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表にする整理の功罪~表とは抽象化の一つの形

2022.04.30

 

◎表にする整理の功罪~表とは抽象化の一つの形
 最近は、参考書も、完全整理を売りにするものが、さながら人気を呼んでいる。書店には色彩豊かな、誠によく整理された、至れり尽くせりの参考書が並んでいる。これを買ってみようか、という気持ちになるのも無理はない。
 表を駆使して、難解、複雑な知識を整理する。これを自分でやるのはなかなか大変です。元の本を理解し、まとめるというのは、極めて抽象化能力を要することで、この作業が抽象化を高めることは間違いありません。まとめたもの、つまり他人が抽象化した本を便利に使うというのは、結局、大切なものを失っているということでもあります。ただ覚える、暗記するだけの勉強というのは、実は、それほど実力は伸びないものです。抽象化を抜いているからです。
 資格試験の予備校LECが、択一カードという本を出したことがあった。内容は完全に表したもの。この種の手合いは、かなりのリスクを背負うことになる。
 いきなり他人の整理した表である。まず、その意味を理解しなければならない。それに完全に表にしてしまうと、表を読むというのが、実は中々に苦痛となることがわかる。人間の頭というのは、そもそもと論理、趣旨から説明してもらわないと、特に、私のような文章と付き合ってきた人間には、いくらこれが完全整理だと言われても、拒否反応が強く、頭に入らない。整理というのは、整理した者が一番よくわかっている。整理というのは、理解、特に、相関関係、交叉関係を理解しなければできないからである。いや整理していくこと、そのことに、理解を深めていく効果があるのだ。表にするというのは、抽象化するということであり、表とは、比較する、という本質を持つ。つまり、抽象化というのは、比較化するというのに等しい。
 だから、他人の整理したものは、他人が理解した結果の記録であり、それを初めて見る者にはいわば理解を飛ばした、整理表であり、改めて理解の跡を辿るしか理解のしようがないのである。
 昨今の参考書は、実に、よくまとめられている。予備校や大手進学塾のテキストが、よく整理され、網羅的であるのは、功罪ありである。なにしろ最初の考えるというところが、省略されているから、ともすれば暗記教材に堕することになる。
 

◎羅列知識の暗記の問題
 羅列知識が、そもそも必要なのか、というところから、問う必要がある。もし必要だとすれば、その羅列の一つが試験に出た、それだけの根拠であろう。例えば、10の知識が、ある範疇に属するとして、その中の1つが「その範疇に属するか」問われたとする。それならば、その類いの問題に正解を取るには、10全てを覚えなければならないか、と考えるのが普通の人間である。それを肯定する者は、語呂合わせを工夫したりと、とにかく覚えるための労力を惜しまない。
 しかしである。常識的に考えてみよう。もしそんな暗記を要求するなら、それはおかしい、常識からおかしい、と考えなければならない。10のうちなぜその中の1つだけ出されたのか。それはその10を全部覚えているか、を試したのか。問題はそこにある。別の1つが出る可能性はあるということか。普通は、「ある」と考えるのだろう。よく過去問で出たものの周辺をやっておくべきだというのは同じ発想である。私たちはそこを当然と考えている。果たして、そうなのであろうか。出題する側はいったいどう考えていたのだろうか。出題者は、受験生に神の記憶を要求したのだろうか。そうではあるまい。覚えなくても正解を出せる、と考えている。試験は神の子を選ぶのではない。常識的な考えを試しているのではないか。それならば勉強だって常識的な範囲で対策をとれば済むはずである。制度の趣旨とか、コンセプトとか、そういう抽象的なハコを理解し、そのハコに入れるものかどうかの概念検証をしているか、そういうところを問うているのではないか。私は、一覧性ある表、比較表、分類表が、苦手である。それは、それらが暗記の対象にしか、見えないからである。見えないのである。そう、そもそものハコが。
 暗記というのは、中学生、高校生を苦しめるものであることは間違いない。
 東大合格者は、この暗記試験を切り抜けてきた者ということか。
 暗記の工夫はしたに違いない。
 ノートにまとめる、語呂合わせを作る、カードにする、マーカーで線を引く、重要なところを黒塗りにする、いろいろやったに違いない。
しかし、何かが違う、違和感? いや常識からおかしいのじゃないか。実は、覚えなくていいのではないか。出題者は、覚えろ、と求めてないのじゃないか。
 私たちが、「なにか、おかしい」と一瞬過ぎるような違和感、これには理由がある、と私は思うようになった。違和感を感じたとき、気のせいと流してしまう、これが後々重大事態の徴憑だったりする。気のせいと思うのは、正常性バイアスのせいである。私たちの心は様々なバイアスから絶対に逃れられない。私たちは、常に、洗脳のリスクの中にある。有名教授が言った、有名人が愛用している、権威ある医者が断じた、テレビに出ている弁護士が言った、テレビCMで繰り返されている、新聞が報じた、そういうものが無意識に脳を洗脳していく。今では、ネットには、デマが氾濫している。私たちは、常に洗脳の危機にある。バイアスを持たない人間なんかいない。
 さてこれくらいにしておきますか。
 そういうわけで、常識から、考えてみる。すると羅列知識は、覚えなくてもいい、抽象化すること、ハコを考える。つまり、羅列知識の共通点からハコを作ることが求められていることだ、と思い至る。
 抽象化というハコを作ること、これが勉強のコツだ。
 その上で、暗記も実は面白いと思う。私なんかは、語呂合わせの名作を作るという創造は、これはこれで面白いのではないか、とよく考える。
 語呂合わせの名作は、ユーモアとショートストーリーという要素をうまく活かしているものがいい。簡潔な語呂に、ユーモアと場面カットが絶妙に出ている語呂には面白さがある。
 繰り返そう。表というのは、抽象化の一つの結果であり、勉強の本質である、抽象化する過程の労力をしないところに、違和感がある。

 

◎国語の解き方 第4回 主観と客観

  定義

  主観というのは、自分だけの考え、感じ方のことである。これに対して、客観というのは、全員に共通する考え、感じ方のことである。

  主観と客観は、国語では、本文の中で対比的に使われることが多いのです。考え方としは、まず主観を理解し、単純にその反対が客観だと考えればいいと思います。

  「自分だけの考え、感じ方」とは、他人から容易に反対意見が出るものであり、例えば、「この料理は美味しい」と感じても、万人が同じ意見ではありえないわけです。こういう問題には実は正解はあってないようなものです。カラオケ番組を見ていると、「これはうまい」と専門コメンテーターが評価しても、実際の点はそれほどでもない、となると専門家でさえもただ「自分だけの考え、感じ方」を述べているにすぎないわけです。

  客観とは、突き詰めれば、数学、科学しかなくなる。しかし、普通に、客観というときは、ある程度の学力、教養を備えた人々を想定していて、そういう人たちが持つ考え方、感じ方ほどのことを言っている。だから、客観というのも、実は、主観から共通点を抽象化したもの、と定義したほうが正確かもしれません。

  国語の中では、主観は意見としてとらえられる。客観は事実としてとらえられる。もちろん論説ですから、事実よりも意見の方が大切です。

  こうして本文の中から、つまり、文章を読みながら、いかにして、主観的な内容を探すのか、というのが、読解の方法となります。

 

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