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竹の会の38年 難関校受験の道もまた愉し

2023.06.03

竹の会の38年 

亡母の心が私に宿るのか‼️
 母が生きている頃は、竹の会の合格報告を楽しみにしていました。母は、竹の会を始めた頃、わたしに、「塾を天職だ❗️」と言ったことがあります。母が、何を根拠にそんなことを言ったのか、もしかしたらという心当たりはありますが、わたしは母の言葉をずっと心に秘めてわたしは竹の会と共に歩んでまいりました。
 母が生きていた頃、毎年夏の後半に実家帰省するのが、我が家の行事でした。いつも一週間ほどの滞在で、あっという間に帰る日がやってきて、いつも母は玄関横の居間の窓から見送りをしました。涙声で、本当に泣きながらわたしたちを見送ってくれました。わたしは次第に年老いていく母の姿が私の胸に突き刺さり、なんとも言えない思いに駆られました。
 まだ竹の会初期の頃は、母も元気でわたしは本当にうれしかった。母が元気なことがわたしには何より生きがいであり、生きる力を与えてくれました。
 母は、毎晩塾が終わった頃、電話をしてきました。その日あったこと、体の調子、たまに塾に起こった事件、揉め事なんかを母に話して、母から言葉をかけてもらうことが、わたしには、薬でした。
 わたしが、熱を、出したというと、それはそれは母は心配して、あれこれと言ってきたものです。
 夜が明けると朝一番にもう電話が鳴りました。母は私が体調を崩すともう心配でたまらなかったようです。
 両親は、私が大学を卒業したら、就職して、いずれは一緒に暮らしほしい、と思っていたのではないでしょうか。大学を卒業したら大人しく就職してひっそりと生きていくのも、悪くはなかった。今はそう思います。よりによって東京の塾激戦区で塾をやることになるとは。

 わたしの、竹の会の38年は、決して波静かな道ではなかった。常に数年先を見て、これからの塾のありようを先取りし、予想し、指導法の研究、教材の開発、私自身の様々な学科の勉強、と精進を重ねてきました。難関校を受ける子がいるときは、朝から晩までその研究と対策に追われた。常に過去問を解くのは、日課になっていました。実際に過去問を解いて初めて何か語れる、と信じていた。一般的な傾向なんか何も役に立たない。過去問を解くというのは、背景に、陰に隠れた出題者との対話をする、ということでもある。なんでこんな問題出したの? 難関校の問題はとても時間内に解けそうにない問題がある。時間内に解けないということは、この問題に関わったら、時間をドブに捨てる、いや捨てさせる、という魂胆か。今年限りの問題か、特殊過ぎて二度は出せない問題、形を変えてまたどこかで出せそうな問題、テーマの本質を突く、いい、良質の問題、過去問世界はなかなか多様であり、奥が深い。

 塾をやるということは、続けるということは、なかなか楽なことではない。竹の会のような、さしたる宣伝手段、資金を持たない小塾、個人塾では、生徒を集める手段は限られている。大手に人が集まる、その時期は、3年ほどの周期をなしていたように思う。一時期狂ったようにみな大手に行くけれど、突然大手離れが起きる。そうすると竹の会のような個人塾を訪ねて来る。大手で失敗した人の大手離れの時期、それからまた3年が経ち、大手に人が戻る。これは3年経ってちょうど中学卒業していなくなる。そうするとまた新しい親たちは大手に群がる、そういうことなのかな、と思う。もちろんかなり大雑把な掴みではありますが、竹の会は、そういう親御さんたちの呼吸の中で生き抜いてきたように思います。
 

 竹の会は、私の母の中にずっと生きて来ました。母は、いつもわたしのことを、竹の会のことを、心配して、気にかけていました。その母が、死ぬ半年前ぐらいのこと、単身帰郷したことがありました。初めてわたしに、家を継いで一緒に住んでほしい、と弱音を吐きました。死期の迫ったことを母もわたしも知る由もなかったのに、しかし、天の定めをもしかしたら感じ取っていたのかもしれない。「この』父とは一緒にはいられない。わたしがそう決意して家を出て、誰も知らない東京に出て、塾を開くことになるとは、わたしさえ予想し得ないことであった。
 九州大学法学部法律学科を卒業したとき、就職して、平穏な人生を歩むこともできたはずだ。しかし、わたしは、昔からマイナーな方ばかりを選択する性癖があった。これは、司法試験を受けたとき、思い知らされた。選択肢を2つに絞ると必ずあり得ない、マイナーな方を選択してしまうのだ。考えて見れば、人生の選択において、わたしはそういう選択ばかりをしてきたのかもしれない。
 最後に、竹の会を選択したのは、どうなのだろうか。塾という仕事は、親の死に目にも会えない、ということをその時になるまで気がつかなかったというお粗末ぶりであった。よく役者が公演中は親の死に目にも会えないということを言いますが,それは我が身のことであったとは。
 さて、それでも竹の会を選択したことはどうなのだろううか。その答えは、いつか郷里の母の眠る墓に帰ったとき、母さんに訊いてみたい。わたしは、郷里の、今は弟夫婦が跡をとり、管理する実家に帰るのではない。管理といったのは、弟夫婦は、父の自慢の家の隣の土地をひょんなことから手に入れて、今はそこに居を構えているからです。母が死に、父一人となってからの話しで、それからは弟夫婦が父の手足となり、助けて来ました。わたしが帰るのは、今は、母が住む、墓です。母が住むのは、冷たい赤土を敷き詰められた上に立つ、御影石の冷たい石です。わたしは、母の家へ一直線に向かうでしょう。いつも優しく微笑んで、わたしを見ていてくれた、母の住む石にわたしは、「母さん、帰りました」と言い、「あー、疲れた」と母に甘えるのかもしれません。
 竹の会は、母と共に生きて来た。その母も他界し、わたしは、何を支えに生きていけばいいのか。心は重く沈み、それでもわたしは竹の会に生き、竹の会で生きて来た。子どもたちを指導するとき、その中で、悲しみを忘れることができた。いやそれはそういう刹那が一瞬でもあり、わたしはその瞬間だけ「忘れることができた」。そうだ、わたしは、母のいない悲しみ、寂しさを竹の会で忘れることができた。竹の会は母のおかげで38年もの長い間を風雪に耐えて生き抜いてこれたのだとわたしは知っている。竹の会は母の魂であり、竹の会の中にいつも母はいた。わたしは、竹の会をいつも気にかけて心配してくれた母の心の中にいると感じられた。母は私のことを心配し、最後まで東京で一人ぽっちのわたしのことを心配し、竹の会の生きながらえることを願ったのです。その母の、心の中にあり続けた竹の会に私は生き続けてきた。竹の会を生きることが、母と共に生きることであった。
 わたしが,竹の会の子どもたちを心から慈しんできたこと、それだけは偽りはない。だって,それが母の心だったのだから。そのことはわたしだけが知っている。それでも真意を理解されない、怨まれる、それが塾という仕事なのだ。塾とは、理解されない、職業なのだ、とよく思う。

 波騒(なみざい)は世の常である。
 波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い 雑魚は踊る。けれど、誰か知ろう、 百尺下の水の心を。水の深さを
 吉川英治 「宮本武蔵」

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