味する。
 もらったら、指示された期限内にやりあげる、それが、受験のプロである。プロとは、強い意志でやり抜く人のことをいう。まあ、プロ論議はまたの機会に譲って、ここでは受験に打ち勝つとは、受験の道を迷わず「歩くこと」、「進むこと」をいう。道を歩くとは、「やり抜く」精神、「やり抜く」実行力、をいう。
 1冊を完全に終わらせること、これが受験の道を「歩く」ということである。1冊を終わらせるとは、問題集なら完徹すること、知識集なら7回見直しを終わらせること、である。
 勉強に必要なもの、それは精神の柔軟さ、素直さである。自分のやり方i固執する、頑固な人間は、成功しない。指導者に言われても、自分のやり方にこだわるのは、余程懐疑心が強いか、自信家なのであろう。
 人間は未知の世界では、何を拠り所にするか。
 先達の教えに素直に従うことである。ここがポイントである。成功する者と失敗する者とを分ける、分水嶺と言える。
指導者にもいろいろある。成功した指導者、過去に失敗した指導者、さてどちらがいいのか。どちらでもいい。ポリシーのある人、信念のある人ならいいのか。ポリシーも信念もバイアスと言い換えられなくもない。だから信念があってもだめな指導者もいる。
 真の指導者、本物の指導者に出会うのは、運としか言いようがない。鰯の頭も信心から、というけれど、初めから疑う人は慎重かもしれないが成功しない人である。時間のかかる人である。一旦信じても後から疑う人は間違いなくいつまで経っても行動を起こせないから決して成功することはない。
 それに何事も初めはダメなように思えても後からわかることもあるのである。最初からいいと言っても時間が経つとそうでもなかったということもよくあることである。
 蓋し本物を見抜くのは甚だ難しいことである。多くの庶民の常として、本物を贋物とする傾向がある。贋物を本物と勘違いするのが庶民である。
 わたしから見れば、多くの受験生の親はまさに庶民なのである。大勢が右になびけば、自分も右になびくのが、庶民である。親たちが大手に集まるのは庶民だからである。みんながやるようにやらなければ不安なのである。もともと自分の考えなどないし、みんながやるからみんなの真似をしているだけである。親たちに思考はない。考えているように見えても、何かいいことを言っているように見えても、どこかで誰か、たいてい多数派、テレビ、新聞の意見を自分の考えとして、言っているだけである。
 竹の会はそういう人たちには理解されることはない。
ワクチンを恐怖心に煽られて怒涛のように射ったのも庶民である。アメリカでは、輸血に際して、ワクチンを射っていない人の血液が希少価値とされている、との報道があった。もちろん日本のメディアは一言も報じない。
 庶民とは何か。およそ権力を持たないのが庶民なのである。しかし、民主主義は、これまで庶民だった者が突然権力を手にすることを可能にした。庶民が権力を持つとどうなるか。
 間違いなく狂う。バカが権力持ったらそれこそ虐殺だって起こるだろう。また権力に阿るバカが増殖する。安倍、菅政権時代に蔓延した「忖度」が、社会の隅まで蔓延る。
 煽り運転で庶民が庶民を殺す。車は操る者には擬似権力者になった錯覚が支配する。車を思い通りに「動かす」という開放感・恣意感は、なんでもできるとバカを錯覚させる。だから普段は上品な奥様がハンドルを握った途端、車の前を横切る老人に「バカヤロウ」と叫ぶ。そうなのだ、庶民は基本的に権力などとは無縁だったのだ。だから権力を持つと途端におかしくなる。おかしくなるのは普段持ち慣れないものをもったからにほかならない。

 

近刊予告!!

「地理ポイント集」(仮題)

 地理という言葉は、誰が考えたのか、考えてみれば、これほど地理とは何か、の答えを象徴した名称もないのではないか。
 「地」とは、土地の「地」、「理」は、「ことわり」と読むから、理由、論理のことだろう。「地」の「理」とは、「地」についての「論理」を綴った学問ということか。
 「地」には、それぞれ「論理」がある。地形、気候などは「地」の論理を語るものである。

 地理は大まかに捉える、鳥瞰的な一覧性が大事である。
 細かな数値、細かな知識を網羅的に追っていると地理の概観(要約)を犠牲にすることになる。そのことが地理を不得意にする、言い換えれば、諸悪の元凶なのではないか。
 とにかく「大まか」に捉えることではないか。瑣末な知識は捨てる。「大まか」こそが何かのヒントとなり、推理を可能にする。細かい知識は忘れていい。気候との関連で、地形との関連で、産業との関連で、それが「論理」なのであるが、「地」を語る、これこそが地理であろう。
 わたしたちは、特定の「地」に生活する、定住する人間である。だから「地」の「ことわり」について学ぶことは、すなわち、わたしたちを取り巻く環境について学ぶことにほかならない。だから、地理を様々な環境に関する学問だと定義するのは別にわたしの立場と矛盾することはない。
 わたしはすべての科目において専門家ではない。わたしは一介の塾の先生である。わたしの仕事は、専門の科目を噛み砕いて「要約する」ことである。ただ、「要約する」と言っても、それぞれの科目の精神が曖昧では、要約の方向が定められない。だから、要約者として、そこはやはり悩むわけである。
 そのために、もちろん要約をより正確にするために、数冊から数十冊もの本を読むことはあるわけです。
 その過程で、つまり「要約論」を考える過程で、膨大な知識、網羅的知識の大群に、わたしの要約論がたじろぐこと頻りである。よく書店を賑わす「要点」をまとめた要点物が多数出版されるのは、膨大な知識の羅列群に多くの受験生が呑み込まれ、方向を見失うことを前提の動きである。
 
