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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

穏やかな天候に恵まれたことを感謝して12歳の試練を思い、心を痛めております

2018.02.03

 おはようございます。小6のみなさんが竹の会を去り、今日は「この日」をずっと目標にしてきた「この日」となりました。なかなか思うように勉強してくれない、家庭の事情で勉強は後回し、課題を出してこない、などなどいろいろ私を悩ませてきたこともありましたが、みんな竹の会が大好きでとにかく自分たちなりにがんばってきたのだと思います。小5になって来た子たちばかりで時間が足りないことが後半に失速する原因となりました。わたしが慌てて過去問合格法を打ったのも窮余の一策でした。さてこれが起死回生の一策となりますか。とにかく子どもたちはよくがんばりました。1日、2日といろいろ考えることもあり、子どもたちのことを思うと不安で、こういう気分ではとてもブログは更新できまいと諦めておりました。加えて心から信頼しておりました中2が退塾の余儀なきことになりまして、こちらの気持ちの整理も必要でした。ただこれで「必ず日比谷をとる」という強い、プロの精神が蘇ったようです。竹の会が成功してきたのは、言葉は悪いが、駒がわたしの思うとおりに動いてくれたからです。わたしの思う通りに動かない駒は失敗する、これは経験的真理です。駒が動かない理由が、本人にあるのか、はたまた親なのか、それは問いません。とにかくわたしの思う通りに動かないのが失敗の原因です。これは高校入試に限らず中学受検でも変わりません。中学受検の場合も家庭という親が邪魔をするというのが大きいけれど、また幼い子どもですから子どもが駒として動かないということは往々にしてあることだからです。高校入試の場合に親がいろいろと口だしをする、受験を差配する、そういうことはこれもよくありまして、これは失敗の法則の一つとしてわたしの中には整理されております。駒が動くとは、わたしの指示が100%遵守されることです。中学なら指導時間中にずっと居眠りをするなどという行為はすでにして駒制御は不能な状態です。これはそもそももっとも大切な精神が消失しております。真摯さ、ひたむきさというものが欠片もなくなった中学生はもはや駒としては使いものになりません。よく欠席するというのも駒たりえません。塾で平気で宿題をする、試験勉強をずっとやっている、これも駒が本来の駒として動いていないことには変わりません。だからこういう生徒は早々に退塾すべきでありました。現中1には、指導レジュメを満足に進められないと認めうる生徒も出ていますが、正直退塾のタイミングなのかもしれません。竹の会で指導レジュメを怠けたら結果は火を見るより明らかです。もはや駒ではなくただの無名の木駒に過ぎません。わたしが駒を打つことなどできないでしょ。中1については、これが最後の苦言の機会となるかと思います。わたしにとって何がストレスかと言えば、わたしの思うように駒が打てない、先に進められないことです。課したものがそのままになってしまう、こういう子は竹の会にいてはならないのです。駒を動かしたつもりなのに駒が動いていない。わたしの思うように駒として動けば必ず次の手が打てる、それが竹の会の指導です。駒が動かないから次の一手が打てない、だからわたしは動くまで待つことになる。しかし、いつまでも動こうとしない駒を待つことはできないでしょ。次の一手が打てないままに、駒が駒としての生命を棄てた状態がいつまでも続けられるわけがない。頭がいいと自分で思っている、そしてそれなりに成績もいい、そういうのが一番始末が悪い。自分が駒になることをなにやかやと理由をつける、逃げるからです。こういうのに限って、自分の考え、親の考えがいちばん優れているとおもいこんでいる。失敗する人間というのは、頭で考えるばかりで、まず実行がないのです。つまり鉄の意志が欠落しているのです。甘い、自分を甘やかす「楽をしたい」という心と、実は何もわかっていない親の認識が、駒になりきることを否定するのです。

 竹の会で成功するには、自分が竹の会という将棋盤で戦っている駒であるという認識を持て、ということです。駒に徹して初めて敵将が獲れる、ということです。この竹の会という将棋盤に乗る時期も大切です。小4の早期、これをおいて絶好のタイミングなどない。駒が駒として「はたらく」、駒の基本を徹底的に体にたたきこむ、これである。小5では、この「定義」の段階がない。小5以降の入会の9割が、この「圧倒的」定義段階の欠落が命取りとなる。いやなってきた。小4という遊びの期間、ゆとりの期間にゆっくりと駒の動きから駒としての自覚を習慣づけていく、これが後々の「伸び」を約束することになる。小6の後半によく失速するのはこの「伸び代」を作る予備時期がないからである、それどころか、時間的な不足がもたらす理解不足が積算されていき、「解けない」壁ができてしまうからである。

 もちろん小5の9月にきた子たちでも、駒としての自覚の強い子は、徹底して駒として動こうとするから、早くから竹の会にいたとしても、自覚の薄い子を凌ぐことになる。

 こうなってくると、受験の成功は、駒として、駒になりきって、将棋盤にあることを自覚して、差し手の思うように動くことである。もちろん指し手は「名人」である。

 竹の会に入会するとは、竹の会という将棋盤の駒になりきることである。駒になることの自覚のない子は、中学でも小学でも、脱落するほかない。厄介なのは、親が竹の会に預けて、竹の会という将棋盤の上に駒を置いた認識がまるでないことである。だから平気で親が駒を動かす。こういうことをやる親というのは、小学でも中学でも必ずいる。他塾でならそういうモンスター的行動も丁重に扱ってくれるでしょう。お客様ですから。けれども竹の会にはそういう親は願い下げです。

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