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都立トップ高校をめざす人たちへ

2023.03.31

中学は死にものぐるいで勉強してなんぼのとこ‼️
 もし都立日比谷とは言わなくても、国立、西、戸山、青山あたりに行きたいと思っているなら、生半可な覚悟では、やらないほうがいい。
 中学は、勉強してなんぼのところだ。それを何を勘違いしたのか、部活で中学生活の全部を潰して平気な親子が多数いる。中には、親が率先して部活をやらせる例も多々あったが、それでも日比谷に受かると信じる親子がいたのには正直あきれた。中には、学生時代を勉強だけで終わらせるのは、人生としてどうなのか、とわたしに批判的な親もいた。それは間違っているという問題ではない。個々の考え方である。子どもが、部活を謳歌し、Fラン高校に行き、Fラン大学で、また部活、趣味、青春を謳歌するという人生を歩むのも、何をするのも自由である。他人の勉強する生き方を自分の価値観から批判するのは、自分の価値観が唯一とするもので、それこそ余計なお世話である。人は自分の生き方には自分で責任を取るのであり、それ以上に批判される筋合いはない。
 わたしは、都立戸山に入る、入りたい人の話しを、している。そして、国立大学、早慶をと希望している人の話しをしている。
 大学はどこでもいい、高校もどこでもいい、という人の話しをしているわけではない。
 考え違いしている人がいるのは、中学だけではない。めでたく戸山に入れば、それで勉強は終わりというわけではない。高校に入った途端、これまで以上に勉強しなければならない。高校は勉強してなんぼではなく、高校は勉強一色しかない、ということである。勉強がそのまま国立大学、早慶を決める仕組みなのであるから。
 中学を部活で潰して、Fラン高校に行けば、それなりの人生が待っている。ただそれだけのことである。
 それで学園生活を部活で充実して過ごして満足だったというのなら、それも個人の自由である。
 わたしは、都立上位校をめざし、将来は、国立大学、早慶、少なくともマーチをめざす人をのみ対象にしている。部活で将来の上級国民への道を潰す人を指導する塾ではない。
 中学は、勉強する機会であり、さらに良質の勉強の環境を求めて、私たちは、トップ都立かそれに準ずる都立をめざすのである。あるいは、難関私立をめざすのである。
 親が子どもに能力があるのに、部活にしても、単なる怠惰にしても、勉強しない生活に堕することに、寛容ならば、親も同罪である。それが親の価値観(子どもが下級国民になる道を選ぶことになるという)の選択である。
 中学に入ったら、勉強で駆け抜ける、一気に駆け抜ける、それがわたしの考える中学という通過過程である。
 もしあなたたちが、将来大学を見据えて、いやもしかしたら職業を見据えて、今の時間の価値を考えるのなら、あなたたちは、時間を浪費することはできないはずだ。行動の基準は、「無為なる時間を過ごしたか」である。これから行動すること、それが無為な時間を過ごすことになるのか、よく考えてほしい。将来の目的が、なりたい職業に就くことなら、勉強以外の行動は原則「無為」である。もちろん体力をつけること、それは当然有為と言える。しかし、将来職業を得るには、何かを犠牲にしなければならない。私たちは「生きる」ということの意味を考えてみなければならない。「生きる」とは、犠牲なしにはできないことなのである。私たちは、他の生物を犠牲にして生きていられる。これが、自然の法則である。人間が生きるとは、職業を得ることである。職業を得るのは、生存競争、つまりこれが自然の法則の正体であるが、に勝ち抜き、裏から言えば、他人を犠牲にして、勝者の道を勝ち進まなければならない。
 生きるとは、他人を、他の生物を、犠牲にすることである。今、ある時間を無為に過ごすことは、他人を犠牲にすることはないから、その意味では、いい人生なのだろう。部活で喜びを得るのは、充実した人生なのだろう。しかし、あなたたちは、そのために、自分を犠牲にして、つまり、勉強したものの犠牲になって、将来を下級国民として生きて行くことになる。
 無為に過ごせば、下級国民としての人生、勉強をこその生き方をすれば上級国民としての人生、そう振り分けられている。
 わたしたちの「生きる」は、他の生物の犠牲の上に成り立っている。これが生存の本質である。私たちは生きなければならない。生きるとは、職業を得て、食べること、である。生きるとは、何かを犠牲にすることを本質とする。生きるとは、他の生物を犠牲にすることにほかならない。だから自分の我欲を生贄にすることは当然の代償である。あなたたちは、生きるということの本義を忘れている。いや他人の生命、他の生物の生命を犠牲にして、初めて自分が生きながらえられるというあたりまえのことを知らないか、知ろうとしない。
