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桜修館攻略への道

2023.02.10

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桜修館攻略への道
 我妻栄式勉強法の発見
 究極の勉強の提唱
 サブノート勉強法の破綻
 かつて我妻先生(第一高等学校→東京帝国大学法学部→東京大学教授)は、一高時代、サブノートを作ることによって試験対策をしたことを懐古されていた。帝大に入ると最初はサブノートを作っていたが、ある時から、教科書の欄外の空白部分にメモを書くようになったという。メモには、そのページの内容を「分類し、総合し」た、とある(民法案内第1巻末「私の試験勉強」)。
 「分類」とは具体的になんぞや? 普通に考えたら、共通項をまとめる、つまり分ける、ということになる。共通項があれば、その共通項でさらに上の上位概念でくくることができる。しかし、このように概念的に書いても少しも具体的なもののイメージが湧いてこない。要するに、「分類」とは、「全体から見た、位置付けのことではないか」、と解される。分類という概念は、極めて「全体的視点」を本質とする。全体を分類して、その位置付けを見る、のである。要するに、分類とは、全体的視点のことなのである。こうして、メモは、常に、全体から見た位置を書き留めるということになる。
 それでは、「総合する」とは、どういう意味なのか?
 これは、今度は、バラバラの、玉石混淆の、枝葉末節のからまった本文を「幹、つまり本質、核のみ」とすること、つまり、普通の言い方をすれば、「まとめる」ということである。
 サブノート式の勉強法は、教科書なりをまとめて、整理して、図にかいて、覚えるということなのだが、この方法は、比較的試験範囲が狭い場合のやり方である。高校入試とか、大学入試とか、資格試験では、範囲が膨大になり、この方法は無理である。サブノートは書くだけで恐ろしいほどの時間がかかるからである。それにこの方法には、恐ろしいリスクがつきまとう。綺麗なノートを作ろうとすればするほど本来の目的が忘れ去られ、ノートを作ることが目的化して、本来単なる手段であったノート作りが、主目的へとすり替わってしまう。そもそもすでに書かれている内容を書く労力ほどアホらしいものはない。
 それではどうするか。
 もちろん我妻方式である。基軸となる、教科書として使っている書物の欄外、空白スペースに、メモを書き込むのである。付箋を貼る手もある。なぜスペースを使うのか。これはもちろん情報の一元化のためである。
 さて、そこでメモをどう書くか、ということになる。
 我妻栄先生は、「分類」と「総合」という言葉を使われていましたが、その意味については、先程、私見を述べさせていただきました。このメモを取るという方法は、とにかくプリントでもなんでもメモを取るわけですから、それだけプリント、教科書などを大切に扱うことが前提です。プリントを計算用紙代わりに使ったり、落書きしたり、シワだらけにしたりする人がいますが、私はこういう人を見ると、勉強というものに対する尊敬の念が足りないのではないか。その証拠にこういう人は謙虚さというものを持ち合わせていないように思える態度をよく見せます。
 こうして、勉強というのは、メモを取ること、そのメモには、そのページの分類と総合、すなわち全体から見た位置付け、及びまとめを書くこと、ということになります。位置付けというのは、全体的視点から見る、見直すということであり、そのページを全体から鳥瞰してその位置付け、つまり意味合いを書くということにほかなりません。また総合というのは、そのページの内容を、「要するに、こういうことだ」と纏(まと)めることです。
 さらに言い方を変えれば、そのページの内容は、そのメモを一目見ただけで把握できるということです。
 この方法は、要約の能力を高めるはずです。つまり、国語の勉強になっている。
 国語の勉強法について
 国語が苦手という人がよくいる。苦手の原因が、語彙が少ないからという人も多い。そういう人は、これから述べること以前の問題である。
 国語というのは、文章の意味を取ること、それだけのことと言ってしまえばそれだけのことである。俗に「読解が苦手」という人は、文章の意味が取れない、それだけのことである。
 さて、どうして読み取るか、である。作者の意図を見抜く、作者の考えていること、真意を見抜くことである。何を言いたいのか、常に、これを追うことになる。
 そのために、つまり、作者は、自分の主張を根拠づけるために、どのような論理構成、文章構造を取っているのか、を分析しなければならない。
 例えば、作者は、「まず、問題概念の定義をしたな!」とか、次に、「現在の問題状況を事実として具体的に展開したな!」とか、「具体的問題点を3つ挙げたな!」とか、「それから、問題点の生ずる原因に触れたな」とか、そこから今度は、「反対論の論拠をあげる」とか、そこから作者は、「反対論の論拠を一つ一つ反駁しているな」とか、作者は、結論として、「疑問を提示しながらも、現状肯定しているのか」とか、分析するのである。
 作者の論理展開の構造を分析すること、それは、作者の意図、動機、態度を見抜くために、必要なのである。
 わたしたちは、作者の真意を最初から最後まで「追っていく」、その意味で、読解とは、「追跡」である。
 論理構造を確認したら、ひたすら文章を追っていく。文の流れから次に来る文を予測することができる。問題提起文の後には、なぜそのようなら問題が生じるのか、詳説する文が来るはずである。原因を述べた文の次には、再び問題の一つ一つを具体的に詳説する文が来るかもしれない。詳細に問題点を掘り下げていけば、本当に問題なのは、何かが鮮明になってくるかもしれない。そうなると次に来る文は、新たな真の問題点の提起かもしれない。作者は、次に何を書こうかと考えながら、論理法則に従い、文を書いている。そのことを理解すれば、作者の動機・意図が透けて見えてくる。作者が書きたかったこと、その強い衝動、突き動かされる動機、そういった心の陰影が透けて見えてくる。
 読解とは、文の流れを追いかけることである。文の流れに従って、文の展開を追うことである。作者は、あなたたちに伝えたいために、あらゆる策を講ずるであろう。自分の伝えたいこと(それは抽象的な価値観、命題の形をとる)を抽象的な定義で示すであろう。しかし、それでは、読む人は、わかってくれないことを危惧する、だから、具体的な例示でわかりやすく説明するのだ。こうして作者の論理の意図に従い、文章は流れていく。読解とは、この文章の流れを丁寧に追うことなのである。丁寧にとは、文章の意味を理解しながらという意味である。私たちは、文章の一つ一つの意味を反芻しながら、その意味を追う。意味が曖昧とか、不明とか、いうときは、もう一度読み返す、いや何度でも読み返す、そして反芻(はんすう)する。そこからつまり反芻の過程で脳が咀嚼(そしゃく)する。つまり意味を読み解くのである。先程読解とは文章の流れを追うと言ったが、より正確には、文意を「繋(つな)ぐ」ことである。文章の意味を繋ぎながら読み進めること、これが読解の正体である。
 整理します。文章は、第一文から、その意味をとり、その意味を第二文の意味に繋ぐこと、そしてさらに第二文の意味を第三文の意味に繋ぐこと、その連続を言います。こうして意味を繋ぐことを文章の流れに従って読む、と言います。
 文章の論理構造を解析することを文を要約する、と言います。問題提起文→承けの文、ここで問題の生起する原因に触れる→問題のありかを探る→反論をあげる→反論の根拠を示す→反論の反論、反論の根拠潰し→自説を展開、自説の論拠を説明→止揚(しよう)する(結論)
 まず文章の論理構造を解析して、文を要約することです。この訓練を重なることによって、読解力は飛躍的に上がるはずです。
 そして文章は、徹底して、流れを意識し、丁寧に読め‼️ ということです。

 反芻と咀嚼こそ読解の生命です。

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