 地理の出題は、かつてのように重要論点、知識を尋ねる形式の問題は姿を消し、明らかに、系統地理の視点からの作問であると思われる。系統地理とは、地の「ことわり」を問うものである。既存の参考書が、伝統的な、地域による整理、地域単位の知識の羅列であることは、そのような参考書で勉強すれば、現代のような、地理の問題には対応できない、ということであり、地理の入試にも、大学入試と同じ出題視点が取り入れられつつあるということではないか、と思う。
 要するに、地域別に整理する手法では、昨今の地理の問題には対応できないということである。
 
 
 わたしの仕事は、必ずしも専門の徒ではない学問について、様々な書物を読み、そこから要約をして、簡潔な知識を提供することである。わたしは、大学入試の英語を要約し、高校入試の英語を要約し、高校数学を要約し、高校入試の数学を要約してきました。今秋には、高校入試の社会の一分野の「地理」の要約を提供する、ことを企図して、今、様々な書物を読んでいるところであります。 

 この執筆の目的は、わたし自身が、地理の何たるかについて、悩み、正直「わからない」と思うからであり、そのためにさまざまな書籍を読み、書いているのことの意味が甚だ分かりにくい、曖昧なことに腹立たしい思いをしながら、そこからわたしなりに、地理という学問を捉えるために苦心しているということである。わたしは、もちろん地理の専門家ではない。わたしは一介の塾の指導者に過ぎない。わたしの仕事は、どんな科目であれ、噛み砕いて、その「要約」を子どもたちに提供することである、と心得ている。わたしは常に要約者としての使命を果たすことを考えてきた。
 「地理」という名称が、地理の勉強の仕方を教えていた。
 地理の過去問を見るとき、「地」の「理(ことわり)」が、どう問われているのか、に注意を配りながら、読むといい。その問い口、問い方が、そのままあなたたちに、地理の勉強の仕方を教えてくれるだろう。
 
 知識は大まかに、その方向性、輪郭、全体像を、つかむこと、それが未知の問題に対したとき、答えの方向性を与えてくれることになる。問題は、まず「読み」、次に注意深く「観察する」。読解とは、畢竟この「観察」こそが生命と思う。わたしはいつか「読解観察論」を展開したいと思う。

販売中!!

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竹の会の幻の名著と言われた「英語ポイント集」の復刻「新英語ポイント集」

全面書き換え新版

Amazonで発売!!

開成・筑駒トップ合格を可能にした,竹の会改心の高校入試英語の注釈&整理集!!

「英語ポイント集」はもともと早稲田実業志望のある男子のために執筆したものですが, その後の竹の会の入試指導ではなくてはならないものとなりました。多くの先輩たちを早稲田などの合格に導いた伝説のテキストとなりましたが, さらには多くの先輩たちがこのテキストで受験英語を克服してきたことでもその役割は実に大きなものでした。そのコンセプトは入試問題からひとつひとつ論点を拾い上げそのひとつひとつに的確なコメントを付すというものでしたが,受験の切り札として重宝される一方英語不得意の生徒の特効薬としてもその効果は驚異的でした。数々の成功エピソードで語られいつしか竹の会の伝説的名著と言われるようになりました。私自身もこれほどすごいものができるとは思ってもいませんでしたが, 私の予想をはるかに超えたスーパーテキストとなってしまったのです。今回の新訂版には、竹の会の知られざる名著「英語合格本」からその要点を取り込み、さらに、竹の会の伝説の指導書「新英語指導案」からも最重要部分を取り入れました。「英語合格本」は、慶應女子志望の女子のために特に執筆したものです。執筆の体裁を変えたこともあって英語ポイント集ほどは利用されませんでしたが,件の女子はこのテキストを使って青山学院に合格し、その後慶應大学に合格しました。

 今回アマゾンからの発刊を決意し,7月発刊に向けて,毎日原稿の執筆に取り組んできました。今回の改訂は開成などの難関校の受験にも通用することを主眼としています。特に,注釈形式で,英語の深奥に迫る解説を施し,かつ実践に通用する演習書としての機能も重視しました。短期間の執筆でしたが受験英語のための超スーパーテキストが完成したと自負しています。その母体となった名著「英語ポイント集」の精神をそのままに竹の会受験英語指導の粋を極めた実質的「新英語ポイント集」の完成です。竹の会の会員のみなさんがこのテキストを使って成功されることを祈ってやみません。

(新訂版 はしがき より)

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 英語ポイント集(絶版)

 
 
 

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