 ありもしない理想を掲げる宗教でも政治でも万人の幸せなんかあり得るわけはないのである。なぜって、人生は、生まれた時から生存競争の中に放り出され、最後は死ぬまで、生きるために、戦わなければならない。生きるとは、戦いであり、それは、他人の犠牲の上にのみ成りたつことなのである。
 あなたが、日比谷に受かれば、落ちる人はいる。落ちた人は落ちた人でまた生きるための選択をしなければならない。受かった人だってそれで安心なわけではない。推薦で受かれば、普通は成績は低迷する。いわゆる落ちこぼれになる蓋然性が高いのだ。日比谷は、開成、慶應などに受かった子、惜しくも落ちた子たちが、圧倒的に上位を独占するだろうから、内申を武器に日比谷を受けた子たちが上位に出る幕はない。
 ただそういう子たちにもチャンスがないわけではない。それは高校というのは、部活などで勉強を疎かにする者もたくさんいるからだ。つまり、戦力外通告が多数いる。だからこつこつ毎日努力した者が浮上する例がかなりあるからだ。高校というのは、毎日最低5時間、理想は7時間勉強した者は必ず気がつけばトップに出てくる。高校で気をつけなければいけないことは、「わからない」ことをそのままにやり過ごさないことだけだ。数学がいちばん「わからない」ということが多いだろう。だから都立高校の生徒は、ほとんどが、数学で落ちこぼれる。つまり、生徒はまず数学で篩い落とされる。篩い落とされた者は、英語が得意ならなんとか私立大学に逃げ込むことだろう。
 数学だけではない。化学、物理の「わからない」ところは即日解決しなければならない。そのためにいいとされる参考書にはカネを惜しまないことだ。わたしが高校のとき、チャート式数学が必携だったが、東大に行った同級生の家を用事があって訪ねたとき、部屋に絶対に入れてくれなかった。ちらっと見えた部屋の中には、本棚があり、その本棚には、わたしが欲しかった参考書がすべてびっしりと並んでいた。そうなのだ。東大を受けるにも、必要な参考書をすべて買えるだけの財力が必要だったのだ。もちろん先輩には、貧乏ながら東大に受かった人もいた。つまり、天から授かった天賦の才が卓越していれば財力はなくても東大は受かる。
 高校とは、「わからない」ということをどう切り抜けるか、それがすべてだ。老婆心ながら、教科書がいちばんいい、大切だ。特に、定義のところはこだわって、わからないときは、必ず定義から考え起こしてほしい、ということだ。高校生のときは、そのことに気づかないで、教科書を読まないで、いきなりチャート式なんかをやったりする。化学の教科書の定義の説明のところを飛ばし読みして、いきなり参考書で勉強する。そうすると基本とつながらないのだ。重要そうなところをスポットで理解していくというスタイルみたいなものが身についていくが、定義から考えたことがないので、常に体系性のない、断片的知識の寄せ集めとなる。
 大切なものは何か。それは定義である。定義を頭の中でなんどでも反芻することである。そうすれば、必ず問題の意味が見えてくる。数学でも問題を解くとは、問題の核心をとらえることである。問題の核心は、まず国語的意味から意味をとらえる。設定、仮説、仮定をとらえる。その上で、数学的意味をとらえる。何か概念が使われていれば、定義に言い換える。その上で、数学の意味を考える。化学、物理などは特に定義が重要である。まず最初の仮定、定義がその後の概念の定義を仮定するのだから。
 わたしは、都合そのようなコンセプトで高校生に数学を指導してきた。
 わたしは中学を勘違いしている人にこの文章を読んでもらいたくない。中学を部活で潰す人間にわたしの言葉は通じない。いやそもそも「生きる」ということ、そのことを真剣に考えたことのない人間にわたしの言葉が通じるとは思っていない。「生きる」とは、他の生物、他人の犠牲の上に成り立っている。

 現実のどうでもいいこと、下らないことに現を抜かしていれば、もう先は見えている。人が、生きるとは、未来を生きることを念頭に据えての話しである。生存競争はまやかしの民主主義やら人道主義、溢れるあなたたちをたちまち虜にしてしまう物欲主義にその本質をぼやかされてしまう。しかし、これから十年後、二十年後にあなたたちがどういう職業に就いているかがあなたたちに生存の現実を教えてくれるであろう。もうそのときはどうにもならないのであるが。

 

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